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失態

それから数日、ルーシュは朝はバラの香りに起こされ、そして晩餐のあとや夜寝る前にはティオールから『姫君の物語』を読んでもらいました。


昼間はティオールがいなくなる日もありました。


仕事だと言って出かけるのです。


ルーシュは屋敷の中で、本当に自由にすごしました。


ティオールがバラの手入れをするときには一緒になって庭園で作業をしました。


料理人のマールに教えてもらって、パンケーキを作った日もあります。


パンケーキにはたっぷりのクリームをそえて、満足いくほど食べられるくらいたくさん作りました。


ティオールは感激といった具合で、とても喜んで食べてくれました。


ルーシュがあんまりにもたっぷりのクリームを口に運んで頬にまでくっつけてしまったときには、ティオールが笑いながら拭いとってくれたのでした。


ユリシアのことがあったので、もしかしたらやっぱり世話はできないと屋敷を放り出されるかもしれないという心配は、まったくの無用だったのです。


それどころか実に楽しげに、ティオールはルーシュとの時間をすごしてくれるのでした。


こうなってくると、今度はバラが咲かないことを不審に思われるのではないかと心配になってきました。


誰がいつ見ても、いつまでも最初と同じ、小さくてかたいつぼみのまま。


枯れる気配はありません。


ついいましがた切り落とされでもしたかのようなみずみずしい姿のままです。


ルーシュが寝る前に本を読んでもらうときは、ティオールがルーシュのベッドのそばに据え付けた椅子に座って読むので、バラが目に入らないということはないでしょう。


けれどもティオールはなにも言いません。


あんなに花開くのを楽しみにしていたはずなのに、どうしてなにも言わなくなったのでしょう。


気にはなりますが、確かめることもできません。


ルーシュの心はそわそわと、落ち着かない気持ちになりました。


とはいっても今はなにができるということもないので、様子をみていくしかありませんでした。



『ルーシュ、どうしたんだい?

ぼんやりして。



今、ルーシュはバラ園で咲き終わったバラの花殻摘みを手伝っているところでした。



『日差しにやられたかな……?

屋敷に戻ってるかい?



『あ、……平気。

ちょっと考えごとしちゃって。



はっとして、頭を大きくふるいました。


ルーシュは手をのばして、房のようにいくつか咲いたバラの花の一つを握り込みました。


そのまま横にひねるように力を加えてぽきりと手折ると、茎がぽんと弾いたようなわずかな衝撃を伝え、ゆるく握ったてのひらの中にバラの花の部分が残されるのでした。


そうして足元に置いた桶に花殻をぽいと落とし入れると、また次のバラを摘みに、手をのばしていきます。



『すっかり慣れたみたいだね。



ティオールが感心したように、そして嬉しそうに言いました。


ティオールの方は、房にならず、一輪で咲くバラの花殻摘みです。


これはルーシュの作業よりも少し難しいらしく、バラのその後のために枝を切り取る場所をしっかりと見極めなければいけないのだそうです。


しばらくお世話していけば、『そのうちわかるようになるよ。』ということでした。



『うん、ぼくが疲れたかな。

ちょっと休もう。



ティオールはバラ園の片隅にある薄いピンク色のバラと、アプリコットピンクのバラが絡まった東屋へ足をむけました。



『ほら!

リディがちょうど飲み物か何か運んできてる。

ルーシュ、おいで!



ティオールは東屋のベンチにすとんと座り込みました。


ルーシュも小走りでティオールの隣へむかいました。


生い茂るバラの日陰に入ると、なんだか身体がほっとしたように軽くなる感覚がありました。


帽子をかぶってはいましたが、やはり日差しで疲れていたのかもしれません。


悪魔の世界では城の外に長い時間出ていることがありませんでしたからね。



『ルーシュさまもこちらをどうぞ。



リディがグラスに注いでくれたそれは、ほんのりと薄白く濁った水のようでした。


口にふくむと、ひんやりとした冷たさが心地よく身体を冷やします。


すうっと胸のすくようなさわやかな香りの中に、とろんとからむまろやかな甘みが混じっているのを感じました。



『ムィン……?



ルーシュは呟きました。


悪魔の世界で食べられる果物によく似た香りです。



『どうしたの?

美味しくなかった?



飲むのを一旦やめてグラスを確認したルーシュにティオールがききました。


口元に穏やかな笑みをうかべつつ、目はルーシュをうかがうようにぱちっとひらかれています。



『ううん。

美味しい。

なんだか気持ちがすっきりするみたい。


『ええと……、え、と……、ここに来る前に食べたことある果物かと思って。

……これ、ムィン?



悪魔の世界で食べていたとは言えません。



『―――?



ティオールは不思議そうに首をかしげました。



『ム……ミ………?



『ムィン。

でも……、こんなに甘くはないんだけど……。



ティオールはムィンを知らなさそうです。



『うーん……。

ムィンがなにかはわからないけど、これがなんなのかは教えてあげられるよ。

ほら、水差しの中を見てごらん。



ワゴン台にのせてあるガラス製の水差しを指し示しました。


透明なガラスなので、中がよく見えます。


水差しをみたす水の中には黄色っぽいような白っぽいような、ペラペラに薄い円形のなにかがいくつか入っています。


薄い輪切りのようです。


円の外側、縁側面は黄色。


その反対の内側を白いラインがぐるりと縁取り、さらに内側のほとんどはなにか黄色っぽく透きとおった感じの小さな粒々がぎゅっとつまってならんでいます。


よく見ると円の真ん中には小さな隙間があり、そこを中心にして放射状の筋が円を区切っていくつかの三角形を形作っていました。


これが正体だとすると、ムィンより余程大きなものを薄切りにしているのではないかと思えます。


ムィンはルーシュの人差し指と親指の先同士を付き合わせたくらいの丸い果物で、水差しの中身の円の半分に収まってしまう大きさです。


外側は少しかたい紫色の殻に包まれており、中身は白っぽくてひとかたまり。


噛むと口の中にじゅわっと果汁を溢れさせます。


粒々なんてまったくありません。


大きさもそうですが、姿がまったく違います。



『……ムィンじゃない。



しげしげと観察して、そう声にだしました。



『うん、そうだね。

これは、レモンっていうんだ。



『……レモン?



『そうだよ。


『あ、そうか!

リディ。



ティオールはリディにマールからレモンをもらってくるように言いつけました。


一旦屋敷へむかったリディはすぐに戻ってきましたが、マールも一緒についてきています。


マールは腕に手提げかごをひっかけていました。



『やあ、きたきた!



ティオールはマールからかごを受けとり、ルーシュに中が見えるようにしてくれました。


かごの中にはルーシュのこぶしよりひとまわり大きいくらいの、明るい黄色をした果物のようなものが五つ入っていました。


球というにはいびつで、楕円の両端がぽこりと飛び出たような妙な形をしています。


そのレモンを一つとり出してルーシュに手渡すと、残りはマールに返しました。


レモンの手触りはぼこぼこごりごりしています。


鼻に近付けてにおいをかいでも、先程の飲み物ほどの香りはしません。


と、横から鮮烈な香りが飛び込んできました。


マールがナイフでレモンを切っているのが目に入りました。


辺りにさわやかな香りが漂います。


レモン水と違って甘さは感じられません。



『はい、ルーシュさま。



人懐こい笑顔で、切り分けたレモンをひとかけら手渡してくれました。


良い香りです。


水差しに入っている薄切りレモンと同じく、粒々がたくさん集まっています。



『このまま食べられる?



『食べられますよ。

ですが―――……



ルーシュはマールの最初の返事をきいただけでレモンをぱくりと口に運んでしまいました。


噛みしめたとたんに全身が震えるほどの酸っぱさが口の中に広がり、そしてそれどころか苦くてえぐい、とんでもないものに襲われてしまったのです。


説明を始めようとしていたマールどころか、ティオールもリディも目をまるくして、ルーシュの行動にあっけにとられてぴたりと動きを止めたのでした。


ルーシュはそれ以上顎を動かすこともできず、両手で口元を覆ってどうしてよいやら、大人達三人にかわるがわる目をやりました。



『………――ル!

ルーシュさま、こちらに出してくださいませっ!



まず動いたのはリディでした。


ワゴン台にあった器を取り、ルーシュに差し出します。


お行儀が悪いなんていってられません。


ルーシュは飲むに飲み込めないレモンをぺっとはきだしました。


頬の内側が苦味と酸味にやいやいと攻め立てられているようです。


唾液が後から後からわき出てきます。


とはいえ原因のレモンはもう口にはありません。


びっくりしましたが、そろそろ落ち着いてきました。


ところが今度はマールがおろおろと泣き出してしまいました。



『も、申し訳ないです!

わっしの説明が、悪うございました!

きちっと!

きちっと、先にすっぱいですよって!

きちっと言わなきゃいけなかったんです!



一生懸命に申し訳ないと繰り返します。



『マール!

大丈夫よ、マール!

わたし、ちょっとびっくりしちゃったけど、でもそんなに謝ることじゃないわ。

わたしがちゃんとお話をきかなかったんだもの。

マールは悪くないわ!



『とんでもないです、ルーシュさま!

わっしが!

悪いのはわっしなんです!

申し訳ございません!



エプロンの裾で顔をおさえておいおいと泣きながら謝ります。



『マール………。



ルーシュは困ってしまいました。



『マール……、そんなに泣いてたんじゃルーシュが困ってるよ。



ティオールが呆れたように声をかけました。



『ルーシュ、もう大丈夫なんだろう?



ルーシュは大きくうなずきます。



『ほら、マール。

ルーシュもああ言ってる。

お前がそんなに泣いてたら、今日の食事は誰が美味しく作ってくれるんだ?

ぼくもルーシュも、お前の料理を楽しみにしてるんだ。

さあ、頼むから落ち着いてくれ。

リディ、屋敷に一緒に戻ってやってくれ。



マールはまだしばらくぐすぐすと鼻をならしていましたが、申し訳ない、ひとまず昼食はどうにか頑張ってみせますと、やはりエプロンで顔を拭いながら、肩を落としてリディに背中をさすられながら屋敷へ戻っていきました。



『――………ルーシュ、ごめんね。

マールにはああ言ったけど、本当に大丈夫かい?



マールとリディの後ろ姿が遠くなったところで、ティオールはもう一度尋ねました。



『うん、もう平気。

驚かせてごめんなさい。



『いや、ルーシュも驚いただろう。

レモンも、マールにも。


『……レモン水は蜂蜜が入ってるから甘いんだよ………。



二人とも屋敷へ消えていくマール達を見送っていましたが、どちらからともなく笑いがこみあげてきて、なぜだかおなかがよじれるほど笑い転げたのでした。



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