第三章 深まる謎
翡翠の脳に不思議な都市と少女の姿を見た少年の前に、さらに深い謎が……。
夏休みの最後の日、薔薇人は昨日翡翠の脳が見せてくれた都市を背景に、あの翠の髪の少女をスケッチして過ごした。
なかなか思い通りに描けず、何度も描き直し、やっと納得出来るレベルに達したところで、水彩絵の具で淡彩した。
自分でも会心の出来に思えた。
これを大きなキャンバスに描いて、今年の文化祭に出品しようと思った。いや、その前に古本さんに見てもらおう!
翌日は、スケッチブックをカバン入れて登校し、始業式とホームルームが終わると、そのまま美術室には顔を出さずに、自転車でいぶき館に直行した。昨日描いたスケッチを、早く古本さんに見せてあげたかった。
いぶき館は雲母のように光沢のある水色のタイルで覆われ、とんがり屋根の尖塔を持つ、未来的なお城のような建物で、行政と文化の中心であると同時に、文字通り町の象徴のような建築だった。
入口近くの案内板で場所を確認すると、階段で二階に上がり、すぐ左手の部屋へと辿り着いた。そこには確かに「文化財保存館」という看板がかかっていたが、しっかりとドアが閉じられていた。何だか悪い予感がした。
よく見ると、看板の傍らに貼り紙があり
「ご利用の方は、ドアを開け、右手の壁際にあるスイッチで照明を点けてご観覧下さい。ご退出の際は、忘れずに消灯をお願いします」
と書かれていた。
どうやらここは無人らしい。
貼り紙の指示通り、ドアを開け、右手の壁際のスイッチを入れた。
展示室はT字型の部屋で、左右と正面、そして中央にガラス張りの陳列棚があった。
中には見憶えのある三角縁三神五獣鏡や、埴輪や土器も陳列されていたが、ほとんどは城山第一古墳からの出土品ばかりで、肝心の良文貝塚からの出土品も、そして自分が磨き上げたあの翡翠の脳も、陳列されていなかった。
しばし思考が停止した。
これは、どういうことなのだろう?
立ち尽くしていても仕方がないので、とりあえず一階に降りて、受付の人に事情を訊いてみることにした。
「私はあんまり詳しくないんだけどね」と、応対してくれた中年男性の職員は言った。「良文貝塚の出土品は、貝塚地区に出来た田園空間博物館というところに所蔵されているはずだね」
職員は親切に町の地図を出して来て、その場所を教えてくれた。
「午後四時まで開館しているはずだから、今から行けば間に合うよ」
「ありがとうございます」
薔薇人は、いぶき館を飛び出すと、自転車に飛び乗って、貝塚地区へと向かった。
貝塚地区は、町村合併する前は良文村と呼ばれていたところで、南の台地の上にあった。
小学生の時、遠足で来たことがあるし、近くに同級生もいたので、道順はすぐに解った。
長い坂道を昇りきり、ゆるやかにカーヴする道を少し走ると、左手に「まほろばの里田園空間博物館」という看板が見えて来た。
少し奥まったところにある駐車場には、車が一台停まっているだけだった。これが古本さんの車だろうか? その傍らに自転車を停め、薔薇人はカバンから出したスケッチブックを抱えて、山小屋のような佇まいの博物館へと入って行った。
受付には、古本さんと同じくらいの年配の老人がいたが、別人だった。
「あのぉ」と、薔薇人は受付の老人に尋ねた。「ここに古本さんはいらっしゃいますか?」
すると老人は、怪訝そうな表情を浮かべて「古本さんなら、三年ほど前に亡くなられたんだが」と答えた。
亡くなられた?
薔薇人はその言葉の意味が、上手く呑み込めなかった。古本さんとは、おととい会ったばかりじゃないか!
「君は古本さんのお知り合いなの?」
老人の問いに、力なくうなずくしかなかった。何だか全身の力が抜けてしまったような感じだ。
「あの人くらい郷土史の研究に熱心な人はいなかったね。あの人の尽力で、発見された資料や、保存された出土品はたくさんあるからね。その一部がここに保管されているんだ。ゆっくりと見ていってくれたまえ」
言われるままに案内された展示室には、なじみ深い「顔面装飾付香炉形土器」のレプリカや、貝塚から出土されたアカニシ貝などが展示してあった。しかしやはり、翡翠の脳はどこにもなかった。
「ほら、ここに古本さんが写ってる」
受付の老人が壁に飾られた写真を示した。
それは良文貝塚発掘当時の古い白黒写真だった。
発掘にたずさわった人たちの集合写真で、その右端に、まだ若者の古本さんが写っていた。
好奇心と人なつこさが共存する表情が、まさに古本さんだった。
なんでだよ?
薔薇人の眼から、涙が溢れて来た。
せっかくこれから凄い研究が出来るって思ったのに……。
博物館を出た薔薇人は、猛スピードで坂道を自転車で走り降り、新町通りの郷土史資料館のあった場所へと向かった。
案の定、そこは厚い扉で固く閉ざされ、一枚の貼り紙が資料館の閉鎖と、建物の解体撤去を告げていた。
古本さんは亡くなっていた。
そして、郷土史資料館もない。
だとしたら、夏休みの後半の自分の体験は何だったのだろう?
幽霊?
幻影?
記憶を確認するように、カバンからスケッチブックを取り出し、昨日描いた翡翠都市と少女の水彩画を見直した。
そう、僕は確かにここで古本さんと会い、翡翠の脳を磨き、その中に翡翠の都市とこの少女を見たのだ。
帰宅して、机の引き出しにしまっておいた茶封筒の中を見ると、そこにはちゃんと今の紙幣で一万円札が二枚と、翡翠の勾玉が入っていた。
そして添えられた付箋には、濃紺の万年筆の筆跡で、
「少額だが、これは御礼の気持ちだ。受け取ってくれたまえ。他愛ない老人の研究に、根気よくつき合ってくれて、感謝している。どうもありがとう。同封した勾玉が君の未来を拓いてくれることを願っている。 古本」
と記されていた。
僕が見たものは、幻ではない。あの翡翠の脳も、そこに映し出された翡翠の都市も、翠の髪の少女も、きっとどこかに実在するに違いない。
と、薔薇人は思った。
深まる謎に向かって、薔薇人のさらなる探求の旅がはじまる!