28.涼雨(6) 回想④ 魔道士との邂逅
「こんなところにいたのか」
ふいに、間近で声がした。少年のような声質だったが、妙な落ち着きをはらんでいた。
「本体がどこかにいるはずだ、とは思ったが。まさかここまで離れた場所にいるとはな」
黒いタールのような凶悪な魔精。間違いない。つい先程まで、確かに施設の中にいたはずの、攻撃魔術の主だった。
涼雨がいたのは丘の上である。施設からはそこそこの距離があった。相手がここに来るなんて、まったく予想もしていなかった。
声に続いて、突然目の前にその魔術使いは姿を現した。
「ギッ?」
驚きのあまり思わず自分の上げた声があまりにも魔獣めいていたので、涼雨は自分でぞっとした。
「夢幻狼か。やけに巧く人間に化けてるな。・・・・・・耳と尻尾は出ているが」
明瞭な声でブツブツと呟くと、黒いマントのその小男はすっと右手を伸ばした。あまりにも突然で、涼雨には何の反応もできなかった。男のひとさし指と中指の二本が、涼雨の額にぴたりと当てられていた。涼雨は自分の首から下が、ぴくりとも自分の意思では動かせなくなっていることに気づいた。何らかの拘束の魔術が、瞬時にかけられてしまったようだった。
「それにしても妙なことを思いついたものだな。白にじ蛇と真珠蝙蝠の性質を利用して遠隔操作とは。現象として不可解な点もあるし、せっかくだから覗かせてもらおう」
そう言うと、魔術使いは呪文を唱え始めた。
(これは)
涼雨には、それがどういうものかわかった。協会管理の体系化された魔法技術、すなわち「魔術」ではほとんど使われることのない、古代言語の一種による呪文。
魔物由来の魔法の制御方法を模索する中で、赤月はさまざまな古い魔法の文献を涼雨に読ませたものだった。
「魔術」としてよく使用されているような魔法の呪文は、大抵が近現代の使いやすい言語に置き換えられている。古語は概して複雑で難解である。古語でしか残されていない呪文、それが置き換えられていない最も多い理由は、いわゆる「禁術」だから、ということだ。机上の研究に用いるのはかまわないが、発動はしてはいけない「禁術」。
(精神に干渉する類いの魔法は禁術認定されたものが多い)
なぜ禁術にされているのかといえば、多くの場合はそれが危険であるからだ。
精神への影響は想定がつきづらい。下手をすると精神崩壊などを引き起こしうる。
「う、うええ、あ、あが、あああ」
涼雨は必死で男の術に抗おうとした。
けれども額に当てられた指から直に高濃度の魔力を流し込まれている状態では、なすすべがなかった。涼雨は思い出していた。まったく同じものではないのだろうが、他人の精神を覗く秘法について説明されていた古書のページ。墨筆か何かで描いたような、古い文献特有の荒々しく奇妙なタッチの図解。口を半開きにし、目をぐるぐると回して精神を覗かれている男の姿。
(私も今、あんな風になっているのだろうか)
(正規の魔術使いが禁術を使うなんて許されないはず)
(ちがう。人間相手だと許されないってだけ)
(この男は許される)
(人間扱いされないってこういうことだ)
(私だって人の精神に干渉した。ついさっきだってたくさん人を操った)
(だけどなんで操ったかって、だって私のことを人間扱いしないから、だから)
(でもなんで人間扱いされないかって、それは私が魔物の力を使うから)
(でもなんで魔物の力を使ったかって、それは私を人間扱いしないから)
(でもなんで人間扱いされないかって、それは私が魔物の力で人を傷つけたから)
(私は許されない)
(私は許されない)
(だって私は人間じゃないから)
(だけどおまえは人間だと言われた。だからがんばれと言われた)
(だけどおまえは人間じゃないと言われた。だから何をされても仕方ないと言われた)
(だけどおまえは)(だけどおまえは)
容赦なく頭の中を荒し回されながら、涼雨の思考は空転していた。表面的なその意識が、今覗かれている部分にどう映っているのかは、涼雨には知るよしもない。そもそも今、魔術使いにどんな形で何をどう見られているのか、涼雨にはわからない。ただ、腹の底から脳天まで、何かどす黒い液体が渦を巻いているような、とてつもない気持悪さに苛まれていた。
少年のような顔の魔術使いは、無表情で涼雨の精神の中身を観察し続けていた。
だが、ふいにぱちぱちとまばたきをすると、言った。
「おまえは・・・・・・人間なのか?」
言いながら、精神干渉の術を緩めた。
膝を折り、のけぞるように顔を上向けほとんど白目を剥いていた涼雨の目が、焦点を取り戻した。
闇のような空に浮かぶ白い満月が、ドロドロに泣いて濡れに濡れた涼雨の目に映っていた。
「それを、私に、訊くのか」
涼雨は呟いた。
次の瞬間、涼雨は涼雨の姿を失った。
かけられていた拘束の魔術は弾け飛んだ。蓄積されたあらゆる怒りと悲しみが怒濤のような感情の奔流となり、天に向かって突き上げた。その感情のエネルギーはそのまま魔精をまとい、実体を持ち、巨大な白蛇となった。涼雨の肉体はその瞬間に消え去った。これまでの白にじ蛇は分身に過ぎなかった。だが今回は、夢幻狼も、真珠蝙蝠も、人間としての涼雨も、すべてが収束してただ一体の白にじ蛇となったのだった。その白蛇の額には一本の角があった。鱗の輝きは、これまでのものとは比べものにならなかった。大きさも、これまでの数倍、長さはおそらく十メートルを超えていた。
白にじ蛇は、鎌首をもたげて丘の上の魔術使いを見下ろした。
(殺してやる)
ただその意思だけが、蛇の身体を満たしていた。
すっと頭部を下向けると、蛇の角が弾丸の速さで伸びた。角は見上げていた魔術使いの胸部を刺し貫き、地面まで到達した。「ぐっ」魔術使いはうめき声をあげた。小さな身体からどぽどぽとあふれ出た血液による血だまりが、蛇の角の根元からしたたり流れ落ちた透明の毒液で淡くなっていった。びくびくと痙攣を起こしている黒マントの小男を串刺しのまま持ち上げると、蛇は頭を振ってその身体を空中高く放り投げた。痛覚を刺激する毒水を口から霧吹きのように全身に浴びせかけ、そのまま空中で発火させた。炎に包まれたその身体を口でキャッチした。自身由来の炎は、蛇の魔精を害さなかった。そのまま呑み込んでやろうとも思った。多くの場合、強力な魔精というのは魔物にとってはご馳走のようなものである。だが、その魔術使いの魔精は、ひどく強烈な、本能的嫌悪を引き起こすものを発していた。凶悪なほど強力なくせに、単純に言うとひどく不味そうだった。頼まれても喰らいたくはないような代物だった。そこで蛇は、鋭い牙でその男の身体をかみ砕くと、べっとそのまま吐きだした。ずたぼろの雑巾のようになった黒マントの小男は、べしゃりとあっけなく草の地面に落下した。
(みんな殺してやる)
夜風が吹いていた。施設の中にはまだ人間たちの気配があった。それ以外のあらゆる場所にも、人間たちは無数にいるだろう。
(殺してやる)
白蛇は、まずは施設に向かって飛んで行こうと空中で身をくねらせた。
けれどその瞬間、ぴしっと空間に亀裂が入ったような異変が生じた。月夜の下、泳ぐように空中で身をくねらせた姿のまま、白蛇は樹脂で固められたかのように動けなくなっていた。
何が起こったのかわからない白蛇の視界に、風の魔術をまとって宙に浮かび、こちらに向かって手をかざしている男の姿が映った。念入りに傷つけて、つい先程までゴミのように地面に転がっていたはずだった。なのにその黒マントには、もう破れも血の汚れも見当たらなかった。少年のような白い顔にはいくつかの傷がまだ残っていたが、それもみるみる消えていった。
「・・・・・・まだ泣いているのか」
瞼のない蛇の目を見て、魔術使いは呟いた。
白蛇は全身全魔精の力を込めて身を震わせた。透明な結界が、ぱあん、とガラスのように砕け散り、輝く白銀色の蛇の鱗は傷だらけになったけれど、その身はまた、自由になった。間髪を入れず、口腔内で瞬時に液を発火させ、真っ赤に燃える魔精の炎を蛇は魔術使いに浴びせかけた。念入りに念入りに浴びせ続けた。燃やし尽くしたその燃えかすのような黒い塊の端っこを口でくわえると、勢いにまかせてぶんぶんと振り回し、少し離れた断崖の岩に向かって放り投げた。燃えかすは岩に叩きつけられ、崖の下に落下していった。
けれども白蛇が今度こそ施設に向かって飛んでいこうとすると、また身体が動かなくなった。
身じろぎすらできないでいる蛇の視界に、何事もなかったような顔をした黒マントの小男の姿がすうっと入ってくる。
魔術使いは蛇に向かって片手をかざしたまま、もう片方の手で印を結び、何か呪文を唱え始めた。
身動きできない蛇は、どうすることもできなかった。




