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君に会いに  作者: 伊簑木サイ
ヒスファニエ編
8/44

    8

 その日の午後は、お互いに、二人きりで狭い(くりや)に閉じこもっているのは落ち着かず、ヒスファニエは食材を調達してくると言って外に出た。

 周辺に張り巡らせた鳴子を確かめ、そうして歩きながら目に付いた野草を摘み、根菜を掘り起こし、腰の籠に放りこむ。ついでに薪になりそうな木も拾い、それも背負った大きな籠に次々と入れた。

 一人なら数日分があればいいし、何かあっても自分だけが我慢すればいい。だが、彼女がいるとなるとそうはいかない。ヒスファニエは最近、少し余裕を持てるように心掛けていた。

 帰ると、彼女は外で壁に寄りかかって、脱いだ上着を膝に置いていじっていた。そのあまりに眩しい光景に、ヒスファニエは静かに少し戻り、今度は途中の梢を荒っぽくどかし、足音も大きめにたてて近づいた。

 彼女は慌てて上着を前から肩に掛け、困ったようにしながらも、それでも彼を見て嬉しそうに笑った。

「おかえりなさいませ」

「ただいま。何をしていたんだ?」

 座ったままの彼女に目線を合わせるために、ヒスファニエはしゃがんだ。うっかり下を見ると、彼女の腿が丸見えになってしまうからだった。

 でもそれは逆効果だったらしい。近くなった彼に、彼女は肩を竦めてうつむいて、少し緊張した様子を見せる。そして急に上着の陰から片手を出すと、目に付いたのであろう裾を摘んで持ち上げ、今の状況をごまかすように、一所懸命説明を始めた。

「中で道具を見ていたら、針があったんです。それで、裾がほどけないように、かがっていたんです」

 見れば、裾が細く折り返され、茶色い糸で細かく縫ってある。

「糸もあったのか」

「いいえ、髪の毛なんです。……すみません。気持ち悪かったですね」

 説明しながら、急にしゅんとしてしまった彼女の頭に、思わず手をのせて、わしわしと撫でていた。

「そんなことはない。ありがとう。アリィは器用だな」

 彼女は上目遣いにヒスファニエの表情を確かめ、安心したように唇をゆるめた。

「あともう少しなんです。まだ外にいてもいいですか?」

「ああ。俺は中で休んでるから。冷える前に入れよ」

「はい。本当にもう少しですから」

 ヒスファニエは一人で(くりや)に入った。

 彼が頭に触れても、彼女が少しも嫌がらなかったことに安堵しつつも、目にしっかりと焼きついてしまった、彼女の形の良い胸がどうにも脳裏にちらついて、彼はその場で両手で頭を抱えてしゃがみこんだ。

 自分の気持ちを自覚してしまったとたん、それまで「妹だ」「娘だ」と誤魔化せていたものが、すべて意味を持って迫ってくる。彼は全身の血が沸き立つような感覚と、軽い自己嫌悪という相反するものを感じて、小さく唸った。


 その夜は、さすがにいつものように彼女を抱き寄せては眠れなかった。膝を抱えるようにしてぎゅっとまるまっている彼女の横に身を横たえたが、ちっとも眠気が訪れない。まいったと思いつつ、彼女の呼吸に耳をすましていた。

 だから気がついたのだ。時々息をつめては、その後に浅い呼吸を繰り返す。それはまるで、痛みを堪えているかのようだった。

 ヒスファニエは起き上がって、こんなときのためにすぐに灯りが灯せるように、素焼きの器に盛った焚きつけと小さな木切れの山に火を点け、それを傍に置いて彼女の顔を覗きこんだ。

「具合が悪いのか?」

 眉根を寄せて苦痛を浮かべた彼女が、目を開けて、それでも気丈に首を振る。

「大丈夫です」

 それは全然大丈夫には見えず、彼は心配して彼女の頬に手を当てた。

「どうした。どこが苦しいんだ」

 彼女はうっすらと微笑んで、彼の手に頬をこすりつけるようにして、また首を振った。

「アリィ!」

 彼は声を荒げた。ぐったりした様子に、いてもたってもいられなかったのだ。彼女は驚いて目を開け、彼の真剣な眼差しに、泣き笑いみたいな表情になった。

「時々、月のものの時にこうなるんです。お腹が痛いけれど、一晩我慢すれば、良くなりますから」

 こんなに辛そうなのに、朝まで耐えるつもりなのか。

 だからといって、ここには医者も、薬もない。ヒスファニエにはどうしてやることもできなかった。それでも聞かずにはいられなかった。

「俺に何かできることはないか」

 彼女の瞳に躊躇いの色が見えた。彼はすかさず言った。

「アリィ、どんなことでも言ってくれ。ここには君と俺の二人しかいないんだ。俺の知らないことは君が教えてくれなければ、助けてやることさえできない。俺は君が苦しんでいるのを、ただ見ているのは嫌だ」

 アリィは視線を逸らして目をつぶって、一度乱れた息をしてから、声を絞り出すようにして喋った。

「温めてください。……嫌でなければ」

「嫌だなんて、どうして思うんだ」

 質問や非難というより、愚痴だった。そんなこと、思うわけがないのに。自分がそんな男だと思われているのが情けなく、腹立たしかった。

 ヒスファニエはいつものように背中から彼女を抱き締めた。彼女の体の線に沿って足まで絡める。そんな場合ではないのに、自分の素肌に、彼女が着ている布一枚ごしに触れる感触に胸が高鳴った。体にまわした手は、痛いと言っていた腹に当ててみた。冷たいというほどではなかったが、確かに彼女の方が体温が低かった。

「だって、嫌じゃないですか? 月のものがきている女なんて」

「なぜ?」

「穢れているから」

 確かにそんな話もある。月のものは穢れで、不浄だと。だから、その最中の女は船には乗せない。血の不浄が不運を招き寄せないようにだ。もしも乗っている間になってしまった場合は、別の小船に一人で乗せるか、結界をつくってその中に居させる。船の上ではそれが終わるまで、その女とは口もきかないのだ。

 けれど、同時に崇めもする。その血が赤ん坊を育み、子を生み出すのだから。血の色である赤は最も神聖な色であった。それを命の危険もなく流す時期の女も。子孫繁栄と豊穣を願う祭りでは、必ずその時期の女が巫女を務める。

 生と死、聖と穢れを一つの身の内に宿す「女」は、たぶんヒスファニエだけでなく、男にとって神秘の生き物だ。

 似た形をしているのに、本質的に何かが違う。

 同じ男をこんなふうに、抱き締めたいとは思わない。

 いや、男だけではない。他のどんな女とも彼女は違う。ヒスファニエはそれを、今、嫌というほど腕の中の彼女に思い知らされていた。

 なぜ彼女には、こんなに愛しいと、大切にしたいと、触れたいと、自分だけを感じて欲しいと、見て欲しいと、気も狂わんばかりに焦がれるのだろう。

「穢れてなどいるものか」

 胸の疼きをもてあまして、言葉に乗せて囁く。

 すると、彼女が、腹に当てたヒスファニエの手の上に自分の手を重ね、ぎゅっと握ってきた。彼は手の甲を這う、その甘美な感覚に、思わず熱に浮かされた溜息をついた。

 彼女に頼られ、甘えられている。それに、震えるほどの喜びを感じる。

 この島には他に誰もいない。彼女は彼にすがるしかないのだ。そうしなければ、生きることすら難しいのだから。

 それでも、それがわかっていても、今だけは。

 今だけは、彼女は俺のものだ。

 ヒスファニエは自分からは身動ぎもせず、ただ彼女の体に添い続けた。そして、心狂わせる彼女の感触を静かに貪りながら、一晩中彼女に体温を与え続けたのだった。

アリィ視点 「誘惑」10

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