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ヒスファニエは一足先に厨に戻って盥を持ち出し、泉で洗濯をしていた。
まず下穿きを先に洗ってから、いつも通りに濡れたままはき、それから上着にとりかかった。
砂利を踏む音に目を向けると、ヒスファニエの上着を着ただけのアリィが随分遠いところで立ち止まった。すんなりとした、太すぎず細すぎない健康的な足が眼福だった。ああ、いや、そうじゃないだろう、ちょっと裾を切りすぎたか、と心の中で一人で焦って反省した。
それにこの距離は、さすがの彼女もさっきの今で、ヒスファニエを警戒しているのだろう。いい傾向だと思うべきだったが、寂しく、これからはそう簡単に抱き締めて撫でまわせなくなるのが残念だった。
このありあまってあふれる愛情を、これからはどう発散しようか。表情は変えずに彼女を見ながら、盥の中でうずく掌を何度か強く握った。
「こっちはもう終わる。自分で洗濯するんだろう?」
「はい。あの、それで、いらない布は、ありませんか」
彼女は唐突にかーっと顔を真っ赤にして、どこか必死に聞いてきた。
「布? どのくらいだ?」
「えーと、このくらいのを、3枚か、できたら4枚くらい」
彼女が手で示したのはそれほど大きなものではなかった。彼女がまくりあげている袖を片方切り落とせばなんとかなりそうだった。
おいでおいでと手で呼び寄せる。彼女は少し躊躇ってから、足早に寄ってきた。裾を押さえながら、膝を地面について踵に尻を乗せて、ヒスファニエの横にしゃがんだ。その腕を取って、折り返した袖を伸ばす。
「袖を切り落とすから、ちょっと手を引っ込めてろ」
「えっ? だったら、私の服の裾を切ってください!」
彼女は慌てて手を引いた。
「濡れていていいのか?」
「ええと、と、とりあえずは」
水の中の自分の服を見て、しどろもどろに答える様子に、ヒスファニエは笑った。
「ずり落ちて、どうせ邪魔だろう? 切ってしまえば着やすくなるぞ」
「でも、これ以上切ったら、ファー兄さまが着られなくなってしまいます」
アリィは裾をいじった。気になっていたのだろう。
「それはもう、君のものだ。俺のお下がりで悪いけど」
「ファー兄さま」
アリィは困った顔をする。なしくずしにずっとそうなっていて、今も着ているのだから、否定できないのだろう。
ヒスファニエがもう一度手を取っても、今度は逆らわなかった。彼はナイフを取り出して切りながら、何の気なしに尋ねた。
「何に使うんだ?」
彼女の全身が、がちっと固まったのがわかった。驚いて顔を見ると、見えるところ全部が真っ赤になっていて、上目遣いに何かを囁いた。
「え?」
良く聞こえなくて聞き返すと、彼女は泣きそうな顔になって、大きく息を吸い込んだ。
「月の、もの、です!」
「あ。すまない」
反射的に謝り、視線を下げて布を切り分ける方へ没頭した。
「こんなものでいいか?」
「はい。ありがとうございます」
アリィはそれを掴んで、茂みへと走っていった。足を動かすたびに裾が微妙にひるがえって、柔らかそうな腿がよく見えた。見てはいけないと思いつつ、目がそれから逸らせなかった。なにしろ、あの下には何もはいてないのだ、と思うとよけいに。
視界から消えて、彼はやっとうつむくことができ、深い溜息をついた。
「思ったより、子供じゃないのか……?」
まいった。これからどうすればいいのか。
ヒスファニエは弾む自分の心臓に気付き、溜息を繰り返すことしかできなかった。
洗った服を木の枝にひっかけていたら、ざっざっざっと勢いをつけて歩いてきたアリィが、盥の横にそのままの勢いで膝をついて座った。それを見て、服というものは、座ると後ろが尻の部分に取られて、思ったよりもずりあがるものなのだと理解した。下穿きをはいてないために、膝を地面につかないと、中が見えてしまう。あれでは足も痛いだろうし、力も入れにくいだろう。それに顔も普通を装おうとして、妙な表情になっていた。
「俺は沐浴室の竈の火を見てくるよ」
「はい。行ってらっしゃいませ」
ぴょこん、と頭が上がってヒスファニエを見たのに、視線が合ったとたん、うろうろと目が泳ぐ。その恥らった姿が、一度意識してしまったためか、子供には見えなくて、どきりとした。
「すぐに戻る」
そう言い置いて、背を向けた。
アリィは背が小さい。ヒスファニエの胸の半ばまでもない。目が大きくてあどけない顔をしている。
けれど性格のせいか、幼い感じはせず、凛とした美しさがある。彼女は非力で女で病み上がりで、たいしたことはできない。それでも、卑屈になったり甘えたりせず、自分ができることを探してやろうとする。それがヒスファニエにはとても好ましく感じられた。
彼女といると、人間というものは、どんな血筋だとか、地位だとか、何ができるとかできないとか、もっと言えば大人だとか子供だとか、男だとか女だとか、そういったものすべて関係なく、対等なものなのだと感じる。
人は己の力を生かして、できないことは助け合って、支え合って生きていけばいいのだと。
ヒスファニエは彼女が来るまで孤独だった。恐らく、この島で一人で一月過ごすというのは、祝福を得るという以上に、その孤独の中で己を見つめなおし、王位への覚悟を決める意味合いがあるのだろう。
その意味で、ヒスファニエの試練は違うものになってしまった。でも、一人では得られなかっただろう、もっと大きなものを彼女が教えてくれたと思う。
ヒスファニエはこれから民を支配しなければならないのだと思っていた。国を、彼らを、彼一人が全部背負っていかなければならないのだと。それはどれほどの重圧であり、孤独であったか。
だけど、きっとそれは違うのだ。まだはっきりとは見えていなかったが、漠然とイメージすることはできていた。
ヒスファニエに王位につくという役目があるように、誰にもその人にしか果たせない役目があるのだろう。きっと、それを最大限に生かすようにすればいいのだ。
人には上も下もない。この偉大な自然の前では、一人で生きていけないほど、ちっぽけなものでしかないのだから。だから、人は他の誰かと手を携えて生きていくのだ。
彼女の手を握る感触が掌によみがえり、心がかっと熱くなった。その熱があふれてとどめておけず、体の中から零れ落ちる。
「アリィ」
ヒスファニエは立ち止まった。浅い息をする。苦しくてしかたなかった。
認めないわけにはいかなかった。彼女がどんなに幼かろうと、仇敵の姫だろうと、ヒスファニエにとって、彼女こそが「女」なのだと。彼女には、どんな「女」にも感じたことのない愛しさと欲望をかきたてられる。
わかっていた。ブリスティンの血を引く女性を、ユースティニアの王となる自分が娶ることはできない。だからといって、彼には王位を投げ出すような無責任なこともできなかった。
現在のユースティニアには、王族の血を引く男は父と叔父と自分しかいない。他は皆、十年前の戦で死んでしまったのだ。ヒスファニエが王に立たなければ、姉の夫たちが王位をめぐって争うだろう。そうすれば、国は荒れてしまう。愛する母国に、ここ神殿島と同じ運命をたどらせるわけにはいかなかった。
今、これほど傍にいる彼女は、ヒスファニエにとって、最も手の届かない人なのだ。なのに、この激情をなだめる術が見つからない。
「アリィ」
どうしようもなくて熱く囁いた名は、慟哭の響きを宿していた。