二話 ろくでもない、かわりのない
拳が痛い。ムキになるのは今後控えよう。
後ろ手にドアを閉める。映画のスピーカーから流れるような爆音で動くさっきの扉とは違って、この扉は随分と大人しく閉まってくれる。
壁、床すべてが白塗りの部屋。一応俺の「自室」ということになっている。独房か、何かの実験のための隔離部屋と説明されたほうが納得できる異様さ。頭がおかしくなっても不思議じゃないが、長いことここで生活しているのに大丈夫なことのほうが不思議でならない。おかしくならないってことはもうおかしいのかもしれない。
加えて、「お前の生活なんてこれで事足りるだろ」と言わんばかりの窮屈さを誇る部屋でもある。俺が床に寝転んで丁度嵌まるくらいの幅。
そこに家具など大量に置けるはずもなく――――――
隅に寄せられた机と、対になる椅子。壁にかけられた照明。
以上。部屋紹介はその程度。食事も睡眠も、あと自慰行為も、嗜む趣味でもなければ必要としない天使に部屋自体いるのか疑問だが、まあ一人になれる空間と捉えればないよりはあったほうがいい。実際のところは、ノックもなしに上司が入ってきたりするので満足に心を休める時間もプライバシーもクソもない。
現状、強いて目を引くものを上げるなら机に散らばった白い紙の束ぐらいだろうか。今日は若干多い気がする。
「…………やっぱクソだな」
嘆息して、机に力なく向かい椅子に体重を預ける。この硬い椅子の座り心地も最悪である。羽が任意で出し入れできなかったら座りづらさに拍車をかけていたことだろう。
羽。白い羽。天使の羽。ランドセルではない本物の羽が、さっきドーナツを貪っていたあいつに限らず天使全員に生えている。俺もご多分に漏れず。
しかし、一ヶ月と少し前といえど、天使に成り下がったのが最近の俺に羽を使いこなせる技術は残念なことにない。精々できるのは高所からの滑空。あとは小さい風を巻き起こして埃を飛ばすことぐらいしか有効活用の仕方が思いつかない。
ここまで動かせるようになるまで自分なりに努力はしたのだが、どうも才能がないらしい。飛行は移動が速くなったり、階段を使わなくても上に上がれたり、できるに越したことはないのだろうができるようになる気は毛頭しない。
実質飾りである。見えないので自分でもどうなっているかわからないが出したり消したりはできる。やけに都合がいいなと、それができると知った日から羽は一度も出していない気がする。
首を背もたれの上部分に乗せて、暫し天井を見上げる。別に何某かがあるわけではない。やはり無機質な白が視界を埋め尽くすだけだ。シャンデリアとかが吊られているだけでも今なら気が紛れるのかもしれない。
――――――ずっとこうしていたいような気もする。
なんの生産性もない行動ではあるが、部屋に戻ってきたら取り敢えずこうするのが習慣になっている。聞きたくもない声を聞き続けたご褒美にこれくらいは許されていいと思う。
ご褒美でも何でもなくコンスタントにドーナツが食えるあいつが羨ましい。あいつあいつと呼んでいるのは名前すら知らないから。もう心の中で、あいつの名前はドーナツでいいんじゃないかと定着させ始めている。
「……………………」
時間が過ぎる以外何も起こらない束の間がどれほど幸せか。
が、そうのんびりとしてはいられないのが現実。
首を起こして目線を机上に向ける。見たくもない、枚挙に暇がない書類の数々に手をかければもう何も考える必要はない。内容を確認して、分類。昨日何人が逃げ出して何人の頭が吹っ飛んだとかそういった余計な情報は頭に入れてはいけない。
作業自体は簡単だ。下っ端に大役を任せて仕事が滞るのは上としても避けたいらしい。
掃除とか食事の用意とか、書類整理以外に与えられた業務も、余程の阿呆でもない限りはこなせるものが殆ど。何だか入ってきたばかりのアルバイトがずっと皿洗いさせられているような、そんな感じだ。
――――――この例えが通じる奴が一人もいないのはちょっと悲しい。
そんなことを思案しながら作業の手は休めない。
正確にいつかは忘れたが、死んだ。
死因は自殺。己で己を殺す。自決とか自害とも言う。人間の一般認識じゃ良いイメージは持たれないであろう行為。家族や知人は、死んだ人間がどうでも良くなければ悲しむ。報道を見た赤の他人は「まだ若いのに可哀想」とか「命を捨てるなんて馬鹿野郎」とか他人事で済ませる。
いずれにせよ、そんな認識の世界だったからこそ行動に至ったんだと記憶している。刃物で肉を抉る最初で最後の感覚もまだ覚えている。
そうして自分の血で床に色塗りして、意識が遠のいて、なぜか開ける目をもう一度開けたら
――――――知らない誰かに、見つめられていた。
実際にはいくらか間があったのかもしれないが、感覚的には、それはもう意識が飛んでから一瞬と呼べるものだった。
視界は決して良好ではなかった。何故って視界一面がほぼ顔面で埋められていたからだ。女性の、見たこともない美貌だったから気分を害することこそなかったが。
ただ無彩色の黒の双眸がこちらに向けられていたのだ。寝起きドッキリもいいところ。
朦朧とした中で宝石を閉じ込めたような美しすぎる瞳に見つめられて、ドキドキしたりする前にまず動転する。
いまさっき喉仏に突き刺した包丁は無いし、痛みもない。呼吸は満足にできるし、血の生暖かさも感じない。
何より――――背中になんか生えてる。それが見ずして感じ取れた。
なんとはなしに力を込めると、バサバサと音すら鳴らないほどに弱く背中で何かが動く。羽。そよ風程度なら起こせる大きさ。
死んだら行くところ。
人間の、死の恐怖を紛らわせるためのでっち上げだと思っていた。ただそのでっちあげに縋りたかったのか、確証もなしに「天国」なんて単語が脳裏によぎる。なんとなく、この時点でここは死後の世界だと理解していたのかもしれない。
明らかな狼狽を見せる俺に、その両眼は段々遠ざかって全体像が確認できるようになる。
「ようこそ」と。緩慢に口を開いて、口角を幾らか上げて微笑みかけてくる。やはり顔立ちは誰もが羨む美しさ。整形したような作り物のそれではない。おまけにその四文字で耳が喜ぶぐらいに透き通った声。神聖さというものを初めて味わう。
ろくに状況を把握できはしなかったが、とりあえず目の前の人を「天使」と形容した。
白い布を身に纏って、背中からは白い羽を覗かせて。
人間の作り出した共通認識の「天使」が、俺を見下ろしていた。
言葉では言い表せないような荘厳さ。自分が格下の存在であると無意識に気付かされるような得体の知れない覇気。
同時に、何もかも包み込むような包容力と、向けられた笑顔から、何処までも深い慈悲を感じ取った。
感じ取ったはずだったのだが。
「お前にはこれから、働いてもらう。天使としてな」
優しい「ようこそ」の次の言葉がそれだったからもう何が何なのかわからなかった。
冷酷に、冷淡に。慈愛の表情が掃き溜めのゴミを見る形相に変わる。
自分が置かれている境遇の訳のわからなさも相まって恐怖した。体が震え上がって、ただ床にへたりこんだままにどうすることもできなかった。
続けて畳み掛けるように説明がなされる。訳分からないなりに耳を傾けたが、「天国」とか「天使」とか、そんなメルヘンな言葉が織り交ぜられつつも、要約すれば「下っ端としてひたすら雑用し続けろ」とのことだった。
やはり訳が分からなかった。
説明が終わった後、「お前はまだ飛べないから手間がかかる」と言われながら、引っ張られて宮殿かなにかの建物へと連れ込まれる。
先刻のドーナツとはそこで初めて出会ったんだっけか。
今日から私の元で雑用しろと。
質問も抵抗も意味のないものに思えた俺は、黙って、天使として働くことを了承した――――――
――――――意味がわからん。
嫌になって命を絶ったというのに、強制的な存命を余儀なくされ、天国でやることがただの「労働」とは。
給料なし。代わりになる褒美もない。人に幸福を運ぶイメージの天使が書類整理とかお掃除に勤しんでいるなんて知りたくはなかった。
そして自分もその一人になるとは。
「…………なんで死んだんだろ」
現実から逃げて死んだはずが、劣悪な環境に飛び込んだだけのような。
とにかく、ここ「天国」は生前の自分が思い描いていたような場所ではない。
堕落している。希望とか未来とか、前向きなワードとは無縁の場所。
ここにいる奴らは――――――
――――――コンコン、と。
機械のように作業を繰り返していた俺の耳に届くその音で、現実に引き戻される。
ノックの音。ドーナツじゃないな。あいつは律儀にノックなんてしない。書類をもらいに来る時間はまだ先だし、第一呼ばれる前に持っていくつもりだ。
だから安心して開けていい、と思う。
「……ヴェル?」
――――良かった。
少し怯えたような声。やはり控えめなノックが性格を表しているなと思う。
手を止め、立ち上がって扉へ。手を伸ばせば座りながらでもドアノブに手は届くが、来客に対して失礼ではないかと思案するのは要らぬ気遣いか。
「んー……」とか適当な返事をして扉を開ける。
少し視線を落とすと――――
「えっと……今日も、書庫行かない?」
にへら、と笑う幼い顔立ちの同僚を見て、鬱屈とした気持ちが少し軽む。
「おう、書類整理終わったらな。閉鎖空間に俺と二人きりでいいなら中入っていいぞ」
「……れが……ぃ」
「ん? なんだって?」
屈んで、自分より一回り低い背に合わせる。
「んひゃあっ! なん何でもない、ないぃ……」
顔を赤くして両手で顔を抑えて何でもない、か。
こいつがわかりやすいのか、俺が自意識過剰なのか。
前者、だと思いたい。
「……その本、前も見てたね。面白い?」
「……まあ面白い、かな。でも面白いから見てる訳じゃない」
「…………?」
訝しむのも当然の返答は、本に目を落としたままに。
書類整理でだいぶやられた頭で本に目を通すのは正直あまり気が進まないが、こいつの誘いを断るほどじゃないし、誘われなくてもそのうち来てただろう。
古臭い、独特の匂いがかなり強い本のページを大雑把に目を通して捲る。
小説や解説本のように文字が縦に羅列されたものではなく、絵が主体の、図鑑とかに近い。
それらしい項目か単語か何かが見つかるまでまともに読みはしない。
前来たときに半分以上は目を通したからあと少しだ。
その後少しに、俺にとって需要のある情報は――――――
……もう、あまり期待できないな。
「……駄目だ」
「……本読み終わった感想じゃないね」
「…………展開が気に入らなかった」
「それ物語じゃないよね」
「…………知りたい情報がなかった」
――――――――こういうところでやけに鋭いから困る。
はぐらかして、また言い直して、適当にこのでかい本が入るスペースを見つけて棚に戻す。
俺の自室という名の独房がある階の上、階段を上がってすぐの場所にある書庫。
誇れるような広さではない。小学校の図書室『の四分の一』とさえいい対決はしない。四人目ぐらいが入ったあたりで、ちょっと狭苦しいなと感じ始める許容量。書庫というなんとなく広くて大きそうな名前の響きに騙されてはいけない。
扉はなし。誰でも入れる警備のザルさと、「ここにある本をすべて読み切る」と本好きが意気込んでも、それがフラグにならず完遂できそうな蔵書の数が売り。
俺らのような下っ端でも入ることが許されているのは、そもそもこんな部屋があったことを忘れる奴がいるほどに存在感がなく、入っても大したものが得られるわけではないと上の奴らが考えているから。つまりこの書庫は大事な場所でも何でもない。
何処からか持ち込んでいるのか、それとも本に興味を示す奴のほうが少ないこの天国で誰かが作ったものなのか、創作された物語が綴られたもの、ちょっと理解し難い作者オリジナルの生き物が描かれたもの、わざわざ見る奴もいないのにこの建物の見取り図や天国の風景が載せられたもの。
ジャンルは本当に様々。統一感がないとも言う。生まれたときから何故かある程度の知識を持っていて、かつ他人の作る世界に興味を示さない天使がわざわざ立ち寄るほうが珍しい。
つまり俺の隣にいるこいつは結構異質。自分を棚に上げるのは、俺は人間から天使になったので天国の知識は皆無だし、ここに来るのは本を楽しむのが目的じゃないからだ。
見回すほどの広さもない部屋をぐるりと一周して、もう手に取りたくなるような本が無いことに絶望する。
逆に、もう実行していいということであると思うと少し怖ける。
「……………………」
「……ヴェル、顔死んでるよ」
「一回死んだんだけどな」
「あはは……でもいつにも増して死んでる。……嫌なことあったの?」
「……そう、だな」
あったし、これからある。そりゃ死んだ顔にもなるっての。
やりたくもないはずのことをやろうとしている心理と感情の齟齬が辛い。
こんな奴の心配をしてくれた隣の同僚は、俺と会話をしながらも本を読み進める手を止めない。
「……リハ、お前ほんとにここの本好きだな。なんか可哀想だわ」
「どういうこと!?」
「いや、俺の死ぬ前の世界の本と比べると、小説の内容とかほんとに、ちょっとその、あれだ、うん、クソなんだよ」
「え、そのクソを私好んでるの?」
女の子がクソなんて言うなよ。
「だからもっと質のいい文章を一度読ませてやりたいなぁ、ってな」
「…………ん、そう……ありがと」
その質のいい本をあげたわけではないのに何故か感謝されてしまった。
また顔に紅葉を散らして。
俺はラブコメとかでお決まりの鈍感系主人公ではない。毎日のように会いに来る人物の好意に気付けないほど、『もしかして俺のこと好きなんじゃ……』という邪な感情は男性として捨てていない。
そうじゃなくても、こいつはちょっと隠す気ないと思うけど。
例えば、
「……リハ」
「んにゃっ、っ……んんっ……な、なに……?」
なにか仕掛ける前に、さっきのことにまだ動揺して噛むところとか、
「いや――――やっぱ可愛いなぁと、思って」
「んにぇっ!? い、んゃ、そにゃこと……っあ……な、なにがぁ……?」
主語のない言葉で、ここまで取り乱すところとか。
ちょっと心配になって罪悪感を感じるぐらいに顔を紅くしたリハは、それを必死に隠すように持っていた本で顔を覆う。その本を持つ手も紅い。
何が、と聞いたか。返答の義務があるな、うん。
「リハが」
「っっっ…………ゃめてぇぇ…………」
からかいの言葉は、思ってもいない嘘なんかじゃない。
僅かに舌足らずな言葉遣い。無邪気な笑み。全体的に自分より下の年齢。子供っぽいという言葉が似合う。
大人びて見えるのは、スカートの裾から伸びたスラッとした両脚ぐらい。細い腕は、大人しいいつもの態度が影響してか弱く見える。
可愛いと、普通に思う。そこに羞恥心や胸の締まる感じがないのは、リハの見た目が一回り年下だから。つまり俺の使う可愛いは、親が我が子に向ける愛情みたいなものなんだろう。
まあ若干? ほんの僅かだが? 色っぽい目で見てしまう節もありますけども?
――――対して、リハが俺に向ける『これ』は、多分愛情ではないんだろうな。一方通行になってしまうのは申し訳ないが、この見た目の年齢差だと俺がその思いに答えたらロリコンになってしまう。世間から白い目で見られるのはちょっと応える。
なので、俺の中でリハは可愛い妹だと勝手に思っている。
……これはシスコンでは、ないよな? まあロリコンよりはマシか。何がマシなのかわからないが。
当の本人は未だ本に隠れたままで、時折橙色の目でこちらをちらちらと見てくる。
駄目だ可愛いわ。それは反則だわ。もうシスコンでいいや。
こっちもどうにかなってしまいそうなのと、リハが黙してしまって話が途切れたので、食いつきそうな話題を振ることにする。
「……また死ぬ前の話、聞くか?」
「! うん、是非ともっ!」
恥ずかしがっていた様子が一転、嬉しそうに笑みを湛えて顔を上げる。
男の俺にはどう結んでいるのかはよくわからない、髪飾りが静かに主張する白髪が大きく揺れた。
「相変わらずだな。そんなに期待すんなよ?」
あやすようにそう言う俺のほうが喜んでいるのかもしれない。




