6
夜、いつものようにアリィを腹に引寄せて横になると、いつまでたってももぞもぞしている。
「眠くならないのか?」
「えーと、少しだけ」
体力が戻ってくれば、昼の睡眠で夜に眠れなくなってくるのは当たり前だ。けれど、ヒスファニエは今日は一日歩きどおしで、疲れて眠かった。とても彼女に付き合ってはいられなかった。
離れていく彼女を、ぐいっと抱き込み、欠伸を噛み殺しながら囁く。
「眠くなくても、目をつぶっておけ。朝になっても熱がなければ、明日は湯を沸かしてやろう。湯につかるのは体力を使うから、よく休んでおくんだ」
ヒスファニエは水をかぶっていれば問題ないが、病み上がりの彼女はそういうわけにはいかない。幸い、薪になる木切れはたくさん拾ってきた。あれを燃やすついでに湯を沸かせば一石二鳥だ。
彼女はぴたりと静かになった。
二日ほど前までと違って、触れても熱くなくなった心地よい体温に安らぎを感じる。あの、命の火が燃え尽きてしまいそうな熱さに、どれほど心配したことか。
「よかったな、アリィ」
心からこぼれおちたそれを、口に出して呟いたのか、呟かなかったのか。彼は自分でもわからないうちに、深い泥に沈んでいくように、眠りに落ちていった。
翌朝、食事をすませると、ヒスファニエは石の斧を取り出してきて、木切れを竈にくべられる大きさに叩き割った。
石斧は神官時代の物ではなく、恐らく代々の国王候補の誰かが作った物だろうと思われた。鉄はほうっておけば、やがて錆びて使い物にならなくなる。だが石は朽ちないために、柄を代えただけですぐに使えるようになった。ナイフでは歯の立たない物に、これは非常に重宝していた。
他にもそんな物が厨にはあふれていた。編んだ籠や桶、食器類もたくさんあった。ヒスファニエもアリィがいなかったら、有り余る時間を潰すために、きっと何かを作成していたに違いなかった。
けれど、人間らしい痕跡があるのは、この周辺だけだ。
ユースティニア王家は年に一度、神殿と付属施設の整備と補修を行っている。エーランディアの血族が帰って来ても、すぐに生活が始められるように。ただし、基本的に最後の神官が出て行った時に残していったものを守っているだけであり、それらも時と共に朽ちていく物も多かった。
実際、他の建物群は森に飲み込まれてしまった。ここには多くの神官が寝起きし、その生活を支える人々がおり、神託を受けに来た者たちの宿泊施設もあった。また、多くの人々が集まってくるために、交易も盛んだったという。当時神殿島は、ゲシャンでも有数の大都市だったと聞いている。
それが、主であった大神官がいなくなったために、あっという間に衰退し、今は誰一人住む者のいない無人島になってしまった。
ヒスファニエは、この荒々しくも神々しい緑滴る地を見る度に、人の世の無常と、王の責務を考えずにはいられなかった。王は、己の治める地を、決して見捨ててはいけないのだ。
彼は小半時斧を振るい、薪になったものを、少し坂を下ったところにある、沐浴室の外壁の下に口を開けている竈の横に運んだ。焚きつけと火種も持ってきて、中に火を入れる用意もした。
ここは神官が祈りを捧げる前に体を清めていたのだろう。自分では沸かすのも後始末も面倒だから使おうとは思っていなかったが、きちんと整備はしてあるから、使えるはずだった。
アリィは作業の間中、ヒスファニエのまわりをうろうろしては、自分も手伝うと何度も言った。下ろしていた背中半ばの髪も、邪魔にならないように細い縄でくくって頭の上でまとめてあった。本人はやる気満々だったが、細い首が丸見えになって、余計に頼りない感が増していた。
だから、もう少ししたらやってもらうことがあるから、と言い聞かせては、力仕事はけっしてさせなかった。それでも彼女は諦めることなく、今もそわそわと彼の後をついてきていた。
何かしたい、役に立ちたい、でも邪魔しちゃいけない。そんなものが透けて見える仕草や行動や表情は、どれもが全部可愛くて、彼女に見守られた作業は少しも苦にならず、ヒスファニエにとって、むしろ楽しい一時となった。
「さて。手伝ってもらうか」
ヒスファニエはアリィを連れて、浴室の中に入った。壁から突き出ている管からは、高低差を利用して泉からひいてある水が、流れ落ちるままになっていた。床に掘られた溝に流れ、そこから外に排水されている。管の側には可動の樋があり、それに水を受けさせると、人が一人入るには少々大きめな浴槽に注ぎ込むようになっていた。
「アリィに水の番を頼む。水がいっぱいになったら、樋を動かして外に流すんだ。俺は外で火を点けるから、時々中をかきまぜて、温度を確かめてくれるか」
樋を動かしてみさせ、彼女にそれができるのを確認して、かきまぜる用に大きなまま残してあった木切れを渡した。
「じゃあ、頼んだぞ」
「はい」
表情を引き締めて、彼女はこっくりと頷いた。
ヒスファニエは外に出て、竈に火を入れた。
火が大きくなったところで、どんどん薪を入れて、横目でそれを見ながら、昨日洗って干してあった自分の上着の下の部分を切り取った。どうせ自分は着ないし、小さいアリィにはとても長い代物だ。切っても十分膝の近くまで隠れるだろう。
切り取った分から、また掌二つ分くらいを切り分けた。これは体を洗って擦るための分で、残りは少々布地が少ないが、体を拭う用だ。何度か絞りながら使えば、使えないことはないだろうと思われた。
この島で何が一番足りないかというと布地だった。動物の皮を使ってもいいが、なめすのに時間がかかる。やっているうちに一月たってしまうだろう。布を織るのも同じ理由で問題外だった。だいたいヒスファニエも、さすがに糸を紡いだり織機を作ったりはできなかった。
アリィなら何か知っているかもしれなかったが、やらせる気はなかった。あと20日ほどだ。それだけ我慢すれば、迎えが来るのだから。
ユースティニアとブリスティンは近いにもかかわらず、国交はない。それでも伝手がないわけではなかった。王家はどこも姻戚関係にある。それを辿っていけば、彼女を無事に国に帰してやることができるだろうと考えていた。
彼は知っている限りの血縁関係を頭の中に思い浮かべ、上の空で薪を足していた。
「ファー兄さま、お湯が沸きました!」
アリィの弾んだ声が聞こえてきた。次に突っ込もうとしていたものを残り少ない薪の山に戻し、浴室に行った。中は湯気で蒸し暑くなっており、汗だくになったアリィが、きらきらした表情でヒスファニエを待っていた。
ああ、失敗した、と彼は思った。彼女に無駄な体力を使わせる気はなかったのだ。
でもそんなことはおくびにも出さず、彼は湯の中に手を入れた。
「うん。いいだろう。ありがとうな、アリィ。助かったよ」
「では、私は外に出ていますね」
彼女はヒスファニエが確かめている間にも、そろりそろりと戸口まで動いており、悪戯に笑って、外に出ていこうとした。
「ちょっと待て。アリィが入るんだ」
「私はファー兄さまの後でいいです」
そういい捨てて、とうとう走って逃げ出そうとした彼女を、ヒスファニエは追いかけて、苦もなくさっと捕まえ、抱き上げた。
「風呂が嫌いか? アリィは悪い子だな」
ヒスファニエは自分が小さい時に遊ぶのに夢中で、風呂に入るのを嫌がったのを思い出した。
「そんなんじゃありません!」
むきになる彼女がおかしくて、喉の奥でくつくつと笑う。
「だって、ファー兄さまが働いて沸かしたお風呂です。私、とても先には入れません」
ヒスファニエは風呂の縁にアリィを抱えたまま座った。片手を伸ばして、置いてあった小ぶりの桶をいくつも取っては湯を汲み上げた。
「これは上がり湯だ。あまり置いておくと冷めてしまうから気をつけろ」
「ファー兄さま」
まだ抗議しようとする彼女の口に指を当てて遮って、言い聞かす。
「アリィ、選べ。君が先に入るか、俺と一緒に入るか。すみからすみまで丁寧に洗って差し上げようか、我が姫?」
ん? と首を傾げ、どうだとばかりに、にっこりと脅す。
ところがアリィは顔を赤らめるどころか、むぅっとして、上目遣いに睨んできた。
「望むところです! 私もファー兄さまの背中を流してさしあげます!」
これにはヒスファニエがたじろいだ。
「年頃の娘だろう。恥じらいを持て」
「どうせ見られています。寒かった時に、抱き締めてもらったのも覚えています。今更です」
何かを堪えるように、それでも、強い意志でヒスファニエを見詰める彼女に、どきりとした。腕の中にあった、湿った吸いつくような肌を思い出す。
なにかおかしな気分になって、ヒスファニエは彼女を直視できず、視線をそらしてしまった。おかげで、ここぞとばかりに、膝に抱え上げた年下の女の子にたたみかけられてしまう。
「それに、男の二言はどうかと思います、ファー兄さま」
言い返す言葉が見つからない。やりこめられても、怒りはわかなかった。それどころか、小さいはずのアリィが女であることに戸惑って、逃げ出したかった。彼女に欲情でもしてしまったら、自己嫌悪に陥って、しばらく立ち直れそうになかった。
ヒスファニエは溜息をついて、負けを認めた。
「俺が悪かった。調子にのった。でも、これは君のために用意したんだ」
彼女は、向けられたヒスファニエまで切なくなるような笑顔を浮かべた。
「知ってます。ありがとうございます。だから、よけいに」
そこまで言って、彼女は突然口をつぐんだ。うつむいて、唇を噛む。
「アリィ?」
彼女の顔を覗き込もうと、体を傾げた時だった。突然彼女が体をひねって、ヒスファニエを押した。不意打ちに彼はバランスを崩して、堪えきれずに、彼女を抱えたまま湯船の中に落っこちた。
盛大に水柱があがる。頭まで沈んでしまうが、足が縁に引っかかっている上にアリィが腹の上にいるせいで、湯から顔が出せない。思わず湯を飲み込んでしまう。
これはちょっと苦しい、と思いながらも、それでも溺れる深さでないことは理解していたので、腕をどこかにつけないかと闇雲に動かした。そのうち、体の上のアリィが退き、細い腕に頭を引っぱりあげられた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ああ、お兄さま、大丈夫? どうしよう。ごめんなさい」
げぼげぼと咳き込むヒスファニエの頭を抱え込み、背を撫でさすりながら、アリィが動顚しきった涙声で謝る。
ヒスファニエはアリィに体を預けて、しばらく苦しい咳をした。やっと治まってきて、息を整える。気付くとアリィの胸に自分の頬を押しつけており、その好ましい柔らかさに、ぎょっとして体を起こして離れると、
「ファー兄さま」
アリィは涙を浮かべてすがりついてきた。それすら艶かしく感じて、固まって動けなくなったヒスファニエの耳元で、ひぃぃっくとしゃくりあげる声が聞こえた。
子供が己の犯した悪さを後悔して泣く、そのままの響きだった。その瞬間、色めいた呪縛はとけた。
自分を心配して震える肩を抱き締める。
愛しかった。ただただ、彼女が愛しかった。少し顔を動かせば触れる彼女の首にキスをした。背中を軽く叩いてやる。
「大丈夫だ。この悪戯っ子め」
「ごめんなさい」
アリィは嗚咽につっかえながら言った。泣いている彼女を一人でここに置いていけば、罪悪感いっぱいで泣き続けることだろう。せっかくの湯も、嫌な思い出になってしまうに違いない。
彼女を首から引きはがし、足の間に座らせ、苦笑交じりに提案する。
「わかった。背中を流してくれ。その帯でやってくれるか?」
外に先ほどの布を取りにいくことも考えたが、彼女を不安にさせるだけだろう。ここにあるものですませばいい。
彼女が急いで帯の結び目をとくのを認めて、背を向けると、いくばくもなく湯を含ませたそれで、背を何度も拭われた。優しく撫でる感覚は気持ちよく、筋肉の強張りがとけていくようだった。
「あの、背中終わりました。こちらを向いてください」
頭だけ振り返ると、アリィは使命感に燃えた真剣な顔をしていた。ヒスファニエは笑いたいのを我慢して、はいはい、と軽口をたたいて体の向きを変えた。すぐに腕を取られて、丁寧に拭われる。それから、首、胸とくる。ヒスファニエはいつのまにか気持ちよさに目をつぶって、湯船の縁に背を寄りかからせていた。
腹を拭ったところで手が止まった。終わりだと思って目を開けると、アリィは思いつめたように下穿きを凝視していた。どうやらまだ続きをしてくれるつもりだったようだ。だが、ヒスファニエはその視線の前に手を出した。
「交代だ。後ろを向いて。ほら、上着を脱いで」
おとなしく帯が渡され、背が向けられ、上着の下から滑らかな肌が現れるのを、彼は黙って見詰めた。そこにあるのは確かに『女』の体だった。
ヒスファニエはアリィの手つきを思い出しながら、同じようになるように彼女の背を洗った。その肌を撫でまわし、口付けたいのを隠しながら。
背が終わると、後ろから抱き込むようにして、手を伸ばして腕を拭ってやった。とても自分の目の色を彼女には見せられないと思った。胸と腹も拭う。彼女が緊張に体を強張らせたのは感じ取っていた。それでも気付かないふりをして最後までやったのは、ヒスファニエが彼女の肌に触れたかったからだ。
俺は悪い大人だ、と思いながらも、彼女はこれで少しは懲りるべきだ、とも思った。迂闊に口をすべらせて、無自覚に男を誘うのは危険だ。ヒスファニエでなければ、今頃襲われてもおかしくない。自衛する意識を持ってもらわなければ、そのヒスファニエだとて、いつか理性が弾け飛んでしまうかもしれなかった。
それだけは勘弁してもらいたい、と強く思わずにはいられなかった。彼女を傷つけるために拾ったのではない。彼は彼女を大事にしたかった。大切に愛しんで、甘えさせたかった。
「さあ、おしまいだ。あとは自分でやっておいで。髪もちゃんと洗うんだぞ」
帯を手に握らせ、彼女が脱いだ上着を持って、湯船から出た。
「そうだ、後ろを向いているから、その下穿きも脱げ。どうせ濡れたんだから、ついでに洗おう」
「自分で洗います」
「遠慮はいらないぞ。洗うのも力仕事だからな」
つい、少しだけ振り返って見てしまう。アリィは帯と手で胸元を隠すようにしていた。
「遠慮じゃありません! これは、絶対に、自分で洗います!」
怒った口調だが、恥ずかしがっているのは良くわかった。
「今更、だろうに」
思わず呟くと、
「それとこれは違います!」
鬼気迫る様子で叫ばれた。
「わかった、わかった。噛み付くな。じゃあ、それはいいから。着替えを持ってくるよ」
ヒスファニエは背を向けたまま手を振って、笑いながら浴室を出た。
アリィ視点 「誘惑」7、8、9