ジェド・マロースの来る夜に
ジェド・マロースは青い服を着たおじいさん。
一年に一度、聖誕祭の日にやって来て、よい子の枕元にプレゼントを置いて去っていくの。
どうしてそんな事をするのかって?
それはね、こんなわけがあるの。
―――昔々のお話。
誰が作ったかもしれない小さな雪だるまが、ぽつんと置いてありました。
寒い中立っているのを可哀想に思ったジェド・マロースは、雪だるまに命を与えました。
吹雪のように力強く、綺麗な白い色をした髪の毛。
新雪のように真っ白で、汚れ一つない美しい肌。
可憐な娘の姿を得た雪だるまは、「スネグーラチカ」という名前を与えられ、人間として暮らすことになりました。
しかし、スネグーラチカは元々ただの雪だるま。人間のように年をとることがありません。
彼女の存在を、天の神様は問題に思いました。
“天に住む者でない者が、老いず死なずの身である事など、認めるわけにはいかない”。
このままでは、スネグーラチカは神様によってその存在を消されてしまいます。
あまりにも可哀想だと思ったジェド・マロースは考え、ある事を行いました。
“スネグーラチカの記憶を消し、自分は最初から人間だったと思わせよう。
彼女は何も知らない。ただの人間の少女として過ごさせればいい”。
こうしてスネグーラチカは、ジェド・マロースによって命を与えられた記憶と、その名を消され、人間の世界で暮らすことになりました。
……ジェド・マロースは、二度も神の意向に逆らった罰として、長い長い時間を、子供たちのために費やすことになったのです。
***
わたしの名はスィニエーク。
誰が名付けたか知らないが、この清らかで心地のよい響きの名前を、私は気に入っている。
私には父も母も、育ててくれた人もいないが、この名をくれた人には心から感謝している。
何故なら、血の繋がりという極めて人間的な要素を持たないわたしに、“人間らしさ”を与えてくれたからだ。
どうやら外は吹雪いているようで、風の音と合わせて窓枠がカタカタと鳴った。
ここは雪国で、夜間の気温はとても低い。毎日のように雪が降り、時たまではあるが今日のように途轍もない吹雪も起きる。
わたしは赤々と燃えるペチカの火に薪を一つ放った。
「スィニエーク、君には家族はいないのかい?」
「……いない。多分な」
吹雪も含め、今日は珍しいことだらけだ。
人里離れた山岳地帯にある一軒の家―――すなわちわたしの家に、来客が訪れた。
目の前にいる、いかにも育ちの良さそうな男だ。
オリーブのような綺麗な目をしたこの赤毛の男は、イリヤ・ジェリドフというらしい。
何故この季節にこんな雪深い所まで来たのかと問うたら、いかにも単純な答えを返してきた。
『登山が趣味だから』と。
凍えてしまったら死ぬというのに、実に呑気な男である。
彼にとって私は素性も知れぬ女だというのに、気にも留めずに色々なことを聞いてくるのだ。
「多分ってどういうことだい、スィニエーク」
「知るものか。生まれた時から、わたしはここにいる」
「ふうん。ところでスィニエーク」
「なんだ」
「君の髪はとても綺麗だね。まるで雪のようだよ」
―――わたしには、自らの名前以外の記憶がない。
スィニエークという名前以外、わたしをわたし足らしめるものは無い。
どこで生まれたのか。誰に育てられたのか。何を好み、何を嫌っていたのか。親しき者はどこにいるのか。…全ての情報が欠落している。
わたしは今までの生涯ずっと、この雪山の一軒家で過ごしてきた。
その間、誰の顔も見たことはないし、誰と接したこともない。精々、食物を得るために追って屠った獣ぐらいのものだ。
今目の前にいるイリヤ・ジェリドフと名乗る男こそ、わたしが接した初めての“人間”だ。
「それはおかしいね」
「何がだ?」
「だって、君は生まれた時からずっとここにいるんだろう?
だったら、赤ん坊である君を保護していた人がいるはずだね。
それは誰? 君にここで暮らすための知識を与えたのは誰だい?」
「だから―――それは分からない」
「もう一つおかしなことがある。君は生まれてこの方、獣と接した記憶しかないと言ったね。
ならば君は、人間を見たことがないということになる」
…私は人間だ。人間として、生を受けた。筈なのに―――どうしてだろう、私には人間らしさがない。
雪と氷によって隔絶されたこの世界で、本当に私は一人で生きていたのだろうか?
ペチカを点けることすらできない幼いわたしは、誰に保護されて生き永らえていた?
わたしはどこで、何によって―――トナカイを狩る技術を得たというのだ?
「…思い出せないかい?」
「……お前は誰だ。なぜ、わたしにこんなことを聞く? …わたしに何をさせたい」
「そう頼まれたから―――と言うしかないね。
スィニエーク、僕はね、君の本当の名前も知っているんだ」
イリヤはそう言って、椅子から立ち上がり、ペチカの火を消した。
呆気に取られ突っ立っているわたしに、彼はハンガーに掛けてあった青と白の毛皮を投げてよこした。
「おいで、スィニエーク。…いや、スネグーラチカ。
それを着て外に出るんだ」
***
吹雪は一層ひどくなっていた。
ビュウビュウと吹き付ける風が頬を撫で、痛いほどの寒さをもたらしていく。
それは無慈悲なる自然。
改めてそれを体感し、感じた。保護者のいない幼子が一人で暮らせる環境ではないと。
「スネグーラチカ、寒くはないかい」
「いや…そんなことはないが」
「君はそれを着て狩りをしていたんだろう?」
「あ、ああ…」
今纏っている帽子と外套とマフは、わたしの一張羅であり防寒具だ。
これが無ければ獣を追い回すことなど到底できなかったであろう。もちろん、これを入手した経緯など全く覚えがない。
対してイリヤは、ウサギを想起させる白いフワフワとした毛皮のコートを纏っている。
太陽のような彼の髪色も相まって、とても暖かそうだ。
「イリヤ、どこまで歩くつもりだ。もう夜も遅いぞ」
「山頂までさ。時間のことなら気にしないでいい」
「何をしに行く。まさか無為に山に登るなどとは言わないな」
「まさか。君のお父さんに会いに行くんだよ、スネグーラチカ」
「わたしの父…? ……イリヤ、お前…!」
「しっ。いいから、山頂まで行くんだ。そこで全てが分かるよ」
そう言ったイリヤの顔は、先程まで見せていた彼の顔と全く違っていた。
この男は、確実に知っている。わたしの出生に関する情報を全て知っている。そう思うと、急にこの男に対して恐れが湧いてきた。
精々同い年かそれ以下かと予想していたが、どうもそうとは思えない。外見は若いが、もしかすると相当な時間を生きているのかもしれない。
となるとこの男は―――人間ではないのか?
「スネグーラチカ」
「…な、何だ」
「君は、自分を人間だと思っているかい?」
「……お前に謎めいた質問をされるまでは、思っていた」
「へえ。じゃあ、今は思っていないのかい」
「わたしは今まで、自分を人間だと信じて疑わなかった。出生についての記憶が何もかも無いのも、些細なことだと思って気にしなかった。
だがお前と出会って、わたしには何か秘密があるのだということをようやく知った。
教えてくれ…わたしはいったい何者だ? わたしは自分の存在の不可解さが、今例えようもなく恐ろしい」
イリヤはふっと笑った。
ペチカのように優しく、日光のように暖かい、朗らかな笑みを浮かべて。
「“スィニエーク”。この言葉には“雪”という意味がある」
「雪……」
「そう。そして“スネグーラチカ”、これには“雪の娘”という意味がある」
「…わたしは……雪の名を冠しているのか」
「君のその白い髪…本当に雪のように綺麗だよ。髪だけじゃない、肌もだ。君は純粋で、濁りのない、雪の少女だ」
山頂が見えている。
いつもなら人っ子一人いない寂しい所だが、今日は大きな橇が一つ停まっていた。
その橇のそばに、立派な白い髭をたくわえた、背の高い老人が一人立っている。
「ごらん、雪娘。あれが君の父親、ジェド・マロースだよ」
***
“霜男”。
それは寒さという自然の脅威に対して、畏怖を込めて呼ばれる名らしい。
彼は雪や氷、吹雪や雪崩までも配下とし、冬が来れば地上に現れて、その力を顕現させるという。
この一帯が特に厳しい寒さに覆われるのは、彼の力が最も色濃く現れる所だからだそうだ。
「……スネグーラチカよ」
緩慢に口を開き、老人らしく重々しい声で、ジェド・マロースは話し始めた。
周囲では吹雪が音高く吹いているというのに、その声は風の音に遮られることなくはっきりと聞こえる。
「やはり変わっておらぬな。生まれた時と同じ、美しい姿だ」
「どういうことだ?」
「お前は本来、命を持たない雪像だった。わしは一時の気紛れで、それに生を与えた。
力強くも儚い吹雪のような髪、汚れなき初雪のような肌。
人間の姿を得たお前のために、わしはそれらをプレゼントしたのだ」
「では………私は人間ではないのか…?」
「そうではない。しかし、人間だとは言い切れない。なぜならお前は、この世の者として特異な位置にある。
その姿のまま年を取らず、また病によって死ぬこともない。
何百、何千年と生き続けるであろう生命なのだ」
ジェド・マロースによって人間の姿を得たわたしは、仮初めの体のままでいることを嫌がり、完全な人間として生きたいと願った。
しかし、不当に命を生み出した身であるジェド・マロースとしては、わたしに完全な生命を与えるため神に相談するわけにもいかず、やむを得ず中途半端に命を授けた。
その結果生まれたのが、現在のわたし―――つまり、成長することない人間である。
さらに、前述したエピソードに関する記憶は全て失われた(より人間らしく生きるため、不都合な記憶は消されたのだろう)。
「さすがに神も黙っていられなくなったんだよ。天に住む者以外、不老不死者はいないという事になっているからね」
「イリヤ……お前は結局、何者だ」
「僕かい?僕は君たち親子の選択を見届け、神に報告する者。
天の御使い、熾天使イリアスさ」
そう言った途端、彼のコートが独りでに脱げて綿毛状に分解し、背中に付着して翼の形を成した。
服は白い布でできた丈の長い衣装に変わり、そして頭上に光輪が現れる。
彼は只者ではないと感じていたわたしはあまり驚くことなく、ただその様を呆けたように見ていた。
「スネグーラチカ、お前の考えを聞こう。このまま人間でいたいか、それとも雪像に戻るか」
「………」
「人間でいたいのであれば、わしが神に頼んでお前に完全な生命を与えてもらう。
その場合、お前は不老不死者でなくなり、ただの人間として一生を過ごすことになる。
一生、病や災害や死の恐怖に怯えて暮らすのだ」
雪像に戻れば、わたしは春の訪れと共に消えてしまう。
わたしは元来そのような儚い存在で、その運命も当然の事であるのだが、なぜだろう、それはとても悲しい事であるように思えた。
―――雪像には戻りたくない。
ならば、わたしの選ぶべき道は一つしかない。
人間となり、老いて死ぬのだ。
わたしがその旨を伝えようとした時、思い出したようにイリヤ改めイリアスが口を開いた。
「そうそう、スネグーラチカ。実はもう一つ選択肢があるんだよ」
「何ですと…?」
わたしの思った事そのままの言葉が、ジェド・マロースの口から発せられた。
彼もこれは初耳だったらしく、驚愕の面持ちでイリアスを見ている。
「僕が神に掛け合ってみたんだ。彼女は何も悪くないのに、そんな究極の選択をさせるのは酷だと思ってね。
もう長い時間が経ったからさすがに頭も冷えたんだろう、快く許しを下さったよ。
スネグーラチカに、ジェド・マロースの助手としてプレゼント配りを手伝わせたらどうか…という提案にね」
「つまり、スネグーラチカを天に住む者とするというのですか!?」
「そういう事。悪い話じゃないだろう? 君もそろそろ人手が欲しくなってきただろうし」
「それはそうとして、なぜ先に仰ってくれなかったのです!」
「彼女の素直な気持ちを聞きたかったし……ねえスネグーラチカ、君はどう思うんだい?」
…もちろん願ったり叶ったりだ。
雪像として儚い運命を辿る事なく、人間として短い一生を送る事もないのだから。
「それが許されるというのなら、喜んで受け入れたい。……しかし本当にいいのか?
わたしは神の意向と反する禁忌の子であるというのに」
「許されないのなら、最初からこんな提案を持ちかけてこないよ。
神の意向ももちろん大切だけど、今本当に大事なのは君の思いなんだよ、スネグーラチカ。
イエスかノーか、それを聞かせてほしいんだ」
私は神の名を口にした。
心からの思いでそれを言った時、空に垂れ込めていた雲が晴れ、一条の光が音もなく差し込んだ。
黄金色に輝くその光は空中を滑るようにゆっくりと降り、わたし達の目の前で止まる。
光の筋はかなり幅が広く、あたかも中空に出来た道のように悠然と佇んでいた。
「これは…?」
「天へと繋がる道さ。君は神へのお目通りを許されたから、それを通って天界に行くんだ。
もちろん、ジェド・マロースと僕も一緒にね」
再び光の道を見る。
神々しくも温かい光を放つ道。雲間を抜けた先は、一際強く光を放つ場所。
わたしは振り返り、イリアスの方を見た。
「ありがとう。わたしをここまで導いてくれて、本当に感謝している」
「私からも礼を言わせて下さい。あなたは私たちの為に、多大な尽力をして下さった」
「なに、容易い事だよ。さあ行こう、これから忙しくなるよ」
イリアスは朗らかに笑い、わたし達を先導するように光の道に立った。
わたしも彼に続いて光の道を踏む。
聖誕祭の日を前にはやる心と、浮き立つ気分を胸に秘めて。
***
―――こうして、スネグーラチカはジェド・マロースの助手として、そして娘として、プレゼント配りに精を出す事になりました。
…これが雪娘のお話よ。
スネグーラチカは今でもジェド・マロースと一緒に、世界中のよい子にプレゼントをあげているの。
青と白の毛皮で出来た帽子と外套とマフを付けて、綺麗な白い髪をなびかせてね。
さあ、お話はおしまい。よい子はもう寝る時間よ。
…え?毎年毎年そんなに忙しくって、二人は辛くないのかって?
あなたは優しい子ね。
大丈夫、今まで独りぼっちで寂しかったけど、スネグーラチカと二人でお仕事をするようになって、ジェド・マロースも楽しいと思うわ。
さあ、もうベッドに入りなさい。風邪をひいてしまうわよ。
おやすみなさい。あなたにとびきりのプレゼントが届きますように。