01.へっぽこ魔法薬師 砂映の失敗
まだほとんどの店が閉まっている朝の商店街を、一人の男が走っていた。
いかにも白魔術医療従事者らしい、十字模様の入ったクラシカルな腰丈のマントが背中でひるがえっている。大慌てという様子で、色素の薄い長めの髪が、後ろでひとつにまとめてはいるもののボサボサになっている。
砂映・K、三十七歳。商店街の中の魔法薬店に勤務している魔法薬師だ。ひょろりと背が高くやや猫背だが、垂れ目ながら鼻筋の通ったその顔つきは、よく見れば男前である。
砂映は今、とても焦っていた。
(まさかこんな日に限って石電の目覚ましが鳴らないとは)
今や持っていない人の方が珍しいといわれる、石板型電話機能付携帯用魔法情報端末、通称「石電」。最新の魔法工学の技術を用いたこの便利な機器は現代では生活のあらゆる面に入り込んでいる。なので不具合を起こされると、とても困る。
石電はすべての人間が多かれ少なかれ持つ「魔精力」、通称魔力と紐つけされて作動する機器で、元来は魔術を使えない人間でも手軽に魔術の恩恵を受けられるようにと開発された物である。
十数年前までは、魔術使いが石電を持つのは邪道という風潮さえあった。
現在では魔術使いでも持っていない者の方が少数派だが、人間の魔精力に影響を受ける機器なので、能力の高い魔術使いの石電ほど不具合を引き起こしやすい、という都市伝説のようなものがある。
実際「異常に強大または特異な性質の魔精力に触れた場合、稀に誤作動を起こすことがあります」と石電の取説の免責事項などには必ず書かれている。が。
(強大な魔力とは無縁なのに)
強大どころか、魔法関係職の人間としてはあり得ないほど砂映の魔力は弱小である。
特異な性質、という点においてもその心配は皆無で、そのカスのような微量な魔力に性質と呼べるものがあるのかすら疑わしい。
(そもそも俺にもっと魔力があれば、今こんな焦る必要もなくて)
魔力を込めた歌や語りを売りにした、吟遊詩人という職業がある。
声に魔力が乗りやすくなる魔法薬、深澄水がほしい、明日重要な仕事があるから朝一番で買いに行く、と昨日その吟遊詩人だという人から砂映の勤める魔法薬店に電話があった。
お待ちしています、お店は九時から開いてますので、と砂映は調子よく応えたのだが、家に帰って寝る前に、はたと気づいた。
――深澄水の在庫はあっただろうか。
たとえばこれが、材料が珍しかったり作るのが難しかったりする魔法薬だったなら、ちゃんとお店に残っているか確認してから回答しただろう。
けれど深澄水の精製に使うことができる魔法植物はいくつもある上にどれも非常にポピュラーなもので、店に材料がないことはありえないし、その精製の術自体も魔法薬師にとってはかなり難易度の低いものである。
並の魔法薬師であれば、十分か十五分で小瓶一つ分くらい簡単に用意できるだろう。
並の魔法薬師であれば。
(どうして確認しなかったんだ。落ちこぼれのくせに)
砂映は自分を責めていた。
昨日は客が多くてただでさえばたばたしていた。深澄水であればなかったら作ればいいし、と軽く考えて電話では「ありますよ」と即答し、そのまま夜まで忘れていた。
しかし砂映は「並の魔法薬師」ではない。
その能力は、一部並に届かない。
砂映は魔法薬師として働いているが、「魔法薬師資格」は持っていなかった。
通常であれば、魔術学校で資格をとった上で免許取得のための試験を受ける。
けれど、資格がなくても、免許試験を受けられる場合がある。
砂映は「魔草師」というマイナーな資格を取得した後、魔術学校の教師の口利きによって「魔法薬師免許」の試験を受けさせてもらった。
現在魔術学校が定めている資格試験合格者の枠に収まらない、幅広い人材をプロとして迎え入れるためこのような例外制度がある、というのがその建前である。確かに能力の判定というのは一筋縄ではない。が、実際はさまざまな利害関係の駆け引き材料とするために生まれた制度だと、砂映は思っている。砂映は「魔草師」という、現代それのみでは職業としてほぼ成立していない能力者集団の「後継者」となる約束と引き換えに、魔法薬師という職を得た。
もちろん、免許の試験はちゃんと受けて合格したけれど。
魔法薬師資格が取れなかったのは、ひとえに砂映の魔力不足が原因である。魔法薬師として必須の魔法薬精製の術のいくつかが、あまりにも弱小の魔力しかないために、どうしてもうまく発動できなかった。
「普通の魔法薬師」ならばできて当たり前のいくつかのことが、砂映にはできない。
・・・・・・深澄水の精製については、砂映でもできないことは、ない。
だが魔力の量が少なすぎるので、おそろしく時間がかかる。小瓶一つ分用意するのに、おそらく一時間近くかかるだろう。電話をしてきた吟遊詩人にとっての朝一番が何時を指しているのかはわからない。だが開店後すぐに来るかもしれないので、九時にはできあがっているべきだ。だから八時前には店に行くつもりでいた。
(八時二十分)
砂映は腕時計を見た。
どう考えても時間が足りない。
朝起きて時計を見て青くなり、とりあえず石電で「深澄水 精製 時間短縮」「深澄水 魔力少ない 精製」「深澄水 精製方法 効率」等でひとしきり情報空間を検索してみたけれど、役に立ちそうな情報は出てこなかった。
砂映の雇い主、魔法薬店店主である途季老人なら、お茶の子さいさい、五分足らずで精製できるに違いない。けれどもかつて名を馳せた魔術医師だったらしい老人は、本日はとある難手術の立ち会いに参加している。すでに手術は始まっているはずで、精製を頼むことはおろか、相談のために連絡をとることもはばかられる。
(とにかく深澄水の在庫があることを祈るしかない)
そうだ。きっと単なる取り越し苦労だ。砂映はそう自分を落ち着かせる。精製済の深澄水がまだ残っていれば、何の問題もないのだ。大丈夫、まだあったはずだ。少し前に呪文詠唱がうまくできないと悩む魔術学校の学生が店に来たので勧めた記憶がある。学生は、お礼を言いながら買って帰った。あれが在庫の最後だったか、はっきりしない。一瓶くらい、まだある。まだあるだろう。きっと。
ゼエゼエと息を切らせながら、砂映は商店街の大通りから枝分かれの道に入った。小料理屋、雑貨屋、金物屋の並びにあるしなびたような木の扉の店が途季魔法薬店である。地味な通りだが、今の時間でもちらほらと人の姿があるのは向かいのパン屋がそれなりの人気店だからだ。すでに開店していて、一人、二人と通勤途中らしき客が店に入っていく。彼らに背を向けて立ち、砂映はポケットから鍵を取り出すと、いつものように木の扉に差し込みひねる。
(あれ?)
回らない。鍵穴に差し込んだ鍵が、回らない。
この店の鍵は一見何の変哲もない物理の鍵のようで、実は魔法がかかっている。
老人の知り合いの呪符師おすすめの最新技術が使われた鍵らしいが、専門外の知識にはとんと疎い砂映にはその仕組はまったくわかっていない。これも本来は魔術を使えない一般人が使うための製品だから、砂映の魔精力や魔術の技量などは無関係、都市伝説を信じるならば、むしろ魔精力が強い者が使う方が不具合が起きやすい物だ。「異常に強大または特異な性質の魔精力に触れた場合、稀に誤作動を起こすことがあります」。その文言が、これの取説にも記載されていたはずである。
しかし。
(稀に、のはずじゃないん?)
なぜ、今日に限ってこんなことが続くのか。
魔精力の量と性質は、訓練で多少出力に差は出るものの基本的にはほぼ生まれつき決まっているとされている。しかし魔法や魔精についてはいまだわかっていないことが山程あり、五年十年で常識がくつがえることも珍しくない。もしかしたら自分も突然何かに目覚めて特別な才能を開花させるかも、と十代のある時期には砂映も夢見たものだった。万が一、今朝突然自分の魔精力の何かが変わって、そのせいで石電も鍵もおかしくなったとしたら・・・・・・もしかすると、今までできなかったことがこともなげにできるようになっていたりしないだろうか。深澄水も、瞬時に精製できるようになっていたり。
(いやないない。四十歳も近いのに阿呆な現実逃避している場合じゃない)
焦りが限界を超え、もはや諦めに変わり始める。鍵穴に差し込まれたまま頑なに動かない鍵を前に、砂映は思わずしゃがみこむ。
(どうしようもない・・・・・・店自体開けられないなら、逆に深澄水がなくてももうどうでもいいというか・・・・・・)
この鍵を勧めてくれたという呪符師の連絡先は知らない。不具合があった場合のメーカー相談窓口の電話番号は店の電話の横の壁に貼ってあった気がするが、鍵が開けられないならそもそも見られない。それに対応は二十四時間ではなかったはずだ。たぶんまだ連絡できる時間ではない。
商店街にはもう一つ、専門ではないものの魔法薬を取り扱っている店がある。深澄水というのはポピュラーなものだから、おそらくそこにも置いているだろう。
(そこを案内するしかない・・・・・・。けど開店はたしか十時・・・・・・それだと間に合わなかったら・・・・・・お客様がわざわざうちに電話して確認したのは、九時開店だったからだとしたら・・・・・・)