貞操の危機
さくらさんに呼び出されたのは、なんと、今まで打ち合わせが行われていた会議室の隣の部屋だった。
そこは、防音室になっているから、人に聞かれたくない話をするのに、都合がいいのだとか…。
俺は周りをキョロキョロ見回し、誰もいないのを確認すると、そっと、その部屋の中に忍び入った。
「白鳥さん…。来て下さったんですね。どうぞ、おかけ下さい。」
商談用スペースとなっているらしいその部屋は、いくつかのソファとテーブルのセットごとにパーテーションで区切られていて、さくらさんは、自分が座っている席の向かいソファを手で指し示し、弱々しい笑みを浮かべた。
可憐な彼女が、石藤の不貞に耐えている様子に胸が痛みながら、僕も不貞の妻に苦しむ夫にふさわしい悲しい笑みを湛え一礼してソファに腰を下ろした。
「さくらさん、お時間をとって下さってありがとうございます。実は、また、昨日も二人が会っている写真が…。」
「…!||||」
俺がさくらさんに、高級ホテルの喫茶店で石藤と香織が談笑している何枚かの写真を渡すと、彼女の白い頰は更に色を失くした。
『慶一くん達には、今日は仕事の出張と言って出て来ているの。ここに部屋を取ってあるから、そこでゆっくり話しましょう?』
『ああ。じゃあ、早速行こうか。』
更に僕は香織のバックに仕掛けたICレコーダーの音声をさくらさんに聞かせ、眉根を寄せて、補足説明をした。
「二人を調査した人によると、その後、香織と石藤は寄り添い、いそいそとエレベーターに乗り込み、ホテルの客室へ向かったそうです。
気が急くあまり、香織は喫茶店にカバンを忘れていたようで、決定的な音声は取れませんでしたが、1時間程経ってから忘れたカバンを取りに来た香織と石藤はとてもスッキリした様子で、微笑み合っていたとか…。
二人がただならぬ関係だというのは間違いがないようです。」
「昨日は、良二さんの帰りがいつもより遅かったのですが、香織さんと会っていたんですね…。」
さくらさんは涙を浮かべ、唇を震わせた。
チッ。こんな素敵な女性を泣かせるなんて、石藤の野郎は、本当にひどい奴だな…。
可哀想なさくらさん、僕が今助けてあげるからね。
「僕も、香織に裏切られ、辛い気持ちです。けれど、僕は高校時代にあれだけ好き会っていた二人が復縁したいというなら、もうどうしようもないと思うんです。
彼女が望むなら、気持ちよく離婚に応じてやろうと思います。」
「離婚…!」
鎮痛な面持ちを向けてくる彼女に僕は厳かに頷いた。
「ええ。さくらさんはどうしますか?」
「わ、分かりません…。香織さんとの関係にはショックを受けていますが、私はまだ良二さんを愛していますし…。」
「その気持ちは、分かりますが…。愛しているからこそ、相手の真の幸せを願うべきだと僕は思うのです…。」
「相手の真の幸せ…?」
食い入るように俺を見詰めるさくらさんに僕は更に続けた。
「そうです。石藤の幸せの先には、香織。香織の幸せの先には石藤がいる。
残念ながら、今や僕達の存在は彼らにとって邪魔でしかないでしょう。」
「そ、そんな…!私には良二さんしかいないのにっ…!ううっ…。彼と離れたら、私はこれから先どうやって生きて行けばいいんでしょうかっ。」
顔を覆って肩を震わせているさくらさんに、僕は呼びかけた。
「さくらさん…。お辛いのは分かります。僕も同じです。僕は夫として誠実に向き合って来たつもりなんですが、今、家庭でどの妻にも愛されておらず、夫婦生活も拒否されています。香織と離婚して、一夫多妻制が崩壊すれば、他の妻達も僕の元を去り、一人ぼっちになってしまうでしょう…。」
「まぁ、白鳥さんも一人ぼっちに…。」
さくらさんは、俺を涙に濡れる目で見上げて来た。
「さくらさん…。僕達はまだ若い…。一緒に人生をやり直しませんか?」
「えっ。」
「実は、僕はずっと前からあなたに惹かれていたんです。」
「白鳥さん…!」
さくらさんは、胸元で手を組み合わせ、大きな目をパチパチと瞬かせ、俺を見詰めて来た。
「料理教室で愛らしいあなたを見かけた時にも、あのイベント会場で、再会した時にも、どうして強引に奪ってしまわなかったのか、後悔しているんです。
香織の事は辛いですが、こんな風にあなたに会えた事は運命のように感じています。」
そして、組み合わせた彼女の手に触れようとした時…。
バッ…!
彼女は身を翻して、僕から離れた。
「い、いけません…!」
僕は、距離を取った彼女を宥めすかすように優しく呼びかけた。
「さくらさん…。あなたを愛しています。僕なら、石藤のようにあなたを泣かせる事はしません。望む事なら何でもして、あなたを幸せにしてみせます。」
「望む事なら…な、何でも…?」
怯んだような彼女に、内心でガッツポーズを取った。
よしっ。ぐらついているようだ。
それもその筈。顔、スタイル、経済力、全てに渡って石藤に優る僕に言い寄られて、心が動かない筈がないからな。
しかも、今は、彼女の心は傷付いて取り入り易くなっている。
「もちろんです。あなたの為なら何でもできます。」
「で、でも、私…、その…。人に言えない…ちょっと激しい性癖があって…。//」
「…!」
ほほう…!さくらさん、なんと、そっち方面に悩みがあったのか。
ハハッ。石藤みたいな童貞臭さが抜けないようなヘタレじゃ、若いさくらさんは満足し切れないよな?
あんな陰キャに初を奪われたのは業腹だが、すぐにこの俺のテクニックで彼女をメロメロにしてやろう。
僕はニヤリと笑ってさくらさんに、宣言した。
「ご安心下さい。石藤と違って、あなたを100%満足させてみせます。」
「では、早速、今、ここで試してみてもいいですか?」
「今、ここで…ですか?」
さくらさんにそんな事を申し出られ、流石に俺は目を剥き、思わず、隣の部屋の方を見遣った。
ここ、RJ本社、しかも、会議室には他の参加者(旦那である石藤も含む)がいるかもしれない中で…?
「防音室ですから、隣の部屋に音は聞こえません。嫌なら、いいですが…。」
「あっ。いえ!嫌なんて事、あるわけないですよ!ぜひ今ここで試してみましょう。」
石藤ざまぁ!僕のお下がりの香織にかまけて、こんな極上の若妻、さくらさんを寝取られる事になろうとはな…!
しかも、今自分がいる隣の部屋で…!
最高に燃えるシチュエーションに、僕はニンマリと笑った。
「では、向こうの方で…。ソファが広いですので…。」
「そうですねっ。ソファは広い方がいいですねっ。」
さくらさんに誘われ、弾む気持ちを抑え切れず、パーテーションの隙間から、隣の区画へと移動すると…。
ガタッ!
「?!」
突然、広いソファから大きな人影が身を起こした。
「あらぁ、可愛い坊やねっ?」
「うわぁっ。何だ、お前はっ?!||||」
ソファに座っていたのは、女性用の化粧を施し、スケスケのランジェリーを着用したいかつい中年の男で、醜悪なその姿に僕は悲鳴を上げた。
「うふふっ。初めてでも、緊張しなくていいのよ?この権子ちゃんが、優しく教えてあ・げ・る」
「うわっ!やめっ…!||||」
急に逞しい腕にガバっと抱き着かれ、俺がもがいていると、さくらさんが慌てて飛んできた。
「あらあら、駄目ですよ!」
「さ、さくらさん、助けてくれ!急にこの変質者が…?!」
さくらさんに助けを求めようとして…。彼女にビデオカメラを向けられている事に気付き、僕は目を見張った。
「ふふっ。もう、権田さ…権子ちゃんたら、せっかちさんですね?やるなら、ちゃんと撮影が始まってからにしないと駄目でしょう?」
さくらさんは、さも愉快そうにコロコロと笑ったのだった…。