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翌日も彼女がだるそうにしているのにかこつけて、思う存分彼女を抱き締めて、ゆったりとした一日を過ごした。
昼を過ぎた頃には元気が出てきていたが、心配だ、の一言で黙らせ、二人で並んでごろごろとしていた。
思えば、この島に来てから毎日忙しくて、一日たりとも休んだことなどなかった。こうしてみると、いかに自分が気を張って働きづめで疲れていたかがわかった。
ぽつりぽつりと当たり障りのない他愛のない話をしているうちに、眠ってしまっていたようで、水から浮き上がるように目を覚ますと、アリィが隣にいなかった。
ヒスファニエは血の気がひくような不安にかられて、彼女の名前を呼びながら、厨を飛び出した。どこに探しにいこうか迷って立ちすくんだところを、当の彼女に呼び止められた。
「ファー兄さま」
桶を抱えて歩いてくる。そこへと駆け寄りながら、詰問口調で話しかける。
「どこへ行っていたんだ」
「今日はお水を汲みに行っていなかったと思って。起きたらきっと、冷たいお水の方が美味しいと思って。ごめんなさい。心配をかけると思い及ばなかったんです」
彼女は、しゅんとしてうつむきがちに答えた。
ヒスファニエは溜息をついた。彼女は悪くないだろう。泉へは自由に行っていいことになっている。過剰反応した自分が悪いのだ。
そういえば、初めて彼女を一人で置いて出かけた時に、帰って来た彼に彼女が抱きついてきたと思い出す。彼女もきっとこんな気分だったのだろう。理由もなく、やみくもに不安で堪らなかった。
彼は彼女から桶を取り上げ、片腕で彼女の背を抱き寄せた。
「いや、俺が寝惚けていただけだ。ありがとう。今日は水のことを忘れていた」
彼女の確かなぬくもりに、動悸が治まっていく。とたんに現金なことに、喉の渇きを覚える。
「アリィの言うとおりだ。喉が渇いた。せっかくの水だ。さっそくいただこう」
ヒスファニエは彼女の肩を抱いたまま、厨へと戻った。
水を飲んで人心地ついたヒスファニエの前にきちんと座って、アリィは上目遣いに見上げた。
「あのぅ、ファー兄さま、申し上げておきたいことがあるのですが」
あまりに真面目な様子に、ヒスファニエも身構える。何か嫌なことを言われそうで聞きたくなかったが、そういうわけにもいかないだろう。しかたなく、何気ない風を装って、なんだ、と話をうながした。
するとアリィはうつむいて自分の足の上に視線を落とした。
「ファー兄さまは、私をいくつだと思っていますか?」
いくつ? いくつとはなんだ?
ヒスファニエはぽかんとして彼女を見つめた。それからゆっくりと脳が動き出し、ああ、歳のことか、と合点がいく。
「あー。いくつなんだ? 俺より年下としか、考えてなかったんだが」
背は小さいが、けっこうしっかりしているし、それに時々、妙に色気を感じる。しかし同性ならまだしも、女の歳ほど男にとってわからず、恐ろしいものはない。姉たちを通して学んだのは、どんな女にも30を越えているとは言ってはいけないということだった。
「お兄さまはいくつですか?」
「22だ」
「そうでしたか。私は18です」
「じゅうはち?」
ヒスファニエは意外な歳に、間抜けな声で繰り返した。上から下まで、とっくりと彼女を見る。とてもそうは見えない。なのに成人しているとは。
「私、この背ですから、いつまでたっても、誰からも子供扱いされて。もっと早く言えば良かったのですけど、子供だと思ってたくさん面倒をみてくださってるのに、言い出し難くて。ごめんなさい」
アリィはすっかり縮こまって、申し訳なさそうにしていた。
「それはまったくいっこうにかまわないんだが」
なにかいろいろ、18の娘に言うには失礼なことを口にしていた気がしてきた。……だけじゃない。行動全部が、幼い子供向けだったような記憶が。いや、そのつもりだったんだが。
ヒスファニエは困って、首の後ろに意味もなく手を当てた。
「アリィこそ不愉快じゃなかったか」
「いいえ。ファー兄さまは本当に優しい方だと思っていました。それにつけこんでいるみたいで、ずっと後ろめたかったんです。本当にごめんなさい。これからは、もっと私にも用事を言いつけてください。こう見えても18ですから、水汲みだって平気ですし、一人で外に出ても、危ないことはしません」
途中から顔を上げ、握り拳で主張する彼女に、彼は途方に暮れた。彼女は18歳という年齢にふさわしい顔付きをしていた。つまりそれは、おいそれと抱っこしたり抱き締めたり頬ずりしたりしてはいけない、一人前の女性だということだった。
そう聞いてしまえば、どうしてあれほど子供だと信じていたのかわからないほど、艶やかでしっとりとした大人の色気を感じる。
ヒスファニエは彼女に見惚れながら、突然ふってわいた疑念に焦燥に駆られた。
「結婚しているのか」
彼女は目を見開き、ふるふると横に首をふった。
「婚約者も?」
それには彼女は一瞬止まってから、同じように否定した。それが迷いに見えたのは、ヒスファニエがいるかもわからない相手に激しく嫉妬して、疑ってかかっているからかもしれなかった。
あるいは、王族の姫だ、彼女もルルシエのように、身分のある誰かの成人の儀の添い寝役を果たしていてもおかしくなかった。
それを問いただしたかった。けれど、もしそれを肯定されてしまったとしたら。
ヒスファニエはそこで一旦思考を止めた。それ以上は考えてはいけないとわかっていた。なのに、最も知りたいそれから意識が離れない。
そう。肯定されたら、ヒスファニエは彼女を抱くだろう。子供ではなく、しかも生娘でないというのなら、踏み止まる理由がない。嫉妬に狂って、そうするに違いない。
けれど、否定されたとしても、同じ思いに囚われそうな予感がしていた。
彼女が大人になるのは、もっとずっと遠い未来のことだと思っていた。彼女と別れて、彼女と過ごした日々が懐かしい思い出になる頃。ヒスファニエが王位に就き、政略結婚で幾人もの妃を娶り、小さな少女との思い出など、思い出しもしなくなる頃。
それなら、忘れられると思った。縁がなかったと諦められると思っていた。
けれど、彼女が国に戻れば、すぐにでも他の男のものになるのかもしれないと知った今では。
ヒスファニエは無表情に彼女を見下ろした。
彼女が欲しかった。手放したくなかった。一生この島から出ることが叶わなくてもかまわなかった。彼女さえ傍にいてくれるなら。ヒスファニエのものにできるのなら。
そう願っているのに、自分は決してそうはしないことも知っていた。ただの一人の男になるには、ヒスファニエにはしがらみが多すぎる。それを捨てれば、生涯後悔し続けることがわかっていた。
彼は王にならなければならない。それが彼に与えられた役目なのだから。
今もデュレインたちは、ヒスファニエのために、神殿島を囲む海域を、命懸けで守ってくれているに違いない。なのに、そのヒスファニエがすべてを投げ出すのは許されない。
「ごめんなさい」
アリィが泣きそうに謝ってきた。彼は我に返って、瞬きをした。
「なにを謝ることがある?」
「怒っていらっしゃるから」
別の理由で思いつめていた彼の態度を、彼女はそうとってしまったのだろう。
思いがばれなかったことに安堵しつつも、彼女に思い知らせたい気もした。何も知らずに無邪気に信頼を寄せてくる彼女に、苛立ちさえ覚えた。
馬鹿なことを考えているのは自分だと、わかっているのに。
彼は自嘲しつつ、彼女へと話しかけた。
「怒ってなど、いない」
「でも」
「少し寂しかっただけだ。これからは気軽にアリィを抱っこできなくなるから」
どう返事をしたらいいのかわからない様子の彼女に、ヒスファニエはわざと溜息をついてみせた。
「アリィは抱き心地がいいからなあ」
笑いにまぎらわすつもりで、なんの気なしに言って、言ってからあまりに意味深な内容に、自分で驚いた。
本当に他意はない言葉だった。小さくて温かいアリィに触れると、愛しさで胸が満たされ、とても気分が良くなる。
けれど、子供に言う分にはかまわなくても、成人した女性が相手となれば、とんでもなく色っぽい内容を含むことになるだろう。
次にどういう態度をとればよいかわからなくなって、彼はただ彼女を見つめた。彼女は小さく唇を開き、驚いたように彼を見ていた。その唇が、ゆっくりと綺麗な笑みの形をつくる。
「私も、ファー兄さまに抱っこされるのは好きです。とても安心するから」
ヒスファニエは息を呑んだ。
彼女は本当に、ただ無邪気なだけなのだろうか。その艶やかに匂いたつような笑みに、心拍数が上がる。
まるで、誘われているようだ。
ヒスファニエは無意識に彼女へと手を伸ばした。頬に触れても表情を変えない彼女に、囁きかける。
「では、また君を抱いてもかまわないか?」
彼女は花が開くように笑むと、頷いた。
頬に当てていた手を肩へと下ろして、そっと引寄せる。彼女はうながされるまま体を浮かせ、自然に手を上げて彼の首へとまわし、抱きついてくる。彼は彼女の腰を引寄せ、体が密着するようにしっかりと抱き締めた。
頬に当たる彼女の頭にすりより、その感触を楽しむ。
愛しくて、愛しくて、胸がきりきりと痛んだ。
彼女にとってヒスファニエは、警戒する必要もない、「兄」でしかないのだろう。そうでなければ、年頃の娘が、こんなに無防備に男に抱きつくはずもない。
その事実にも胸が張り裂けそうだった。
それでもヒスファニエは静かに彼女の頭に唇を寄せ、彼女にわからないように口付けを落としたのだった。
アリィ視点 「誘惑」11