第二章 翡翠の脳
奇妙なアルバイトを依頼された薔薇人少年。
脳のかたちをした翡翠とは何?
翌日から、薔薇人の奇妙なアルバイトがはじまった。
午前中は自宅で学校の課題をやり、午後は資料館へ行って翡翠を磨いた。
まずは表面に付着した石を丹念に削り落として行く。
削った粉が飛ばないように、霧吹きで表面を濡らし、金属のヤスリで根気よく削って行くのだ。
最初はおっかなびっくりやっていたのだが、古本さんに「翡翠はとても硬い石だからね、もっと思い切って力を入れても大丈夫だよ」と言われたので、次第に力を入れて行き、最初の半日でほぼ全体の輪郭が露わになるほどに磨くことが出来た。
「さすがは高校生だね。若いってのは素晴らしい」と、古本さんが誉めてくれた。
余分な石を削り取って見ると、表面には細かいシワがたくさんあり、それはさらに脳のかたちに似て来た。
次の日から紙ヤスリを使った繊細な作業となった。
シワに入り込んだ細かい石の粒子を取り除き、ブラシをかけ、ヤスリで磨く作業は、どこか考古学者の仕事のようにも思え、悪い気分ではなかった。
薔薇人は、将来はマンガ家かイラストレーターになりたいと、ぼんやりと夢想していたが、考古学者になって遺跡発掘をするのも悪くないなと思いはじめていた。
それくらい、この作業は自分の性に合っているように思えた。
資料館には訪れる客もなく、作業場に与えられた二階の展示室には、窓から涼しい風が吹き込んで来て、作業に集中することが出来た。
磨き込むうちに、翡翠の表面が輝きを増し、繊細な緑色の濃淡が浮き上がるのに魅了された。
時折、古本さんが顔を覗かせ、作業の進捗状況を確認しながら、雑談して行く。それも楽しかった。
「日本で翡翠が出土されたのはね、フォッサマグナの影響によるものなんだ。フッサマグナは知ってるかね?」
薔薇人は元気よくうなずいた。
フォッサマグナの名前は、父がDVDを借りてきて一緒に観た映画『黒部の太陽』で知った。
日本列島のほぼ中央を走る巨大な断層で、列島はそれを境に「逆くの字」型に折れ曲がっているのだ。
黒部ダムの建設工事は、このフォッサマグナの影響で出来た破砕帯というもろい地質のために、資材運搬用のトンネル工事が難航したのだった。
感銘を受けた映画と、自分のやっている今の作業が繋がり、さらに深い感動を得た。
点と線が繋がるというのは、こういうことなのだなと思った。
「フォッサマグナというのは、糸魚川と静岡を結ぶ構造線のことだが、この地殻変動が、地中深くで形成された翡翠の原石を地表近くにまで押し上げたというわけなんだ。
糸魚川市にはフォッサマグナミュージアムがあり、その近くには長者ヶ原遺跡という縄文時代の遺跡もある。世界最古と言われる日本の翡翠文化について立体的に知ることが出来るから、君もいつか行ってみるといい」
また別の日には、こんなことも言った。
「この翡翠は、もしかしたら古代人の記憶装置だったのではないかと思うんだ。
脳のかたちをしているということは、それが記憶を司る器官であることを彼等が知っていたということになる。
いや、彼等にそれを教えた誰かがいるのかも知れないし、そもそもこれは、縄文人のつくり出したものではないかも知れないとも思えて来る」
その言葉は、とても印象深く薔薇人の脳裡に刻まれた。
夏休みの残り時間は少なくなりつつあり、作業も終盤を迎えていた。
目の細かいサンドペーパーで丹念に磨き上げたのち、つや出しのためにフェルト製のパフで表面をさらに磨くと、それは湖水のように深い輝きを放つのだった。
作業を終えた薔薇人は、あらためてじっくりとその石を見た。
それはやはり、脳としか見えなかった。
誰がこんなものをつくったのだろう?
そう思いながら両手でそっと石に触れてみた。
ひんやりとした感触が心地よい。
そのまま持ち上げて、自分の額に押し当ててみた。
こうすれば、そこに刻まれた記憶が伝わって来るような気がしたからだ。
じっと眼を閉じて前頭葉に意識を集中していると、閉じたまぶたに光を感じた。
そっと眼を開けて見ると、翡翠の脳が内側から光を発し、半透明になっている。そしてその光の中に、ある風景が浮かび上がって来た。
頂点がとんがった、尖塔のような奇岩が寄せ集まり、まるで城砦都市のように見える。
その風景には、どこか見憶えがあり、奇妙な郷愁さえ感じた。
テレビのドキュメンタリー番組で観た、トルコの奇岩都市カッパドキアの景観にも通じる、不思議な懐かしさに、胸が締めつけられるような感動をおぼえた。
都市の中央には、周囲の尖塔よりもひときわ大きい塔があった。
ここが街の中心なのだろう。見つめていると、その扉が開き、中からひとりの少女が現れた。
翠色の長い髪をした少女は、巫女のような白い衣を纏い、その衣には、紫色のアラベスク紋様が染められている。
少女は天に向かって両手をひろげ、しなやかな動きで祈りの踊りのようなものをはじめた。
どこからか音楽が聴こえるような気がした。
そして踊りが終わると、ひざまずき、手を合わせ深く頭を垂れた。
岩に染み入るような静寂のあと、少女はゆっくりと顔を上げ、閉じていた眼を開いた。そこで画面が一気にクローズアップするように迫って来た。
少女の開いた両眼のその瞳が、エメラルドグリーンの閃光を発した。
眩しさに、薔薇人はきつく眼を閉じた。
その眩しさは一瞬だった。
まぶたの裏に光を感じなくなったので、おそろおそる眼を開いた。
捧げるように持った翡翠の脳は、磨き上げられた光沢を放っていたけれど、その中にあの翡翠の都市も、翠の瞳の少女の姿もなかった。
足音がして、古本さんが階段を上がって来た。
部屋に入って来ると同時に、机の上の翡翠の脳を見て、
「おお、ついに完了したようだね」
と言いながら、両手で捧げ持つようにして、満面の笑みを浮かべながら、あらゆる角度からそれを眺めた。
「うん、いい仕事をしてくれた。やっぱり君に頼んで正解だったな」
薔薇人は先ほどの体験を話そうかどうしようか、ちょっと迷ったが、この人なら理解してくれそうな気がしたので、話すことにした。
古本さんは、じっと話に耳を傾けてくれた。そして話が終わると、
「なるほど、こうかな?」
と翡翠の脳を自分の額に当てて眼を閉じたが、残念ながら何も見えなかったらしい。
「たぶん、君が丹念に磨いてくれたので、その思念に石が反応したんだろうね。
この石が私の推測どおり、何らかの記憶装置だとしたら、いつか遠い時代に、われわれのまだ知らない翡翠の都がどこかにあり、そして美しい姫がいたに違いない。
君は貴重なものを見たんだ」
と言って、古本さんは石を机の上に置き、ワイシャツの胸ポケットから顔を出していた茶封筒を取り出して、薔薇人に差し出した。「これは少ないが御礼の気持ちだよ、受け取ってくれたまえ」
「ありがとうございます。とっても楽しかったです。また遊びに来てもいいですか?」
封筒を受け取って薔薇人が言うと、古本さんはちょっと淋しそうな顔をしてこう答えた。
「この建物は老朽化が進んでいてね、今月いっぱいで取り壊されることになっているのだよ。
所蔵品と資料は、いぶき館の文化センターに新規に開設される文化財保存館に移されることになっているんだ」
いぶき館というのは、役場と町民のための文化センターとホールが合体した建物のことだ。名称は町の木として認定されてる「伊吹」にちなんでいる。
「解りました。来月からはそちらへ行きますね。それじゃ、また!」
元気よく言って、薔薇人は郷土史資料館を後にした。
夏休みは、あと一日残っていた。
薔薇人が観たものは、ただの幻覚だったのか?
それとも……