人狼閣下と道化の仕立て屋
ドアベルの音が響いて、仕立て屋ロックは面を上げた。
店の戸口に、誰かの影がある。店の天井まで届きそうなほど大柄の影だ。
ロックはかけ継ぎに夢中で店じまいを忘れていた。夜分遅く、『フロリア衣料店』はいつもなら閉まっている頃合いで、店員のフィービも帰した後だ。ロックは立ち上がり、カウンター越しに声をかける。
「いらっしゃいませ。こんな時分にお客様とは珍しいですね」
すると大きな影がのっそり動き、金色の瞳がロックを捉えた。
仕立て屋ロックは道化である。
本名をロクシー・フロリアといい、れっきとした二十歳の娘だが、店に出る時は男のふりをしている。詐欺師、泥棒、ならず者ばかりの貧民街ではそういった偽装も必要だった。
幸い、痩せた身体と猫のようにきつい顔立ちは男を装うのに役立った。葡萄酒色の髪を耳の下で切り揃え、男物のシャツとスラックスを着込んだ姿はいかにも貧弱で覇気のない若者に見える。その軟弱そうな外見を人々にあざ笑われつつ、帝都での平穏な暮らしを手に入れていた。
だが今夜、ロックは自らに勝るとも劣らぬ道化に出会う。
「服を一揃い、いただけるか」
低い声で言ったその客は、人狼だった。
頭の上にある尖った耳、真っ黒な毛で覆われた強靭そうな身体、丸太のように太い腕と脚、そしてふさふさの尻尾――噂には聞いたことがある。この帝都に隠れ住む人狼の話を。普段は人に化け、何食わぬ顔で暮らしているが、夜の訪れと共に正体を現し、人を襲い食らうという。
「ひっ……」
ロックが思わず悲鳴を上げると、人狼はまるで宥めるように両手を上げた。
「恐れるな、少年。私は服を貰いに来ただけだ」
狼そのものの貌は、言葉を発する度に大きな口から鋭い牙が覗いた。恐れるなと言われても無理な話だったが、ロックは震え上がりながらも応じた。
「服を……あなたが?」
「ああ。この通り、着る物が全て破れてしまった」
人狼が腕を広げて全身を見せる。
その身体を覆うものは黒々とした体毛だけで、うっすら逞しい胸筋が覗いている。確かに一糸まとわぬ姿と言ってもいいのかもしれないが、相手は店の天井にも届く巨体の人狼だ。
「お、お仕立てのご用命ではないのですよね?」
ロックは恐る恐る尋ねた。
そして人狼が頷くのを見て、かすれた声で語を継ぐ。
「うちはご覧の通り、人の為の衣料店です。既製の服があなたに合いますかどうか」
既製のものでも、貫頭衣など融通の利く服はある。だがそれにしてもこの人狼は大きすぎた。大事な商品を次々と破かれては堪らない。
だが見上げるロックに対し、人狼は優雅に一礼して答えた。
「それだ、少年。私は人の身体に合う服を求めている」
そして耳をぴくぴくさせながら店内を見回すと、
「一揃い、いただいてもいいだろうか。君は……ええと、店番かな?」
妙な物腰の柔らかさで尋ね、ロックを一層戸惑わせた。
「僕はここの店主です」
そう名乗り出ると、人狼は驚いたようだ。金色の瞳を瞠るのが狼の貌でもわかる。
「君が? 随分と若いように見えるが」
「こう見えても二十歳です」
「へえ……男、で間違いないか」
「そうです」
ロックは答えた後、勇気を奮い立たせてカウンターの外へ出た。
そして人狼の言う通り、紳士物の一揃いを店内で見繕い、毛むくじゃらの手に渡した。
「試着室はどちらかな、ご店主」
「ええと、奥になります」
「ありがとう」
指し示された店の奥へ、尻尾を振りながら人狼は消える。
それを見送った後、ロックはその場にへたり込む。
噂に聞く人狼が、まさか自分の店を訪ねてくるとは。
人を襲い食らうという話の割には随分と丁寧で温厚な人狼だったが、それでも異形に変わりはない。もし、着替えの後でロックを襲う気だとしたら。
自分一人しかいない店内、助けを求める相手も今はいない。いっそ逃げてしまいたい衝動にも駆られたが、命より大事なこの店を放り出す気にはなれない。
それで結局、売り物の杖を握り締め、人狼が戻ってくるのに備えていた。
だがしばらくして、試着室から出てきたのは――、
「なかなかよい仕立てだ。腕がいいのだな、ご店主」
鳶色の髪の、若く美しい青年だった。
歳の頃は恐らく二十代半ば、均整のとれた身体つきをしていて、背丈も人並みより多少高い程度だ。毛むくじゃらの人狼は見る影もなく、引き締まった腕や脚にロックが仕立てたシャツやズボンがよく似合っていた。
「人狼の身体に、いつも着ている服は合わなくてな」
青年は凍りつくロックに対し、先程と変わらぬ穏やかさで続けた。
「しかし助かったよ。危うく家へ帰れなくなるところだった、礼を言う」
それでロックは構えていた杖をゆっくりと下ろし、
「お、お役に立てて、嬉しいです」
震える声で告げ、青年を軽く吹き出させた。
「随分と怯えさせてしまったな。当然のこととは言え、済まなかった」
謝罪の言葉に、ロックはますます混乱した。
人狼は日中は人の姿に化けると聞いたが、今は夜だ。そしてロックの前で堂々と正体を晒している。彼は、何者なのだろう。
「ところで、ご店主。世話になっておいて何だが――」
青年は改まって切り出し、ロックは再び身構える。
「な……何です?」
「今、持ち合わせがない。人狼になった時、服ごと財布まで吹き飛ばしてしまったからな」
「……え?」
意外な言葉、ではなかったはずだ。
人狼は裸だった。持ち物があるようでもなかった。財布がないというのも嘘ではあるまい。
だが、仕立て屋としてはそれでは困る。
「近いうちに色をつけて返す。それまでツケにしてもらえないだろうか」
青年は眉一つ動かさず言ってのけた。
ロックは慌てて異を唱える。
「それでは困ります。うちはツケにはしないって決めてるんです」
貧民街でそれをやればたちまち商売が成り立たなくなる。店を持って三年目のロックが、固く守り続けている決まりでもあった。たとえ相手が人狼であっても、店の品を持っていく以上は客だ。
「だが、財布がないのだ。仕方あるまい」
盗人猛々しいとでもいうのか、青年は堂々と主張する。
「必ず払う、それは神に誓ってもいい」
この街では神への誓いなど塵ほどの価値もないのだが、そこまで言うならとロックは譲歩した。
「ではあなたのお名前と、お住まいを教えてください。もし払いに来なかったら、取り立てに伺います」
すると青年は顎に手を当て、しばし考え込んだ後で答えた。
「私は、エベル・マティウス。家は貴族特区にある」
マティウスと言えば伯爵家である。帝都育ちではないロックですらその名を知っている。
名家で知られるマティウス家に人狼がいるとは、にわかには信じがたい事実だ。
「ご冗談を。伯爵家に人狼の者がいるとなれば、醜聞どころじゃ済まないでしょう」
ロックは嘘を咎めるつもりで睨んだ。
だがエベルと名乗った青年は、表情を変えずかぶりを振る。
「嘘ではない。確かに伯爵が人狼となれば騒ぎになるだろうが、明かさなければ済む話だ」
しかもこの青年は、自らが伯爵閣下であるという。
眩暈すら覚えたロックに、エベルは声を落として言い添えた。
「そしてご店主。あなたは顧客の秘密を守れるだろう?」
店主としての自尊心を刺激するその一言に、ロックは思わず頷く。
「む、無論です、閣下」
「では、頼む。明日にも金を持って来よう」
エベルは爽やかに笑んでから、夜更けの貧民街に消えていった。
持ち逃げをされたのかもしれない――我に返ってから、ロックは思った。
だが貧民街にうじゃうじゃいる詐欺師でさえ、人狼の姿を借りてまで小さな窃盗を働こうとは考えまい。
では、あれは、何だったのだろうか。
翌朝、出勤してきたフィービは店に入るなり顔を顰めた。
「ちょっとぉ! 何なのこの臭い、酷いじゃないの!」
野太い声の抗議は、ロックの寝不足の頭にがんがんと響いた。読んでいた新聞から視線を上げると、フィービは美しい女の顔で睨んでくる。
「まさかあんた、野良犬でも拾ってきたの? 駄目よ客商売なんだから!」
「そんなことしてないよ」
ロックが否定すると、フィービは怪しむように眉を顰める。
「じゃあ何よ。宿無し男を連れ込んだんじゃないでしょうね」
「それも違う。昨夜のお客さんの臭いじゃないかな」
そう答えてみたものの、恐怖に麻痺したロックの五感は、あの人狼の匂いなど覚えていない。
ただ一夜明けて店の扉を開けた時、嗅ぎ慣れぬ獣臭さを感じたのは確かだ。
昨夜の出来事は、夢ではなかった。
「臭い客は追い返しなさいよ、営業妨害よロック」
フィービは豊かな栗色の髪を、骨張った手でかき上げながらそう言った。
彼女は――彼は、ロックと同じ道化である。
一見して骨太かつ長身の派手な美女といった風貌だが、口を開けば出てくるのは男の濁声だ。しかし女として生きたいのだと主張し、男に戻る気はないようだ。
フィービは長年行方知れずだったロックの父親の、恋人であったらしい。
女手一つでロックを育ててくれた母親は、死の間際に父親の所在を明かした。帝都にいる彼を頼れとの遺言に従い、ロックが父親の元を訪ねたのが三年前だ。
しかし教えられた住所にいたのはフィービだけで、父親もまた、既にこの世を去ったという。
『あたしはフィービ。あんたの父親とは深い仲だったの』
野太い声でそう名乗ったフィービを、ロックもはじめは複雑に思った。だが父の残した一財産を大切に預かっておいてくれた上、朗らかで優しい性格が身寄りのないロックを惹きつけた。
今は貧民街で店を構えるロックを、フィービが日々支えてくれている。ロックに男装を勧めたのもやはりフィービで、そのやり方で店はどうにか軌道に乗りつつあった。
だが昨夜の客は、男装如きで誤魔化せる相手ではなかった。
もし牙を剥かれていたら、貧弱なロックの腕では太刀打ちできなかったことだろう。
「フィービ、マティウス伯って知ってる?」
ロックは客の名を思い出し、それとなくフィービに尋ねた。
「マティウス? 伯爵家でしょう、知ってるも何も」
フィービは広い肩を竦める。
「何年か前に先代が亡くなって、今は若いぼっちゃんが家督を継いでるって話よ。名前は……えっと――」
「エベル・マティウス?」
「そう、それ。結構いい男なのよぉ」
嬉しげに語った後、フィービはふと怪訝そうにした。
「そのマティウス伯がどうかしたの?」
「い、いや。お客さんが噂してたのを聞いたから」
ロックはフィービにも昨夜の出来事を語らなかった。
あの恐怖を誰かと分かち合いたい気持ちもなくはなかったが、話せばフィービを巻き込むことになってしまう。
それに店主として、顧客の秘密は守らなくては。
「まあ、ここいらじゃ先代の方が有名だけどね」
ロックの内心も知らず、フィービは得々と語る。
「先代のマティウス伯は骨董品の類が大層お好きだったんですって。何でもない古い壺や彫像をさも曰くありげにお見せすれば、いい金で買ってくれるって評判だったのよ」
そこでくすっと笑ったフィービが、さも愉快そうに付け加えた。
「もっともエベルぼっちゃんに代替わりした途端、何にも買ってくれなくなったって詐欺師どもが嘆いてたわね」
話を聞く限り、先代のマティウス伯ならともかく、エベル・マティウスが貧民街をうろつく理由はないように思う。
ならば昨夜の男が、本物の伯爵閣下であったかどうかも怪しいものだ。
もしかしたら服はもちろん、代金さえ戻ってこないかもしれない。あれほど怖い思いをしたくせに、ロックは商品を持ち逃げされたことを素直に悔しがっていた。
だがロックの懸念をよそに、エベルはその日、再び店へやってきた。
昨夜と同じ夜分遅くに、昨夜と同じ人狼の姿で。
「ご店主、約束を違えて済まない」
フィービを帰し、店じまいを始めていたロックの前で、人狼は尖った耳をしゅんと垂らした。
まるで叱られた犬のように縮こまる姿を見ていると、昨夜あんなに恐ろしかったのが嘘のようだ。
「違えた? 僕はむしろ、あなたが来てくださるとすら思っていませんでした」
一日中待ちぼうけていたロックは、恐怖も忘れ率直に応じた。
途端にエベルは心外そうな声を立てる。
「私は盗みなどしない。こんな見かけだが、地位に恥じぬ振る舞いを心がけているつもりだ」
確かに、盗みがしたいなら人狼の姿で脅すなり何なりすればよかっただけのことだ。それをせずあくまで紳士的に振る舞う彼は、少なくともロックに害なす気はないのだろう。
不承不承納得するロックに、だがエベルは申し訳なさそうに続けた。
「しかし……言いにくいのだが、またしても財布を落としてしまった」
「どういうことです」
「貧民街を歩いているとよく酔漢に絡まれる。軽くいなしてやろうとこの姿になったはいいが、途中で兵を呼ばれてな」
絡まれやすい人間というのも確かにいるものだが、その度に人狼に化けていては大事だろうとロックは思う。今朝の新聞には何も書かれていなかったが、明日の新聞には人狼騒ぎが大きく報じられていそうだ。
「撒くのに精一杯で、財布を拾い損ねてしまった」
エベルは鋭い爪の生えた手で、耳と耳の間を掻いた。
「そして今宵も、服がない。無理を言っているのは承知の上だが……」
そう切り出されれば、ロックも心底呆れて溜息をつく。
「閣下はそうやって、人狼になられる度に服を粗末にしてるんですか?」
「粗末に、したいわけではないのだが――」
「いいえ、粗末にしてます。仕立て屋として、服を大切に扱わない人は、たとえ伯爵閣下であろうと許しがたいです」
昨夜渡した服も、ロックが一枚一枚心を込めて縫い上げたものだ。
伯爵閣下がお召しになるにはあまりにも劣悪な品だっただろうが、それでも大切な商品であることには変わりない。
あれをびりびりに破かれるのかと思うと、代金が返ってこない以上に腹立たしかった。
「悪かった。しかし、あなたの店で買った服は大事にしていたつもりだ」
エベルは力のない声で言い、ますます項垂れた。
見れば、ふさふさした立派な尻尾がすっかり丸まっている。見るからに異形の人狼なのに、本当に犬のように落ち込んでいる。ますます彼のことがわからなくなる。
ロックは毒気を抜かれ、嘆息した。
「閣下。昨夜と今夜の代金をいただき、更にお金をくださるなら、僕があなたの為の服を仕立てましょうか」
そして、そんな提案をしてみた。
「無論、ただの服ではありません。あなたがそのお姿になる際に破けなくなるような服です。いかがです?」
毎度破かれる服と気落ちするエベルを見かねての発言だったが、彼は弾かれたように面を上げ、金色の瞳を輝かせた。
「何と素晴らしい提案だろう!」
萎れていた耳がぴんと立ち、尻尾をぶんぶん振りながら、エベルは身を乗り出してロックの顔を覗き込む。
「感謝する、ご店主! 是非その通りにしてもらいたい!」
「お……お待ちください、何はなくともお金が先です、閣下」
濡れた鼻を頬にくっつけられて、ロックは慌てふためきながら人狼を押しやった。
人狼も笑う声で応じる。
「それもそうだ。では明日こそ、必ず」
口約束だが、信用するより他ない。
昨夜と同じように、ロックは紳士物の一揃いをエベルに手渡し、試着室で着替えを済ませたエベルは美青年の姿で戻ってきた。
「ご店主、よければ名を聞かせてはもらえないか」
鳶色の髪のエベルは、去り際にそう尋ねてきた。
「ロック・フロリアと申します」
偽名の方を名乗ると、エベルは優雅に微笑んでそれを口にする。
「ロック。……あなたの名にしては、少々無骨な響きだ」
「僕は気に入っているのですが」
「では私も、これから気に入るようになるだろう」
エベルが頷いた。ロックを真っ直ぐに見つめる彼の瞳は、人の姿をしている時でも美しい金色をしている。
これだけ容姿端麗なら、貧民街ではさぞかし人目を引くだろう。そう思い、ロックは口を開く。
「明日こそは酔漢と喧嘩などなさいませんよう」
皮肉交じりの警告だったが、そこでエベルは一度目を見開き、それから嬉しそうな顔をした。
「ありがとう、ロック。今度こそ約束は守ろう」
翌日、ロックはいつもより早い時間に店を閉めた。
当然ながらフィービも早く帰した。
「なあに、早く帰れだなんて。やっぱり誰か連れ込む気なんでしょう?」
フィービはロックをしきりに怪しんだが、ロックはそれを適当にかわした。
「払いのいい客が来るんだ。貸し切りにするだけだよ」
「それは信用できる客なんでしょうね?」
「当たり前だろ。フィービ、僕はもう子供じゃないんだから」
押し問答の末にどうにかフィービを帰した後、店の扉に『本日貸し切り』の札を下げる。
エベルは夕刻に、今日は鳶色の髪の青年として現れた。
「遅くなって済まなかった。まず、これが約束の代金だ」
彼は宣言通り、代金に色をつけて支払ってくれた。金貨がたっぷり詰まった革袋を受け取ったロックは、その中身を一枚一枚勘定してから、嬉々として礼を述べた。
「ありがとうございます、閣下!」
「……あなたのそんな笑顔は初めて見たよ、ロック」
エベルは苦笑していたが、ロックとしては何より信用の置けるものはやはり金。こうして確かにいただいたことで、ようやくエベルを信用する気になれた。
「仕立ての方の代金も、今日のうちに払おうか」
どうやら伯爵閣下は、財布さえ持っていれば非常に気前のいい方のようだ。これは上客を掴んだと、ロックは浮かれ気分で告げた。
「採寸が終わったら計算いたします。こちらへ、閣下」
そしてエベルを店の奥の試着室に通すと、まずはそのままで軽く採寸をする。
「お身体が大きくなった場合に備え、するりと脱げる仕様にしましょう」
ロックの言葉に、巻尺を身体に当てられたエベルは怪訝な顔をした。
「そんなことができるのか」
「ボタンを使わず、ホックにすれば脱ぎ着がしやすくなります」
シャツとベストはそれぞれホック留めにして仕立てるつもりだった。ズボンだけは難題だったが、人狼の身体に合わせて大きめに仕立て、サッシュベルトにして解きやすくしておけば、いざという時も脱ぎやすいはずだ。
「閣下は、随分と酔漢に絡まれやすいお方のようですからね」
ロックがおかしさに笑うと、エベルもやはり笑った。
もっとも彼の方の笑みは、もう少し控えめで、寂しそうに映った。
「あれは嘘だよ、ロック」
「嘘? 酔漢に絡まれたということがですか?」
「ああ。本当は、ただこの辺りの警邏をしていただけだ」
警邏という言葉に、ロックは巻尺を持つ手を下ろして瞬きをする。
するとエベルは思い出を手繰るように、静かな口調で続けた。
「私の父は――もういないが、生前はこの界隈が好きだったと言っていた」
先代のマティウス伯のことだろう。
骨董品が好きだったという、エベルの父親。
「仕事の合間に家を抜け出し、ここまで買い物に来るのが何よりの楽しみだったそうだ。柄の悪い者も多いが、ここいらの猥雑さが気に入っていると私に語ってくれた」
エベルはそこで、金色の目を伏せる。
「人狼の力は父が私に遺してくれた、一番の財産だ。私はそれを用いて、この辺りを警邏している。父が愛したこの街を、ずっと守っていくつもりだ」
それから口元を照れたように緩めて、
「こんなによい店もあるからな……私もこの街が、好きになれそうだ」
と言い添える。
その時、ロックは不思議と彼に共感を覚えた。
父がいないという点が自分と共通しているせいかもしれない。父が残してくれたものを財産として活用している、そのこともまた同じであるからかもしれない。エベルは人狼であることを恥じてもいなければ、疎ましく思ってもいないようだ。ちょうどロックが、男のふりをすることを苦にも思っていないように。
この貧民街に店を構えて三年目になる。自分の仕事には誇りを持ってやってきたつもりだが――『よい店』と言ってもらったのは、初めてだった。
胸を満たす温かな気持ちは、その言葉のせいだろう。
気がつくとロックは、目の前の美しい青年に見とれていた。
そしてエベルは、その視線をくすぐったがるようにはにかんだ。
「採寸は終わりかな、ロック」
「あっ……人の方は終わりです、閣下。あとは人狼のお姿で――」
「わかった。では少し待っていてくれ」
言うなりエベルは着てきたシャツを脱ぎ捨て、あっという間に上半身裸になった。それからズボンのバックルにも手をかけて――。
「お、お待ちください閣下! なぜ脱ぐのです!」
「なぜって、これは君が仕立てた服ではないからな。このまま人狼になれば服が破けてしまう」
「で、でしたらっ、僕は出ておりますので!」
ロックは大慌てで試着室を飛び出し、後ろ手で帳を閉めた。
「なぜ慌てる。男同士ではないのか」
試着室内で怪訝そうに呟くのが聞こえ、ロックは反論しようとしたが、それを遮るようにみりみりと皮膚の裂けるような異音が響いた。
そして帳に尖った耳の大きな影が映ったかと思うと、低い獣の咆哮が聞こえ、
「……済んだぞ、ロック。次はこちらを頼む」
次いでエベルの声が、ロックを試着室に呼び戻した。
一体、彼の身体はどうなっているのだろう。
先程まで人並みの体型をした青年だったというのに、あっという間に人狼へと成り代わってしまった。
仕立て屋を生業とするロックも、人ならざる者の採寸など初めてのことだ。
「全く得がたい経験をさせていただいております、閣下」
ロックは巻尺を指で押さえ、人狼のエベルを採寸した。
ふさふさの毛で覆われた首筋、筋骨隆々とした胸や肩、丸太のように太い腕や脚。ロックの指先がその身体をゆっくりと辿るのを、エベルは黙って見下ろしている。巻尺を身体に当てられる度、そしてロックの指が触れる度、金色の瞳がまるで意味ありげに光った。
「一つ、気になっていることがある」
人狼の身体の採寸も済んだ後、エベルがそう切り出した。
「何でしょう?」
巻尺を首にかけたロックが聞き返すと、不意に人狼の武骨な手がロックの手首を掴んだ。鋭い爪が触れぬよう、慎重に、しかし振り解けぬ強さで掴まれた。
「閣下、何事です」
ロックは訳もわからずに抗議の声を上げる。
すると人狼は、金色の瞳でロックの全身を射抜いた。
「あなたは、女の匂いがする」
大きな口が動き、生え揃った鋭い牙がぞろりと覗く。
ロックは内心戦慄した。男装では誤魔化しきれぬ細い手首を観察され、焦燥に駆られながら言い返す。
「閣下の……勘違いでは? 僕は男ですよ、あいにくと」
「鼻には自信がある。確かにこれは、女の匂いだ」
エベルは濡れて光る黒い鼻をひくつかせた。
それは人ならざる者ゆえの五感の鋭さなのだろうか。ロックはどうにか誤魔化そうと言葉を並べた。
「ここには女の客もよく来ますし、女の店員も実は一人おります。その匂いでは?」
「では、その女と懇ろなのか?」
人狼の瞳には、微かな嫉妬の炎が揺れている。
「匂いはあなたの身体に染みついているようだ。余程深い仲の女がいるのだろう?」
慧眼――いや、慧鼻とでも言うべきか。
どうやらエベルはロックの本質を見抜きつつあるようだ。
会話の間にも手首を離さぬ執着はあからさまで、ロックも己の身の危険を察した。こういう客がいるからこそ、今日まで男のふりをしてきたのだ。紳士的に見えていたマティウス伯がそういう男だという事実はとても、とても残念だったが――。
「閣下は、男色のご趣味がおありで?」
ロックは、突き放すように尋ねた。
その途端、エベルは夢から覚めたように息を呑み、それからロックの手首を解放する。
「……済まなかった。無礼なことをした」
彼は尖った耳を伏せ、尻尾を丸めて項垂れた。
「こういう言い方は妙だろうが、どうしても気になってしまって――いや、理由がなんであれ無礼には違いないな。本当に済まないことをした」
「いいえ、閣下。気にしておりません」
ロックがかぶりを振ると、エベルは短く嘆息する。
「そう言ってもらえるとありがたい」
その後、ロックは何事もなかったかのように工賃を計算し、エベルはそれに少し上乗せした額を支払ってくれた。
だが二人の間に漂う微妙な空気は消しようがなく、掴まれていたロックの手首は、しばらくの間不思議な熱を帯びていた。
何にせよ、ロックは人狼伯爵の為の服を五日で仕立てた。
そしてエベルの屋敷に使いを出し、服が仕上がったことを知らせると、取りに行く旨の返答があった。
エベルが来店する日、やはりロックはフィービを早めに帰した。
「最近、隠し事が多いんじゃないの? 男ができたんなら紹介なさいよぉ」
フィービは相変わらず詮索したがったが、今日はあまりごねずにあっさり店を後にした。
そして入れ替わるように、鳶色の髪の青年が店に現れた。
「先日は済まなかったな、ロック」
エベルは顔を合わせるなり、先日の無礼を詫びてきた。
だがその表情は人狼の時とは違い、随分と晴れやかで明朗だった。
「いえ……もう、気にしておりません」
ロックも笑って答えたが、ここ数日寝不足であることは伏せておく。仮に看破されたとして、仕事が忙しかったのだと言えばよい話だ。
ともあれ、その仕事の話だ。
仕立て上がったシャツとベスト、ズボンを差し出すと、エベルはその一つ一つを丁寧に広げ、つぶさに検分してみせた。
そして縫製やホック、サッシュベルトの仕上がりなどを確かめた後、深い溜息をつく。
「つくづくよい腕だ。若いのに大したものだな、ロック」
「お褒めにあずかり光栄です、閣下」
「いっそ、私の専属として働く気はないか?」
エベルはカウンターに手をつくと、その中に立つロックに対し身を乗り出した。
「あなたを雇い入れたいと思っている。無論、その腕に見合うだけの賃金は払う」
報酬だけを見れば、それはこの上なく魅力的な誘いに違いない。
だがロックは、伯爵閣下の言葉を笑い飛ばした。
「もったいないお言葉です。私にはこの店がありますから」
父が残してくれた財産で構えたこの店を、ロックは命よりも大切だと思っている。だから手放したくはない。何があっても。
それに――これ以上この青年と関わると、自分にとってよくないような気がするのだ。
これまで頑なに守ってきたものを、たやすく掻き乱されてしまうような気が。
「……残念だ」
エベルは、ロックの笑顔を物惜しげに見つめた。
だがすぐに気を取り直し、隙をついてロックの手を取る。
「では、誘い方を変える」
青年の大きな手が、ロックの華奢な手を握る。
思わず凍りついたロックに対し、エベルは爽やかな笑顔で言った。
「この間、あなたは『男色に興味があるのか』と聞いてくれたな」
「え……ええ、まあ」
「考えたのだが、私は元より異形。その私が相手の性別にこだわるなど馬鹿げた話だ」
「……ええ?」
ロックは声を裏返らせる。
だがエベルは意に介さず、金色の瞳をきらきらと輝かせて続けた。
「ロック、私はあなたに惚れた。あなたが男であろうと構わない、恋人になってくれ」
「ご……ご冗談を!」
思わぬ告白に、ロックはすっかり色を失くした。
こういう事態の為に今日まで化けてきたというのに、これでは男のふりをする意味がない。性別を理由に断ることもできやしない。
しかしエベルはロックを見つめている。美しい顔立ちと金色の瞳を明るく輝かせ、もし人狼の尻尾が見えていたなら、ぶんぶんと振り回していただろうことが想像できるご機嫌さで――迂闊にもその顔には見惚れそうになってしまう。
と、そこに、
「やぁっぱりぃ! ロック、あなた男を連れ込んでたのね!」
帰ったと思っていたフィービが、待ち構えていたように飛び込んできた。
フィービはロックの手を男が握っていることに気づくと眉を顰めたが、男の顔を見た途端、大きく目を見開いた。
「マティウス伯爵閣下!」
「いかにも、私はエベル・マティウスである」
エベルはロックの手を固く握りしめたまま名乗り、次いでロックに尋ねてきた。
「あちらのご婦人……いや、紳士か? 見た目は婦人のようだが、ともかく、あの方は?」
「う、うちの店員のフィービです」
ロックは律儀に答える。
そしてフィービに対しては、素直に助けを求めた。
「フィービ、どうしよう! 閣下に口説かれてるんだけど!」
「口説かれてるって……閣下、この子、こう見えても男でございますのよ?」
「無論、承知の上だ」
フィービの問いに、エベルは揺らがず頷く。
「私はロックが男であろうと、女であろうと構わぬつもりだ」
「……あらそう。まあ、落とせるもんなら落とせばいいんじゃない?」
どこか呆れたようにフィービはぼやき、そのまま店の入口へと取って返す。
「ちょっと、フィービ! 助けてくれないの?」
ロックが悲鳴を上げると、フィービは肩を竦めた。
「そのくらい自分で何とかなさい。こういう客、珍しくないんでしょう?」
「えっ……」
エベルがぎょっとしてロックを見る。
どうやら今の言葉は、彼の心に火をつけてしまったらしい。金色の瞳に嫉妬の炎が燃え上がるのをロックは見た。
「私以外にも口説く者がいるだと……頼む、ロック。私を選んでくれ!」
「いや、ちょっと、困ります閣下!」
どうやら伯爵閣下は本気のようだ。目を見れば、フィービにはわかる。
道化の仕立て屋は、果たしてどう応えるだろうか。
「……伯爵閣下ねえ。上手くやれば玉の輿、ってとこかしら」
一人、店外に退避したフィービはそう呟き、店の中を覗き見る。
エベルはぐいぐいとロックに迫り、されるがままのロックはすっかり赤面している。何せ初心な子だ。色恋沙汰にはとんと疎い。
「だからこそ、男に化けろって言ったんだけどね」
フィービからすれば、そういう無防備さが心配で堪らなかったのだ。
いくつか男のあしらい方も伝授してやろうとしたが、やんわり断られていた。
「まあ、あの子は幸せにしてあげないといけないからな」
周りに誰もいないのをいいことに、フィービはそっと呟く。
相手は、男でも女でも構わないという惚れ込みようだ。それが事実なら問題はないが、一時の気の迷いという可能性もなくはない。見届けてやるのも自分の仕事かもしれないと、フィービは溜息をつく。
「マティウス伯。うちの娘に釣り合うだけの男かどうか、ちょっと検分してやるか」
その呟きも、当然ながら誰の耳にも入らなかった。
フィービは、いつものように美しい女の顔で店へ戻っていく。
帝都に住まう道化は、人狼閣下と仕立て屋ロックだけではないのだった。