5
朝飯を二人で食べて、島の見回りに行かなければいけないことを告げると、彼女は聞き分け良く、ここで一人で待っていると頷いた。病み上がりの彼女は連れて行けない。後ろ髪引かれる思いではあったが、行かないわけにはいかなかった。
急ぎ足で、それでも一日かけて見回り、持てるだけの木切れを縄でくくって担いで帰ってきた。
ヒスファニエは厨に入る前に、泉に寄った。肌に塗った泥を落とすためだった。さすがにこの季節に裸をさらして外を歩けば、虫に刺される。泥は虫除けだった。全裸になって頭から水をかぶり、適当に露を払って、下穿きをはいた。
木切れを厨の外壁に立てかけてから扉を開くと、寝藁の上で蹲っていたアリィが飛び跳ねるようにして駆け寄ってきて、抱きついた。
「なんだ。どうした。ここには人を襲うような動物はいないぞ」
小さくて温かい体を抱き締めてやる。顔を見ようとすると、隠すようにヒスファニエの胸に擦りつける。生温い息が当たってくすぐったかった。
「怖い夢でも見たか」
子供じみた仕草がかわいくて笑って言うと、一度動きを止めて、今度は離れようとする。どうやら図星だったらしい。肩を押さえて、有無を言わさず顔を見れば、下唇を突き出して、不満そうな、泣きそうな顔をしていた。
少し目元が腫れぼったいようだ。いない間に、一人で泣いていたのかもしれなかった。
「ごめんな。寂しかったな」
抱き寄せて、宥めるように優しく何度も背中を叩いた。
とりあえず、他に人が来た痕跡はなかった。島のあちらこちらに仕掛けた罠にも、かかっているのは動物だけで、人の手が加えられた様子はなかった。
安心はできず、警戒を怠ることはできないが、ひとまずすることはした。木切れも、特徴的な絵柄のある物だけは、だいたい拾ってこれた。これで、もう少し彼女がここでの生活に慣れるまで、明日から暫くは傍にいてやれる。
ヒスファニエは意識的に明るい声を出して、彼女に話しかけた。
「罠に獲物がかかっていた。うまそうな野草も採ってきたし、それから、これは土産」
彼女から片手を離し、腰に縄で下げた籠から野葡萄を取り出す。
「甘かったぞ」
目の前に差し出してやると、そっとそれを掴み取る。ヒスファニエは彼女を抱き上げた。寝藁の上まで連れて行き、下ろす。
「さあて、今日は久しぶりに違う味の飯にするか!」
「違う味? 何を作るの? 手伝います」
座ったまま見上げる彼女の手から一粒葡萄を摘み、彼女の唇に押し付ける。
「うん。そうしてもらうか。用意するから、それ食べてな」
口にした彼女が、目を見開く。
「甘い」
「そうだろう?」
ヒスファニエは笑って彼女の頬を撫ぜた。
桶に水を張って、そこで彼女に野草を洗わせた。ヒスファニエはその横で、さばいて肉だけにしてきたものを、一口大に切り分けた。
この辺りが神域だということもあるが、それ以上に、肉食の動物が寄ってこないように、神殿の近くでは決して血の匂いのするものを捨てないようにしていた。
肉が細かくなったところで、彼女にナイフとまな板代わりの肉厚な大きな葉を渡した。
「切っておいてくれ」
そう言って、肉を載せた別の葉を持って立って、背を向けた。
わざとだった。ヒスファニエは彼女を試していた。
振り返りたい衝動を抑え、鍋に肉を落とし、底からゆっくりとかき混ぜた。
武器を手放し、無防備に背中をさらす。もちろん、非力な彼女に襲われても、軽くいなせるという打算の下だ。
ゆっくりと時間をかけて隙をつくり、不自然にならない程度の間をおいて、彼女へと体を向けた。ナイフを握った彼女は、目が合うと、ぱあっと笑った。慌ててナイフを下に置いて、大きな葉で野草を包むようにして両手で持ち上げ、かかげる。役に立てて嬉しいと、彼女は全身で言っていた。
「もう入れますか?」
ヒスファニエは頷いた。
「ああ。持ってきてくれ」
大事そうに持ってきた彼女に、顎で鍋を示して、自分で入れさせる。そのままヒスファニエの隣に立って、鍋を覗き込んでいる。
「どんな味になるんですか?」
「さあ?」
「さあ?」
彼女は彼を見上げて、鸚鵡返しに聞き返した。
「どんな味になるかは、食べてみてのお楽しみだ。昨日までと違う食材を入れたから、違う味にはなるんじゃないか?」
「ええ? それだけ?」
「それだけ」
彼女は驚いた顔をして、次いで感心した。
「あんまり美味しいから、何か特別な味付けをしてるのかと期待していたの。入れて煮るだけだったなんて。とっても簡単なのに、すごいわ」
「本当だよな。俺も驚いているんだ。初めてにしては、よくできてるって」
彼女はまた驚いて、今度はにっこりと笑った。
「さすがファー兄さまね」
まったく屈託がない。そこには尊敬と信頼しかなかった。
ヒスファニエは胸が痛んだ。あまりに彼女が無邪気で、可愛くてたまらなかった。おたまを投げ出し、彼女を抱き上げて、頬にキスをする。それだけでは足りずに、頬ずりもした。
毎朝、ナイフで髭を剃ってはいるが、剃り残しも多い。彼女は嬉しそうにしながらも、ちょっと迷惑そうでもあった。それが楽しくて、つい何度も繰り返してしまう。
「もう、いや」
彼女はそう言って、細い指でヒスファニエの頬を押さえつけた。その手にも頬をこすりつけて、ちくちくすると騒ぐ彼女の様子に、笑い声をあげた。
すとん、と腑に落ちるものがあった。
そう。ヒスファニエは、彼女を試したのではなかった。
恩讐を越えて、ただただ慕ってくれる彼女に、同じものを返したかっただけだったのだ。命をさらせるほど、信頼していると。
肌を触れ合わせ、笑いあい、彼女の瞳を覗きこみながら、彼は密かにその思いを噛み締めたのだった。
アリィ視点 「誘惑」5、6