02.竜菜(1) 鍵の不具合
「砂映さん、どうしたんですか?」
しゃがみこんだまま砂映がうつむいていると、後ろから声をかけられた。
振り返って見上げる。向かいのパン屋で働いている女の子が立っていた。おつかいか何かから戻ってきたところらしい。女の子、といっても大人で、たぶん二十代後半くらいなのだが、その雰囲気は、明るくまっすぐな性格の少女、という感じだ。いつもまるきり飾り気のないトレーナーとすとんとしたパンツというお洒落っ気ゼロの格好をしている。薄茶色のサラサラした髪のおかっぱ頭で、小柄で可愛らしい印象である。パン屋は五十代後半くらいの夫婦がやっていて、はじめ砂映は彼女が二人の娘だと思い込んでいた。実際は違ったのだが、それぐらいパン屋夫婦と親しんでいるし、途季老人や商店街の他の人たちみんなに好かれている「いい子」というイメージだ。今の店で働き始めてまだ半年の砂映は、顔を合わせた時に挨拶を交わしたことがある程度だが。
「あ・・・・・・竜菜ちゃん」
パン屋夫婦も途季老人も商店街の他の人たちも、みんな彼女を「竜菜ちゃん」と呼んでいるので、砂映も自然とそう呼んでいた。一人でくじけかけていた心が、他人の手前何とか取り繕おうとする意識でほんの少しだけ力を取り戻す。砂映は立ち上がり、もう一度鍵をつまむ。
「鍵の調子がなぜか悪くてですね。困ったな、と」
冗談めかして言いながら回そうとしてみるが、やはり動かない。
砂映は何か情報がないか石電で検索を始めた。その間に竜菜が近づいて鍵に触れる。
「ほんとだ、動かないですね。鍵が固い時って、確か鉛筆をこすりつけるといいって聞いた気がしますけど」
「あ、いや」
魔法関係職としてはあり得ないほど魔法に対する感覚の鈍い砂映だが、半年とはいえほとんど毎日使っている鍵なので、さすがにこの鍵の不具合が物理的なものか魔法的なものかの判別はできた。たぶん一般の人間でも、魔法のかかった鍵を使い慣れていれば何となくその判別はできるようになるだろう。もちろん魔精感度の高い人間であれば、もっと精密に変化や異常を読み取れるにちがいないが。
「これ、魔法がかかってる鍵で。たぶんその不具合なんですよ」
石電をいじりながら顔だけ上げて砂映は言った。
「魔法」
竜菜は目をぱちくりさせた。
最近は魔法工学を使った製品がかなり一般化したとはいえ、多くの人にとっては相変わらず魔法や魔術は「何だかよくわからないもの」なのだろう。石電が魔法の組み込まれた製品だということ自体、知らない人も結構いるらしい。
「ほらうち、『魔法』薬店だし」
よくわからない理由をなぜか言い訳のように竜菜に告げる。役に立ちそうな情報は、石電の検索では見つからなかった。砂映は心の中でついに観念して、とある決心をする。
(こうなったら、あいつに電話してみよう)
魔道士雷夜。
魔法や魔術に関わるあらゆることに精通しているとされる、魔法関係職の最上位が魔道士である。砂映が二十二歳でたった一つの資格も取れずに魔術学校を中退した頃に、雷夜は三十個以上の資格取得と難関の免許試験合格を最年少で達成し、歴代でも五人足らずの、十八歳で魔道士になった。同じ学校の同期生だったとはいえ交流はほぼないに等しかったが、最近ひょんなことから関わりができた。なぜか気に入られたらしく、珍しい魔草が手に入った、だの、ちょっと手伝え、だのと向こうはちょくちょく呼び出しの連絡をしてくるので、そのたびに砂映は応じていた。
が、こちらから連絡をしたことはなかった。
砂映にはいまいち仕組がよくわからないが、石電での通話は空間接続の魔術の応用なので、石電を持っていない雷夜にも、空間接続の術を使えない砂映から「発信」をすることができる。砂映の石電からそれができるように、雷夜が「設定」をしてくれた。それをしてくれたということは、当然「かけてもいい」ということのはずだ。受け手の雷夜は電話ではないけれど、元々魔術使い同士で電話なしでの空間接続による遠隔会話は以前から行なわれていたので、例えば手が離せない、話ができない状況の場合の対応だって当然できる仕組になっているだろう。だから砂映が、用事があって雷夜に電話をすることに、遠慮する必要はないはず、なのだが。
いざとなると、やはりためらいがあった。
あまりに卑屈なのかもしれない。しかし例えば下世話な言い方をすると、魔道士という職で得る年収は、たぶん砂映の年収とは桁が違う。そして実際それが納得できるような能力差を砂映は感じている。はっきり言って、一人の人間としてできることの質と量が違いすぎる。
魔道士は、それひとつ持っていれば一生生活に困らないレベルの魔術の専門スキルを十も二十も持っている。魔力はもちろんのこと、知力も戦闘能力も、並大抵のものではない。下手をするとその道一筋の者よりも優秀で、あっちの分野でもこっちの分野でもひっぱりだこだったりする。さらに、彼らの複合的な知見を当てにして難しい案件が協会から回されることも多い。また、彼らには研究者としての仕事もある。いまだに解明されていないことの方が多い魔法という分野、研究途上の魔法技術。魔道士による論文執筆、実験、他の者が書いた論文の査読、会合での発表。それらが魔術の発展に相当寄与していることは疑いがない。
魔道士雷夜は今三十三歳のはずだが、ひどく小柄な上に童顔で、見た目はいまだに少年のようである。
その雷夜が、一般からの依頼仕事に対応しつつ、魔術協会からの厄介な頼まれごとに対応しつつ、最新の論文にもすべて目を通し、自らも貪欲にさまざまな研究をしてはその成果をまとめ――と動き回る日常を目の当たりにした時に、砂映はあっけにとられた。行方不明の息子を探してほしいという金持ちの依頼。要人のボディガード。結界の修復。原因不明の症状が出ている患者が連れて来られたかと思えば、遠方の村で巨大な蜥蜴が暴れているから退治してほしいと呼ばれる。旧家の跡継ぎ争いに決着をつけるための魔精空間での代理決闘を頼まれたり、魔精状態が特殊な環境での魔法陣構築や空間錯覚魔術の使用について相談を受けて現地に出向いたり。魔法絡みの事件の解明や「魔女」の捕縛も重要な仕事だし、それらについては協会に提出する報告書の作成もしなければいけない。珍しい現象に出会えば論文にまとめ、会合などでそれを発表することもある。
・・・・・・魔道士雷夜の一分と、俺の一分は、たぶん価値が違う。
だから自分が雷夜の手伝いをしたりして時間を割くことはあっても、逆はありえないように思えていた。そんなもったいないことは、してはいけないような気がしていた。
(だけど、俺のお客さんだって、大事だし)
魔道士にとってはきっと些末な相談事だけど、だからこそ、きっと軽く解決してくれるに違いない。なんせ、「なんでもやる」魔道士としてその名が通っているのが魔道士雷夜なのだ。
手が離せない状況なら、あるいは時間がとられるのが嫌なら、そもそも通話に応じないだろうし。
(えい!)
砂映は意を決して石電のボタンを押した。
発信音が鳴る。
むしろ相手が出なければ不可抗力だから諦めもつくし迷惑もかからないので一番よいのでは、などと思いながらコール音を聞いていると、鍵を一度抜いて再び差し直した竜菜が笑顔で声を上げた。
「砂映さん!開きましたよ!」
「えっ」
石電の発信を切って扉のところへいく。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
にこにこと笑いながら、竜菜が去って行く。パン屋の中に入っていく彼女を見送っていると、手に持っていた石電が鳴り始めた。
雷夜の名前が表示されている。
――何だ砂映?
少年めいた声質と、声質とは裏腹な妙に落ち着き払ったトーン。
少し前に再会した雷夜の、いまだに十代前半と言っても通じそうなあいかわらずの童顔に砂映は驚いたり納得したりしたものだったが、その声もまた、昔とまるで変わらない。
「あ、ごめん。ええと」
せっかく折り返してもらったのに、もう目的はなくなっている。
片手に電話、片手で店の扉を開けながら、砂映の頭は真っ白になっていた。
――どうした。
「あ、雷夜、その・・・・・・今大丈夫だった?」
――大丈夫でなければ折り返さない。
「そっか。ありがとう、電話くれて。けど、もうよくて。魔法制御の鍵が不具合で開かなくて相談しようと思って電話したんだけど・・・・・・そしたら今ちょうど直りまして」
――・・・・・・。
「・・・・・・それが、なんか今日は朝から石電もおかしくて。強大な魔力とかあったら不具合起こすことがあるっていうけど、俺だしねえ。ハハハ。あ、だから雷夜は石電持たないん?能力高い術者ほど持ってないとか聞くけど」
さっきまではあんなに相手の貴重な時間を奪ってはいけない、と思っていたのに、いざとなると逆にすぐに切るのはどうかと思えてしまい、砂映はつい言葉を継いだ。「異常に強大または特異な性質の魔精力」を持っているといえば、誰よりも雷夜が当てはまる。ふいに思いついたことを、あまり深く考えずに砂映は口にした。
――いや、基本的に術者は自分の魔力の影響を制御できるから、それで不具合を起こすことはほぼないが。
無駄話めいた唐突さに腹を立てた様子もなく、雷夜は淡々と答えた。
「あ、そういうもの?」
――魔法工学製品も言ってみれば魔術の一種だ。術に対して自身の魔力の影響を制御できなければ仕事にならない。
(あれ、もしかして俺、また無知をさらしたかな。しかもちょっと失礼だった?)
雷夜の声からは特にあきれや怒りの気配は感じられなかったが、砂映はふとそんな風に思う。
魔法関連職のくせに・・・・・・・魔術学校を出ているくせに・・・・・・しかも四年通って一度中退して、その後もう一度入ったので計八年も通ったくせに・・・・・・砂映は魔法に関わる基本常識にどうにも疎いところがあった。あまりにも魔力が弱小であまりにも魔精感度が低いため、魔術学校に入るような人間なら感覚的に理解できること、当たり前に知っているようなこと、も、砂映にはまったくピンと来ない。砂映にとって魔術を学ぶことは、音楽というものを一度も聴いたことがない人間が教本と楽譜を頼りに楽器の演奏に挑戦する、ようなものだった。実感が持てず、すべて手探り。なので他の学生たちが誰も苦労していなかった基礎習得の部分で、砂映はかなり躓いた。魔法植物や魔法薬についての専門の座学についてはむしろ成績は良く、人の何倍も努力したこともあって何とか試験はクリアしたものの、試験を終えればきれいに忘れてしまった知識も少なくない。
――しかし魔法製品の不具合が立て続けに起こっているなら、何かが起きている可能性があるな。
雷夜は言った。
「俺の魔力が急に強大になったとか?」
砂映は冗談のつもりで言った。
しかし雷夜は真面目に受け取ったらしい。
――・・・・・・いや、そういう感じはないな。
数秒の沈黙の後、生真面目な答えが返ってきた。石電越しでも、魔力の感知はできるらしい。
そうこう話しながら、砂映は片手で石電を持ったまま肩で扉を押し開けて店の中に入っていた。ちょうど奥の控え室がわりの畳部屋に荷物を置いたところだったが、
「魔力・・・・・・ああっそうだ!」
砂映は急に我に返って大声を出した。
そうだ。雷夜の時間のことばかり気にしていたが、そもそも時間がないと焦っていたのは自分だったではないか。
「深澄水・・・・・・っ」
――深澄水がどうした。
砂映は時計を見る。八時半、を少し過ぎている。
石電を片手に持ったまま慌てて走ってカウンター横の引き出しを開けて、深澄水の在庫を確認する。
無かった。深澄水の在庫は一瓶もない。
「あの、あのですね。俺みたいに魔力が少ない人間でも深澄水を短時間で精製できるような、なんかそういう方法ないですか」
震える声で砂映は訊ねる。
――今すぐ必要なのか。
「今すぐ・・・・・・はい。なるべく早く」
――銀狭霧鳥の羽根はあるか?
雷夜は淡々と訊ねた。
砂映はカウンター奥の引き出しを開け、魔鳥の羽根の在庫を確認する。
「あります」
――風見石の粉末は?
「あります」
――潤光波草の干したものは?
「あります」
――それらを全て精製鉢に入れろ。羽根は一枚、風見石の粉末は一匙、潤光波草は小さめで三本程度。
「はい」
――じゃあこれから言う呪文を使って精製しろ。ウィ・ディルオルバ・・・・・・
雷夜が電話の向こうで呪文を口にする。砂映は慌てて石電の音声をスピーカーに切り替えてカウンターの脇に置き、精製鉢に両手をかざしながら雷夜の後に続いて呪文を詠唱する。
(っていうか調べもせずに即答できるって)
冷や汗をかいて術を発動しつつ、砂映は感心する。
魔道士免許は黒魔術・白魔術・精霊魔術すべてに渡る広範ないくつもの免許を含んでいて、だから魔道士が白魔術医療に分類される魔法薬精製に精通しているのも当然ではあるのだが。
それにしたって、通常の精製方法ならまだしも、そんな裏技めいたもの、しかも魔力の少ない人間向きという、強大な魔力を持った雷夜自身にはまったく無用のはずのことまで知っている、のみならず、何も確認せずにすっとその知識を即座に引っ張り出せるというのは。
(便利な頭でうらやましい)
雷夜が今口にしている呪文の魔法言語は、魔法薬師にはよく使われているものだが、魔術使い全体の中ではマイナーなものである。
魔法というものは元々はさまざまな個人や集団で自然発生的に好き勝手使われていたものなので、その魔法を発動するための魔法言語というものも、気が遠くなるほどたくさん存在する。魔術協会設立後、共有しやすいように似たものをまとめたり可能なものは置き換えたりとかなり整理はされたらしいが、それでも専門分野ごとによく使われている魔法言語というのは異なるし、例えば魔法薬師なら魔法言語は最低三種類学ぶ必要がある。ちなみに砂映はよく使う呪文であれば意味も大体は理解しているし有効な発音でスラスラ唱えることもできるが、初見の呪文は辞書を引きながらでないと意味を解読できないし、一番得意な(ましな)魔法言語でも、知らない呪文については耳だけだと断片が聴き取れる程度である。
(専門が広いってことはそれだけたくさん魔法言語も使えるってことで、しかもたぶん、自分で一から呪文を作れるレベルまで習得しているんだろうな・・・・・・)
今雷夜が詠唱している呪文は、基本の深澄水の精製呪文を少し変えただけのものなので、砂映でも大体は聴き取れるし、術の発動に有効な発音で雷夜の言ったとおり繰り返すことができている。雷夜は気を遣って、少しゆっくりめに唱えてくれている、かつ短く区切ってくれてもいる。それでも時々、砂映にはわからない部分がある。わからないまま音だけ真似てとにかく唱える。精製鉢にかざした手の光の具合で砂映は時々自分が詠唱をミスしたことに気づくが、そのさまが見えていないはずの雷夜も砂映の発音のまずさからそれがわかるらしく、砂映が何も言わずとも、丁寧にもう一度同じ部分の詠唱をしてくれる。
(魔道士様の貴重な能力とお時間を使わせて、何やってるんだろう)
また、砂映の中に自虐的な気持が膨らんでくる。
販売価格、一瓶千Y足らずの深澄水。
(イカンイカン。集中せねば)
雷夜の後に続いて呪文を詠唱し、雷夜に言われたとおりに通常のものに少し追加動作を加えた印を結んだ。五分もかからずに深澄水が出来上がった。
「ありがとう雷夜。ほんとに助かりま・・・・・・」
砂映が礼を最後まで言い終わる前に、突如ブツッと通話が切られた。
(え?)
ちょうどその時にカランカランと店の扉の鈴が音を鳴らし、「失礼しまーす」と竜菜が店に入ってきた。
「らい、や?」
竜菜はカウンターの前で立ち尽くし、大きな目をさらにまん丸にして雷夜の名前をそう呟いた。
「あ、もしかして・・・・・・雷夜と知り合い?」
この店の店主の途季老人は雷夜を幼い頃から知っていると言っていた。世間は意外と狭いということを、砂映は最近思い知ったばかりである。雷夜はこの辺りで育ったらしいので、知り合いであったとしてもさほど驚くことではない。そう砂映は思った。
しかし竜菜は首を横に振る。
「知らない、です」
嘘をついているという様子ではない。
けれどもどこか動揺しているようで、普通という感じでもない。茫然と、その場に立ち尽くしている。