『姫君の物語』
朝です。
夜が明ける頃、ルーシュは寝心地のよいベッドの上で、バラの香りにくすぐられて目を覚ましました。
ここはどこでしょう。
いつもの黒い天蓋はどこにもありません。
厚みのあるカーテンのすきまからもれる薄明かりは、ルーシュが横たわるベッドを覆う白いレースの天蓋をほのかに照らしています。
そうです。
ここは悪魔の世界のルーシュの部屋ではなく、人間の世界のティオールの屋敷なのです。
はたと気付きました。
バラが強く香っています。
まるでルーシュのことを呼んでいるかのように。
ルーシュはするりとベッドを抜け出すと、バラのもとへと静かに急ぎました。
バラはすでに真っ赤な花びらを開ききっています。
とてもよい香りです。
胸に吸い込んで、ルーシュのバラには昨日初めて飲んだ紅茶というよい香りのする飲み物によく似たにおいがあることに気付きました。
スゥッと胸の奥にためこむと、香りを感じられるすべてに届いて余韻を残します。
ルーシュはしばらくうっとりとバラの香りを楽しんでいましたが、このままにしておくわけにはいきません。
昨日ティオールはこのバラのつぼみが開くにはまだあと何日かが必要だと言っていました。
それなのに、こんなに急に満開になっていてはどんなに驚かれることでしょう。
なにより、バラはルーシュの命綱なのです。
こんなに素敵な香りのするバラを教えて取り上げられてしまったら、大変なことになります。
キスができなかったらどうなってしまうのでしょうか。
ルーシュには想像もつきませんでしたが、少なくとも取り返しのつかないことが待っているのだということだけはなんとなくわかります。
名残惜しいのですが、ルーシュはバラにそっとくちびるをよせました。
飾り棚に置かれた青い一輪挿しに差し込まれたまま、ルーシュの口づけを受けてバラは花びらを落とします。
落ちた花びらは昨日と同じように、やはり棚の天板に触れるより先に空気にとけるように色をなくして消えていってしまいました。
ルーシュの瞳からもぽろぽろと涙がこぼれました。
なにか無性に哀しいような気持ちになるのです。
なぜだかはわかりません。
そうしてバラがもう一度つぼみをたたえると、そんな気持ちも消えた花びらと同じように消え去ってしまうのでした。
つぼみを確認してから、ルーシュはすぐそばの窓にかかる重いカーテンを少しだけずらして、外を眺めてみました。
ルーシュの部屋は二階です。
直角に折れ曲がる形で建っている建物の短い辺に位置していました。
すぐ下に小さな円形の噴水広場がこしらえてあります。
そこから植え込みを越え、玄関へのアプローチになる歩道に沿う生垣をさらに越えた建物の向こう端の辺りにバラ園があるようです。
そのバラ園に人影が見えたような気がしてルーシュは視線をやりましたが、やはり気のせいだったのでしょうか。
誰もいないバラ園は、朝日をあびて静かにたたずんでいるようでした。
まだ朝も早いので、ルーシュはもう一度ベッドに戻りました。
眠いわけではありませんが、初めての人間の世界でしたので、どうすごしてよいのかわからなかったのです。
と、ドアが遠慮がちにノックされました。
『……はい。
横たえた身体を起こしながら、一呼吸おいてルーシュは小さく返事をかえしてみました。
ドアがそっと開きます。
『ルーシュ、おはよう。
顔をのぞかせたのはティオールでした。
『……おはよう。
『朝早くからごめんね。
バラのところからきみが見えたから。
ティオールはルーシュの部屋に入ると、やはりそっとドアをしめました。
『ああ、そのままベッドにいていいよ。
ティオールはすたすたとベッド近くまでやってきました。
手にはなにか本を持っているようです。
『ルーシュ、きみ、字は読める?
そう言うとティオールはベッドの端に腰をおろし、半身を起こして座っているルーシュに、持っていた本を差し出しました。
ルーシュは悪魔の世界の文字を読むことはできます。
人間の世界のものはいくつか教わっていますが、はたして差し出された本に書かれているものはどうでしょう。
ティオールから本を受けとると、まずは表紙を表裏確認してみました。
見覚えのある文字です。
『ひめぎみ……の、ものが…た……り。
どうにか読めました。
『うん、姫君の物語だ。
ティオールはこくりとうなずきました。
『お話は知ってる?
本の最初の方を開いてみましたが、ルーシュが簡単に読むことのできる部分だけさらってみても、知っているお話ではないように思えます。
ルーシュはふるふると首を横にふるいました。
『読んだことないみたい。
そう答えると、ティオールはパッと顔をかがやかせてにっこりしました。
『じゃあこの本をきみにあげるよ。
難しいところがあればぼくが教えてあげる。
なんなら、今からでも読んであげたいくらいなんだけど……
『いいかな?
ティオールはおずおずと申し出ました。
ルーシュがうなずくと、ティオールはもう一度、嬉しそうに顔をかがやかせました。
『よし、ちょっと待ってね。
ティオールは立ち上がると、化粧台のそばにあった椅子をベッドサイドに運び、ルーシュから本を受け取ってそこに腰掛けました。
ベッドのルーシュとならびになるように座ったティオールは一度視線をルーシュに向けてにこりと笑顔をみせると、軽く咳払いをして息を吸い込み、本の題名から丁寧に読み始めます。
それは、おてんばで気の強い、わがままなお姫さまのお話でした。
文字ばかりの本で、厚みがあることから考えると、わりと長いお話なのでしょう。
ティオールはお姫さまが世界の神様の怒りを受けてしまったところまで読むと、ふと本から視線をそらしました。
『今はここまで。
ティオールはどこかに持っていたらしいしおりを、今まで読んでいた場所に挟み込んで本をとじました。
『もう?
神様の怒りを受けてしまったお姫さまはどうなってしまうのでしょう。
ティオールはふふっと笑みをもらしました。
『もう少し続けたいところなんだけどね。
『そろそろ朝食にしなくちゃ!
そこでルーシュは、たしかに自分のおなかがすいていることに気付きました。




