第五章 濡奈川(ぬながわ)姫物語
書物は色んなことを人に教えてくれます。
そしてされは、あなたを思ってもみなかった世界へと誘うこともあるでしょう。
『濡奈川姫物語』
それは果たして、どんな物語なのでしょう?
その夜、薔薇人は図書館で借りてきた本をひもといた。
新潟県の観光案内は後回しにして、まずは『翡翠入門』を開いた。
オールカラーで写真や図版の豊富な本だった。
数々の美しい翡翠の標本やジュエリーが掲載されていて、古代中国にはじまる翡翠文化の紹介もあり、翡翠に関する基礎知識を得ることが出来た。
中国では翡翠のことを「玉」と呼び、珍重された。
また、ヒスイという名称は、翠の羽根を持つカワセミから採られたものだという。
カワセミは中国では古くから天狗の化身と考えられていた。
天狗とは、中国では隕石のことを示し、カワセミも翡翠も、流れ星のように天からもたらされた神聖なものとして崇められていたのだと。
日本でも縄文時代中期から独自の翡翠文化が形成され全国に波及したが、何故か奈良時代にその伝統は途切れ、歴史からも姿を消してしまう。
一旦途絶えてしまった日本に於ける翡翠文化が再発見されたのは、明治時代になってからだった。
糸魚川市出身の詩人・相馬御風が『古事記』や『万葉集』の記述から、わが国から翡翠が出土したのではないかと推理したのを契機に、遂に小滝川の流域で翡翠の原石が発見されたのである。
続いて万葉さんオススメの『濡奈川姫物語』を読みはじめた。
まず本文の冒頭に、エピグラムとしてこんな和歌が掲げられていた。
沼名川の 底なる玉
求めて 得し玉かも
拾ひて 得し玉かも
惜しき
君が 老ゆらく 惜しも
『万葉集』雑歌三二四七番歌
これは相馬御風が翡翠を再発見するきっかけとなった歌だった。
万葉さんがこの本を薦めてくれた理由のひとつがこれだということが解って、薔薇人はニヤリとした。
物語は、出雲の国の大国主命が高志の国に、濡奈川姫という美しい姫がいることを知り、求婚に行くところからはじまる。
大国主命にはすでに、出雲に正妻 須勢理姫の他に数人の妻がいたが、噂に聞く濡奈川姫の翡翠を使った霊力を、国を治めるために必要なものと直感したので、海を渡って高志の国を目指したのである。
側近には、昔話でも馴染みのある、稲葉の白兎こと、兎女 の姿もあった。
兎女は、海賊に襲われて瀕死の状態にあったところを、大国主命に助けられて以来、女忍者のように命に仕えて来たのだった。
大国主命は濡奈川姫を、かつて類い稀な霊力で諸国を統合した卑弥呼様の再来ではないかと思っていた。
もしそうならば、大和の国との争いに終止符を打つための切り札になるのではないかと考えたのだった。
舟が高志の国に近づくと、海の色が透明感のある翠色に変わった。
それは光の屈折が見せたものだったが、命には濡奈川姫の威光が海をこのように輝かせているのだと感じられた。
上陸した一行は、まず兎女を斥候として派遣し、高志の国に来意を伝えさせた。大国主命の名前は、この国にも伝わっていたので、来訪は歓迎された。
国の中央を流れる姫川のほとりを辿って行くと、丘陵地帯に集落があり、高志の民が音楽を奏でながら命を迎えてくれた。
ここは海の幸にも恵まれ、想像以上に豊かな国らしい。
やがて集落の向こうに、濡奈川姫の神殿が見えて来た。
その壮麗な佇まいに、命は息を呑んだ。
神殿は、出雲にも共通する神社のような様式の建築物だったが、全体に薄く削られた翡翠の欠片がびっしりと貼り付けられていて、陽光を受けて翠色に光り輝いていたのである。
ここまで読んできて、薔薇人は鳥肌が立った。これは、自分が幻視した翡翠都市と似ている!
前のめりになって読書を続けた。
堅く閉ざされた扉に向かって、命は来意を告げ、姫を恋う歌を歌ったが、夜が来て、あたりが暗くなり、鵺が鳴く頃になっても、良い返事をもらうことは出来なかった。
深い闇の中に、翡翠の神殿は淡く翠色に光って見えるのだった。
大国主命の求愛は三日三晩続いた。
三日目のの夜は、月が完全に見えなくなった新月の夜だった。
ぬばたまの闇の中で神々しく光る翡翠の宮殿の扉が開いた。
そこに、まばゆい光に包まれた濡奈川姫の姿があった。
「あなた様のお気持ちはよく伝わりました。どうぞこちらへ」
招かれるままに神殿の奥に進むと、祭壇があり、その中央に、磨かれた翡翠の鏡が置かれていた。
「この三日間、わたくしはこの鏡で、あなた様とあなた様のお国の未来を占っておりました。あなた様のお国・出雲は、大和との戦を続けておりますね」
「いかにも」と大国主命は答えた。
「われわれは和平を望んでいるが、大和は武力で諸国を平定しようとしている。
そこで両国の和睦と諸国の平和のために、卑弥呼様の再来と謳われるそなたの力を必要としているのだ。
どうかわたしの妻になってくれまいか?」
「はい」と姫は答えた。
「わたしも、わたしの種族を後世に繋ぐために、あなた様のようなお方が現れるのを待っておりました」
「ありがたい。それならば」と、命が姫を抱き寄せようとすると、姫はその腕をするりと脱けて祭壇の鏡の傍らに立った。
「その前に、あなた様にお見せしたいものがございます」と言って姫は鏡を示した。
「出雲の国はやがて大和に破れ、大和が諸国を治めることになりましょう」
「何だと!」
「大和の支配はおよそ二千年以上に及び、絶え間ない戦の連続で民を苦しめることでしょう。そしてその結果、恐ろしいことが起こります。ごらんください」
翡翠の鏡が閃光を放った。そしてその後に、キノコのようなかたちをした不気味な雲が湧き上がるのが見えた。
「これは何だ?」
「神の火です。
大和の支配者たちは、自らの起こした戦によって、神の火の制裁を受けることになります。その結果……」
鏡にはおびただしい数の死者が映し出された。
それはどんな戦でも見たことがない、むごたらしい姿だった。
「民は滅びます。民のいないところに、国は成り立ちません」
姫の眼が、じっと命を見据えた。
「これが、この後、われとわれわれの民に起こると言うのか?」
「はい」
「避けることは出来ぬのか?」
「はい」と姫は言った。
「ただし、わたしたちが結ばれ、大和の支配に心からは服従しない民の裔を残すことが出来れば、悲劇をわずかでも小さなものにとどめることが出来るやも知れません」
「なるほど面白い」と命は答えた。
「そなたの言うことがまことかどうか、われらのはるか遠い後の世の子どもたちに、見極めてもらおうではないか!」
こうして大国主命と濡奈川姫は結ばれたのである。
姫はやがて男の子を産んだ。建御名方命と名付けられた少年は、心優しい男に成長したが、出雲と大和との戦いに参戦し、敗退した。
だが、彼は一命をとりとめ、諏訪湖のほとりに小さな国を築いて、その子孫を残すことになる。
こうして濡奈川姫の血脈は現代にまで伝えられ、世界を決定的な滅亡から守る民草として、今も生き続けているのである。
「濡奈川姫の末裔、それは今、この本を読み終えた君かも知れない」
と、物語は締めくくられていた。
ちなみに濡奈川姫は、一般的に「奴奈川姫」と表記することが多いが、「奴」の文字は「奴隷」など、人を卑下して使われるものなので、そのイメージを嫌い、あえて「濡」の文字を宛てたと、作者は「あとがき」で述べている。
比較的薄い本だったので、一気に読了した。
そしてあらためて新潟県の観光ガイドをひもとき、フォッサマグナミュージアムのページを開いた。
ここへ行ってみよう! と薔薇人は思った。
書物に導かれて、薔薇人の新たな冒険がはじまる予感がします。
それは……