自由になったなら旅をすればいいじゃない
──境界の山脈
辺境との分かれ目となる山脈の手前で契約は終わり、御者は馬車ともども引き揚げていった。
現在は山の麓で買った山越え用の馬車と馬を使い、ルクテイアが御者をやっている。
ここまで2週間ほどかかったけど、その道行きはとても楽しく、そして穏やかだった。
私は厳しい山間の風景を横目に、これまでの旅路を振り返る。
──田園地帯 ヘレナの回想
多くの旅人によって踏み鳴らされた土の上を馬車の車輪が絶え間なく回っていく。
下垂れ式の窓を開けると清らかな風が私の肌を撫でる。
時折、草むらの間を駆け抜ける小動物の姿が見え、そのたびにシルヴィアが窓から顔を出してはしゃいでいた。
「ヘレナ様ー!」
「どうしたの?」
「見てください!」
「野生の鹿がいます!」
彼女の指差す先には丘の向こうから姿を現した数頭の鹿がいた。
警戒しながらも静かに草を食んでいる。
「家族なのかなぁ……」
ルミナがぽつりと呟く。
彼女は馬車の窓越しに、その光景を見詰めていた。
「動物って自由だよな~」
「うらやまし~ぜ」
ラティオがそんなことを言いながら窓から顔を引っ込め、背もたれにドサリと体を預ける。
私は鹿に目を遣りつつ、その向こう側にそびえ立つ辺境との分岐点でもある山脈を眺めた。
「そうね」
「今は私たちも自由なのよ」
「……うれしいな」
シルヴィアは馬車に差し込む朝焼けと同じくらい眩しい笑顔で言葉を漏らした。
──牧草地 ヘレナの回想
田園地帯を抜けると地平線が見えそうなほど広大な牧草地が現れた。
囲いもない草原で放牧された牛たちがのんびりと過ごしている。
「わぁ!」
「牛さんがいっぱい!」
シルヴィアが目を輝かせた。
「寄ってみましょうか?」
そう言うと子供たちは喜んで賛成した。
私は窓から乗り出して馬を引いていた御者に声をかける。
「牛の近くで止めてちょうだい」
馬車は放牧された牛の群れの近くでゆっくりと止まった。
シルヴィアが興奮気味に馬車から飛び出し、真っ先に駆け寄る。
大きな茶色の牛が彼女の動きをぼんやりと見詰めていた。
「ねえ、ヘレナ様!」
「触ってもいい?」
「……どうかしらね」
「ちょっと待ってなさい」
私は念の為に自分で触ってから子供たちに触らせることにした。
「よーしよしよしよし……」
その胴体に触れても牛はのんびりとした様子だった。
これなら大丈夫そうね。
気付けばルクテイアが近くで目を光らせている。
あ、危なかったわね……暴れでもしたら、この牛は真っ二つになってたかも……。
「ルクテイア、あんまり物騒なのはなしよ」
「承知しました」
一応は言っておいたけど、あんまりルクテイアの様子は変わらなかった。
まったく……過保護なんだから……。
「ほら、みんなも触ってみなさい」
さっきまで、はしゃいでいたのにシルヴィアは少し緊張しているみたいで慎重に手を伸ばす。
すると牛は少し鼻を動かし、シルヴィアの匂いを確かめるように動いた後、ゆっくりとその頭を差し出した。
えぇ~……私のときは何も動かなかったのに……。
「……わぁ、あったかい!」
シルヴィアの顔がパッと輝く。
彼女の小さな手が額を撫でると牛は気持ちよさそうに目を細めた。
「私も……」
ルミナがゆっくりと近付き、静かに牛の首元を撫でる。
「やわらかい……」
彼女の声には驚きが混ざっていた。
これまでの生活では、こんな風に動物と触れ合う機会はなかったのだろう。
でも牛の首ってそんなに柔らかいかな……?
「こいつにも優しくしてやれよ~!」
ラティオが少し離れたところにいた子牛に駆け寄っていく。
子牛は不思議そうな顔で彼女を見上げていた。
ラティオがしゃがんで手を差し出すと、ゆっくりと鼻先を押しつけていく。
「お、おいおい……くすぐって~よ!」
ラティオが本当にくすぐったそうに笑う。
「でも、なんか……かわいいな」
いつもはぶっきらぼうなラティオが子牛相手に、ふと優しい顔を見せた。
意外と母性が強い娘なのかもしれないわね。
穏やかな風の中、私たちはしばらく牛たちと触れ合う時間を楽しんだ。
──砂地が混ざった平野部 ヘレナの回想
「旅のお方、羊たちと遊んでいきなされ!」
草木が減ってきたところで羊飼いの老人が私たちの馬車に声をかけた。
私が馬車を止めさせると3人は、すぐに羊たちのもとへ走り寄っていった。
「ほら、こいつらは人懐っこいんだ」
羊飼いがそう言うと、もこもことした羊たちが近付いてくる。
「もこもこー!」
シルヴィアが羊に抱きつく。
ラティオも毛に触り、ルミナは静かに頬を寄せた。
「ほんとにふわふわ……」
「これ、毛刈りしたらどれくらいとれるんだろーな?」
ラティオが羊飼いに尋ねると彼は楽しそうに笑った。
「この時期なら一匹あたりぎょうさん刈れるさ」
私が遅れて近付くと羊飼いは、こちらに話を振ってくる。
「貴人だとお見受けするが」
「あなた方は境界の山脈に行く気かね?」
「えぇ、辺境が目的地なの」
「ふむ、首都で何か起きてるようですなぁ」
「ここ最近は同じような方々が多いのです……」
そういえばアルベリヒは他の気に入らない貴族も、ちょくちょく追放していたんだった。
はぁ……本当にロクでもない皇子ね……。
自分の首を絞めることになるのが分からないのかしら。
でもまあ……私にはもう関係がないことだ。
「みんな首都に嫌気が差したのでしょうね」
「ほう、そうお考えになりますかな」
この老人、私から情報を引き出すために声をかけてきたのかも……。
国境付近を自由に動き回れる羊飼いという職業は間者のなりすまし先とされることも多い。
後は密輸業者とか。
羊の皮膚を薄く開いて閉じて、その中に関税額が高い宝石などを忍び込ませるのだ。
豊かな羊毛がカモフラージュとなり、切開した皮膚の縫い痕は見えないという寸法だ。
……って私は何を考えているんだろう。
こんなに人が良さそうな老人相手に。
リリアに裏切られたことで私は重度の人間不信に陥っているらしかった。
「私たちも首都に別れを告げてきたのよ」
「そうでしたか……」
「山脈までは安全ですが」
「下山した向こう側には魔物が増えていると聞きます」
「どうかお気をつけてくだされ」
「あなたもね」
「子供たちを喜ばせてくれて感謝するわ」
「ほっほほほ……年寄りの楽しみなんていうものは子供の笑顔ぐらいしかありませんからなぁ」
「ふふっ、世の中があなたのような老人ばかりであれば良いのだけれど」
それから3人のほうを向いて馬車に乗るように促す……その前に。
私も羊を撫でておこう。