33.涼雨(11) 回想⑨ 穏やかな日々
どこか痛むところはなかったか。苦しいことはなかったか。違和感を感じることはなかったか。気分が悪くなることはなかったか。気持が沈む、あるいは興奮するといったことはなかったか。その他、何か気がついたことはないか。
術をかけられている最中の痛みや違和感は何でも言うようになった涼雨に、魔道士は、それ以外の時間の状態についても細かく訊ねるようになった。
それも術の調整をする上で、必要な情報らしい。
実際、かけられた時には何ともなかった制御の魔術が時間とともに苦しく感じられるものになったり、封印の作用で後からだんだん頭がぼうっとしてくるようなことはよくあった。くしゃみをした途端に全身の皮膚の感覚が消えたり、怖い夢で目が覚めると魔精の拘束具で腕がちぎれそうになっていたこともあった。突然顔面が痺れたり、涙が止まらないようなこともあった。魔道士にかけられた術が原因なのか、そもそも魔精の不具合なのか、それとも魔術とはまったく無関係の肉体的、または精神的な不調なのか、涼雨にはほとんど判断がつかなかった。だからとにかく、何もかも魔道士に伝えるしかなかった。我慢せずにいつでもすぐ呼べ、と言われたので、何かあれば、それ用に渡されている呪符ですぐに呼んだ。術の状態を監視する術の働きで警報を感知し、魔道士の方から様子を見に来ることもあった。涼雨自身が異変は感じたものの動ける場合には、居間や台所にいる魔道士のところに涼雨が自分から行くこともあった。
魔道士は、その都度、できるだけのことをしてくれた。
魔術とまったく関係ない体調不良だったり、たんなる気持の不調の時でも、淡々と話を聞いて、お湯を飲むように言ったり、薬をくれたり、症状をやわらげる白魔術をかけてくれたりした。
けれど、ちょっと痛いとか苦しいとか悲しいとか、些細なことをすぐに訴えるのはまるで甘ったれた子どもみたいだと涼雨には思えた。何だか妙に気恥ずかしく、腹立たしかった。
なのでつい、嫌な言い方をすることも多かった。
「あなたの術が下手くそなせいで、昨日はすごくしんどかった」
そんな風に涼雨が言っても、童顔の魔道士は表情も変えない。「それはすまなかったな」と言いながら、術の調整をする。
「昨日は別に問題なかった。あなたに腹が立ったぐらい」
涼雨がそう言っても、魔道士は「そうか」とだけ言って、黙々と術のチェックをする。
「ちょっとお腹が痛かったけど、たぶん頂き物のお菓子を食べ過ぎたせいだと思う」
自分でも屈辱的だと思いながら言うことがあったけど、やはり魔道士は「そうか」としか言わなかった。
黒いタールのような、禍々しい魔道士の魔精力が、いつのまにか「いやなもの」とは感じられなくなっていることに、涼雨は気づいた。
涼雨は毎日、家事をするようになっていた。
家政婦の壬豆さんは、涼雨が幼い頃からいろんな手伝いをさせて、さまざまな知恵と技術を授けてくれていた。だから家事に関しては、さほど困ることはなかった。魔道士の家に二日に一度宅配で届く食材は、切ったり茹でたり下ごしらえしたりして冷蔵庫や冷凍庫に入れるようにした。ご飯は一度に多めに炊いて、冷凍庫に保存した。朝食は具だくさんのお味噌汁とおかずとご飯を台所の小さなテーブルに並べて、一人で手を合わせていただいた。
何でも勝手にやっていいと言われたのだから、勝手にやらせてもらうことにしていた。
洗面所には大きな棚があり、患者用として、涼雨が渡されたのと同じ無難なデザインのトレーナーやズボン、その他量販店のものらしい衣類やタオル、衛生用品やシーツなどが納まっていた。涼雨はそこから適当なものを取り出して使った。着替えた衣類や使用した寝具、タオルなどは洗濯機で洗濯した。
掃除もした。風呂場はいつも、使った後についでに済ませた。洗面所の隣の物置に、掃除用具一式があるのを見つけたのでそれを勝手に使った。お手洗い、洗面所、あてがわれた自分の部屋、廊下、台所。それぞれきれいにした。居間は物が多くて掃除がしづらかったが、物は動かさずに軽く埃を払って、見えている床だけ箒で掃いた。
大体いつも、洗濯機を回している間に掃除をして、掃除が終わると洗濯物を籠に入れて干しに行った。術はまだ不完全で魔精力が隠しきれてないからということで涼雨は外出を禁じられていたが、台所の奥にある小さな庭には出てもよいと言われていた。そこは高い塀に囲まれていて、外部を遮断する強固な結界に包まれていた。置かれているつっかけサンダルに足を入れ、うっすら雑草の生えた地面を踏んで庭に出ると、隅に置かれた物干し台に洗濯物を干した。
青い空の下。風を感じる。鳥の声が聞こえる。
(変な感じ)
ふいに思う。
(夢でも見てるんじゃないかな・・・・・・)
本当に、これは現実なのだろうか。
日の差さない、施設の地下のじめじめした空間。コンクリートの柱に鎖で縛りつけられていて、ひたすら死を願っている。本当の現実は、今でもそっちなんじゃないのか。実際は、たんに正気を失って、幸せな夢を見ているだけなのではないのか。
(だって、こんなに穏やかな日々が来るなんて。そんなことがまさか)
けれども草のにおいはどこまでも本物だったし、突然消えることもなかった。
ある日魔道士は、大学受験用の参考書と問題集を持ってきた。魔術学校の図書館経由で入手したのだという。近場の学校案内もあった。教育学部のある学校だった。
「暇だろうし、受験勉強は早めに始めておいた方がいいんじゃないか」
魔道士は言った。
「え。学校案内・・・・・・受験って」
「小学校の教師になるなら、大学に行って教員免許をとる必要があるだろう」
「な」
「大学受験の勉強というのは大変なんだろう?俺は知らんが」
「私が、大学受験を、するの?」
「大学に通わなくても教員免許をとる方法はあるらしいが。それとなく魔術学校の司書に相談したら、まあ大学に行くのがいいだろうと」
「え、そんなこと言われても・・・・・・え?」
「大学に行かずに教師になるのか?」
「そうじゃなくて」
「じゃあなんだ」
――――これからのことについて。
現実的なことなど、涼雨はほとんど考えていなかった。
学校案内、受験の概要。ぱらぱらとめくる。
「・・・・・・受験料」
ふと目に止まった。
自分がお金をまったく持っていないのだ、ということに、涼雨は今更気づいた。魔道士は、入院費を無料にしてやると言った。だから何も気にせず暮していた。だけど、入院は三ヶ月程度、と言っていたはずだ。退院後、自分はどうなるのか。
「金のことを気にしているのか?」
「だって私、一Yも持ってない」
「受験料は出すし、生活費や他の費用も当面はこちらがみるが」
「それはいくらなんでもおかしいでしょう」
「おまえへの術構築で得られた知見でおつりがくる」
「そんなはずない」
「気になるなら将来返してくれ。教師になった後ででも」
出世払いなんて。本当に教師になれるかどうか、わからないのに?
「・・・・・・生活費とか学費のこと考えたら、とりあえずアルバイトとかをして・・・・・・」
「働いたことはあるのか?」
「ないけど」
「それよりも受験勉強をした方がいいと思うが。学力にそれほど自信があるのか?」
「ない、けど。でも」
「悪いがおまえにそんな両立ができるとは思えない。それよりは、さっさと教師になってくれ」
「なんでそこまで」
「そこまでも何も、おまえは俺に、『小学校の教師になりたい』という依頼をしたんじゃなかったのか?」
依頼?依頼というか。
あれは、あの山小屋で、魔道士を待っている間の、暇つぶしの妄想のようなものだ。
その程度のものだったのに。
「違うことをやりたいなら、何でも言ってくれてかまわないが」
魔道士は言った。
「違うとかそういうことじゃないけど」
「ないけどなんだ」
「依頼って・・・・・・仕事、ということよね。おかしいわよ。それであなたが費用を負担するなんて。私は報酬を払えないんだし、損なだけじゃない」
「逆だ。おつりがくる、と俺は言っているんだが。報酬は金とは限らない」
「お金じゃない報酬?」
「おまえの魔精は興味深い。術の構築もおまえの示す反応も、研究のしがいがあるものばかりだ」
そうなのだろうか。
本当に、自分は役に立っているのだろうか。
「とにかく、金は腐るほどあるから気にするな」
魔道士は言った。
そうは言われても、涼雨は気にせずにはいられなかった。




