31.涼雨(9) 回想⑦ 好きなもの
夕方になり、いつのまにか傷も服の破れもすっかり直した魔道士は、床に描いた魔法陣の中に消えた。
涼雨は立ち上がり、魔道士が汲んでポットに入れていた水を飲んだ。暖炉の火は燃え続けていて、室内は暖かかった。
(私が、何を好きだったか)
涼雨は考える。好きなもの。好きなものといえば。
砂映の姿が浮かんだ。自分に向けられた笑顔。情けなく困ってみせたりする様子。さりげなく器用な動き。たまに見せる真剣な横顔。
(会いたいな)
柔らかな響きのある砂映の声が耳に甦る。涼雨さん、と自分を呼ぶ声。
温かく、幸せな気持が胸に満ちる。
(でも、きっと現実の砂映くんはもうあの砂映くんとは違うんだ)
涼雨はそれを、自分に言い聞かせる。あれから五年が経っている。砂映と過ごしたのは三年足らず。それより長い年月が、すでに経っている。変わらない人間なんていないし、高校生の三年間では見せなかった面が、大人になって出てくることもあるだろう。たとえそうでなかったとしても――――涼雨は自分から、彼に別れを告げたのだ。嫌い、と彼に告げたのだ。少なくとも、「恋人の涼雨のことを誰よりも好きな砂映」は、もうどこにも存在していない。
(実在しないもの、と思うのがいい。砂映くんは、私の心の中にいればいい。それだけで、いい)
実際問題として、たとえどれだけ変わっていても、もしも目にしてしまったら、たぶん自分は平常心ではいられない。涼雨のことなど忘れて、別の誰かを愛している砂映――――そのさまを自分が目の当たりにした時に自分がどうなってしまうか。怖ろしくて考えたくもない。
(そうじゃなくて。そうじゃなくて。砂映くん以外。砂映くん以外の好きなもの)
どう生きたいか。何をして生きたいか。
赤月が亡くなるまで、涼雨が漠然と思い描いていた将来は、魔道士になることだった。
基本の魔力コントロールもできず、魔術などまったく使えなかったくせに、魔術学校に入れば何とかなるという変な自信があった。たとえ正規の方法で魔術を使えなかったとしても、誰にも容易には使えない魔法を自分は使えるし、豊富な魔精力もある。魔法や魔術に関しての知識も、偏ってはいるもののそれなりにある。魔道士資格はとれなかったとしても、何か魔法関連の仕事をしてそれなりにやっていけるだろう。それ以外、魔法関連の業界以外で自分が生きていくことなど、考えたこともなかった。魔術協会は自分に莫大な「投資」をしたわけだから、それを返すために魔術協会に貢献する仕事をするのはあたりまえだ。そう思っていた。
(でも、そんな義理はないのだとしたら)
そもそも、もしも魔術業界に絡んだ仕事をすることになったら、いくら魔道士が封印術を工夫してくれたとしても、涼雨の特殊性が他の術者にばれないわけがない。自身の魔精力を発揮するなら、涼雨は自分の異常さを周囲に知らしめることになる。今となっては、それはあまりにも危険なことのように思える。魔術業界で仕事をしたら、涼雨のこれまでのことを知っている人に関わる可能性も高い。いやそもそも、涼雨を施設収容すべしと判断した幹部たちがいるのに、自分が魔術協会に所属して仕事をするなんてことが可能なのか。
(あの魔道士、もしかして自分が根回しすれば何でもできると思ってる?)
そのあたりは謎だった。もしかすると何とかなるのかもしれない。
でも、改めて考えると、あの魔道士の言うとおり、自分は魔術業界でやっていきたい、とは思っていないかもしれない。他を知らないだけかもしれないが・・・・・・嫌な人が多すぎる。
(赤月ばあちゃんはいい人だったけど。・・・・・・綾巳さんと、日雁さんも)
彼らの顔が浮かんだ。
日雁さんはどうしているだろうか。
綾巳さんは・・・・・・目を、覚ましたのだろうか。それとも。それとも。
涼雨はぶんぶんと首を振った。動揺の上限値は観測され済とはいえ、魔道士がいない間にあまり心を揺らすべきではない。
(そうじゃなくて。好きなもの。・・・・・・したいこと)
子どもの頃に憧れたこと。
いつも大人たちの中にいた涼雨は、同じくらいの年齢の子どもたちと行動を共にすることに特別な憧れを抱いていた。みんなで駆け回って遊ぶこと。一緒の教室で、みんなで同じ教科書を開いて、一緒にお勉強をすること。同じようで違う、だけどほとんど同じ、でもそれぞれがいろんなこと考えて、それぞれが動いてる、そんな彼らを納めてる、箱みたいな学校。何度も何度も蝙蝠を飛ばして覗いていた、叱られてやめても気になって気になって仕方なくて、気がつくとまた見に行ってしまっていた、小学校。
あの空間が、大好きだった。
(学校に行きたい)
高校の教室で、その夢は少し叶えられた。高校生活は、とても楽しかった。
でも、あの特別に憧れていたものとは、ちょっと違った。
小学生の時に強く憧れた、見ても見ても飽きなかったのは、小学生が動き回る、小学校。
(小学校に行きたい)
何を考えているのだろう。
それはかなわないことだ。今から小学生になって、小学校に通うことはできない。
(でも・・・・・・あの空間で、今から大人として働くことならできる?)
例えば先生として。
(小学校の先生になる、とか)
勉強は、嫌いではない。
教えるのが得意かどうかはわからない。だけどできない人の気持はよく知っている。
万が一暴走したら子どもたちに被害が及びかねないし、現実的にはこんな危険な先生は許されないかもしれない、けれど。
(今、夢見ることぐらいはいいよね)
涼雨は空想を楽しんだ。
小学校の教師として、教壇に立ち、児童たちと接する自分を想像した。
涼雨が小学校の先生になりたいという夢を語ると、「いいんじゃないか」と魔道士は言った。
魔物の力自体は使えないことになるが、無数の蝙蝠たちや分身といった、複数の視覚情報を同時に処理できる認知能力は強みだろうな、とも言った。涼雨にとってはどこまでも、空想のお遊び感覚、夢物語だったけれど。
「魔精力は一般人の中でもかなり低い方、ほぼゼロになる。魔精感覚も今よりだいぶ鈍い状態になる。それでいいな?」
魔道士は念押しした。もしも今後も魔法を使いたかったり、魔術の道に進みたい気持もあるのなら、別のやり方を考えるが、と。
「魔法はいらない。でも・・・・・・本当にそんなことができるの?」
涼雨には半信半疑だった。
「理論上はな。後はやってみるしかない。そういう意味では人体実験だ」
「それはいいけど」
「痛みや不快感・違和感は、些細なことでもすぐに言ってくれ」
「そんなに気を遣ってくれなくても。私は、本当に普通の人みたいにしてもらえるならそれで充分だし、ちょっとぐらい・・・・・・」
「いや。おまえに気を遣っているわけではない。結果を他に生かすためには、感覚を正確に知る必要がある。おまえは我慢強いきらいがあるが、それをされると困るという話だ」
「まあ、言っていいなら何でも言うけど」




