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君に会いに  作者: 伊簑木サイ
アリィ編
43/44

   18

 船の中には、ブリスティン王妃に仕えていた古参の女官が、アリエイラの世話をするために乗っていたが、彼女がユースティニアの王太子と婚姻したと知ると、その態度は腫れ物に触るようなものになった。

 船に移るまでの小船の中でも、一部始終を見ていたラファエラ王子の側近たちは、慇懃な態度であっても、どことなく蔑む雰囲気があった。

 それが当たり前だったのだと、アリエイラは焦燥の中で思い出した。

 彼女はブリスティンの衣裳に着替えるようにという侍女の勧めを断って、ベッドの端に腰をかけ、顔を両手で覆って、肘を膝の上についた。

 ブリスティンにとって、ユースティニアは積年の怨敵なのだ。必ず恨みを晴らせと、代々この血にかけて誓ってきた憎い仇。その怨讐は、最早魂に絡み付いて、国全体が、まるで復讐のために生きているかのようだった。アリエイラは、長年その象徴として祭り上げられてきたのだ。

 それを忘れていた。あの聖域で。優しい彼の腕の中で。

 これが俗世の現実。

 ああ。でも、だからこそ、あの人は世界を変えようと言った。あの聖域で私たちが交わした許しと愛を、俗世にもたらそうと。それが神の御意志だと。

 彼を思えば、愛しさが募って涙が零れた。今すぐ彼に会いたかった。

 けれどそれは叶わない。アリエイラはこのままブリスティンまで連れていかれるしかないだろう。

 彼女は涙を拭いて、顔を上げた。毅然として背筋を伸ばす。

 だったら、私はやれることをしよう。少しでも、あの人と夢見た未来に近付くために。だって私は、どこにいても、たとえ離れていても、神の祝福を受けたあの人の妻なのだから。

 追い詰められた状況であっても、彼女の中には確かにヒスファニエがいた。彼が心の底から彼女を思って与えたものが、しっかりとその心を支えていたのだった。


 甲板上は夜半を過ぎても騒がしかった。どうやらユースティニアの船が一隻追いかけてきているらしく、逃げ切ろうとしていたが、よい風をつかまえられないようだった。

 それは当然のことなのかもしれなかった。ブリスティンに与えられた加護は潮流であり、風はユースティニアのものだ。それを以ってかの国の船を振り切ろうなど、無理な話なのだろう。

 それでも、翌日の午後には少し落ち着いた雰囲気になった。どうしたのかと思っていると、疲れた様子のラファエラ王子がやってきた。

 王子はアリエイラを見るなり、険しい表情になった。

「なぜ、着替えさせていない」

 女官を叱責する。それへ女官が小声で返答しているのが聞こえた。内容までは聞き取れなかったが、声の調子から困り果てているのだという様子がうかがえた。

 アリエイラは着替えるつもりは絶対になかった。これはヒスファニエ自らが着つけてくれものだ。

 戦士は家族の許へ帰るまで、その装束を解くことはない。大切な誰かに衣を着せ掛けるのは、紐や帯を結ぶことによって、お互いの絆を結びつける呪術なのだ。

「もうよい、下がれ」

 王子が部屋の外へと女官を下げてしまおうとするのを見咎めて、アリエイラは声をあげた。

「お待ちください。私は夫のある身です。男性と密室で二人きりになるわけにはいきません」

「神官の立会いのない婚姻など無効だ。おまえは騙されていたのだ。まだそれがわからないのか」

 王子は女官を遠ざけてしまうと、扉を閉めてしまった。アリエイラは迷った末にベッドから立ち上がり、部屋の真ん中へと移動した。それは王子へと近付くことになったが、それでも隅に追い込まれて、逃げようがなくなるのを一番警戒したのだ。

 王子はコツコツと足音をたててアリエイラの前で止まった。彼女は視線をそらさず、彼を睨みすえていた。

 王子の手が伸ばされ、アリエイラの頬に触れようとする。彼女は黙って一歩引いてその手を避けた。王子は表情を変えずに、だらりと手を下げた。

「痛むか。すまなかった」

 彼女は答えなかった。腫れあがり疼き続ける頬のことは、どうでもよかった。だが、ヒスファニエから自分を引き離した男の謝罪を受け入れる気には、到底なれなかった。

「アリエイラ。思い出せ。奴はおまえの父を殺したユースティニアの王太子なのだぞ。奴にとっても、おまえは仇だろう。そんな相手が本当におまえを愛するなどと思うのか。奴は言葉巧みにおまえを騙して、……穢したのだ。そうすることによって、ブリスティンに泥を塗ったのだ」

 彼女は静かに王子を見返した。

「そう仰るのでしたら、あなたならどうするのか教えてください。ユースティニアの娘が岸に打ち上げられているのを見つけたら、同じようにするのですか」

「あんな男と一緒にするな!」

「あの方は、ブリスティンの娘と知っていて、神からの賜り物だと大事にしてくださいました。寝る間も惜しんで看病してくれたのです。同じことをしないというのなら、あなたならさしずめ、見殺しになさるのでしょうね」

 アリエイラが嫌味とも真実をついたとも言える毒を吐いた途端、平手で強く頬を叩かれ、床へと叩きつけられた。

 あまりの痛みに吐き気がこみ上げる。頭の中がぐらぐらとして、体を起こすことができなかった。その頭の上へ、苛烈な言葉が降ってくる。

「愚かな娘が! 簡単に騙されてその身まで穢しおって! おまえの純真さに免じて罪は問わぬと言ってやっているのに、それすら理解できないのか!!」

 アリエイラは恐怖に萎縮しそうになる心を叱咤して、必死に言葉を紡いだ。ヒスファニエに無実の罪を着せておくわけにはいかなかった。

「騙されていません。ヒスファニエさまは、真実私を愛してくださって」

「黙れっ」

 ダンッ。アリエイラの頭のすぐ前の床が、軋むほどに蹴りつけられる。彼女は反射的に体をすくめた。

「相手はユースティニアだぞ!! よくもそんなことが言えるな。あれほど殺せと、滅ぼせと言っていたおまえが!」

「そんなこと、言っては」

「ないとは言わせないぞ。ユースティニアの民を殺してやったら、おまえはやっと笑ったではないか。ラダト叔父が亡くなって以来、すっかりふさぎこんでいたおまえが。だから俺は、いや、俺たちは、ユースティニアへの復讐を誓ったのだ。おまえのためだ。全部、おまえのためだぞっ」

「いやっ。言わないでっ」

 アリエイラは思わず耳を覆った。あの場で笑ったのも、復讐の象徴であったのも、決してアリエイラの本意ではなかった。彼女はそんな自分を厭わしく思ってすらいた。

 だが、『英雄の娘』は、確かに王子の言うとおりの振る舞いをしてきたのだった。

 そう。他の誰でもない、アリエイラこそが、人々の憎しみを煽ってきたのだ。

 愚かな、愚かな、愚かな、娘。己の非力さを言い訳にして、都合のいい方へ流されるまま逃げていた、卑怯な娘。

 アリエイラはしてもしきれないほどの後悔に、とうとう涙を流した。

 アリエイラの愚かさが、弱さが、優しかった人たちを憎しみにとりつかれた獣に変えた。そして戦をもたらし、彼女の一番大切な人を危険にさらす。これを、どう償えばいいのか。

 彼女の命を懸けても償いきれないのかもしれなかった。それでも、どうしても、もう愚かなままではいられなかった。たとえ小さなことしかできなくても、何かをせずにはおれなかった。

「私は、私は、誰も憎んでいません。ただ父が死んで、悲しくて、淋しかっただけ」

「今さら、なにをっ」

「誰も死んでほしくありません。傷ついてほしくないのです。父と同じに、帰らぬ人になってほしくない。もちろんあなたもです、ラファエラ王子」

 アリエイラは涙にくれながらも、しっかりと王子を見上げた。彼女の真心からの言葉に、王子も再会して以来、初めて色眼鏡を掛けないで彼女を見た。

 二人が幼かった頃、まだアリエイラの父が亡くなる前、優しい気持ちだけをお互いに抱いていた、あの頃のように。

 王子の瞳に理解の色が見えた。アリエイラはそれにすがって言葉を継いだ。

「人の命を奪う戦など、起こってほしくないのです。それは、ヒスファニエさまも同じ気持ちです。憎しみを捨て、和平を結び、共に栄えていこうと、あの方は仰ってくださいました。だから、あっ」

 王子は突然獣じみた目つきになると、アリエイラの上に覆いかぶさって、その細い首をつかみ、乱暴に床の上に押し付けた。

「奴の名を、口にするなっ」

 力を加減しているのだろう。アリエイラは息はできた。しかし、命を握られている恐怖に、彼女は恐慌状態に陥り、必死に王子の手をつかんで離そうとした。

「いやっ。いやぁっ。助けてっ。ヒスファニエさまっ」

 彼女はもがいて、無意識にヒスファニエに助けを求めた。

「黙れっ。その穢れた名を、口にするな!!」

 王子はもう片方の手で、アリエイラの口元を覆った。王子の大きな手は完全に彼女の口と鼻を塞ぎ、彼女は息ができなくなった。

 苦しかった。頭が破裂しそうにガンガンと痛んだ。彼女は闇雲に拳を振り回し、王子の腕や肩、時に顔も叩いたが、非力なそれに、王子の手をゆるめさせるだけの威力はなかった。

 やがて意識が朦朧としてくる。何をしているのか、どこにいるのかさえもわからなくなってくる。それでも彼女はたった一人の人を求めて、押さえつけられて自由にならない唇で、()の人の名を刻み続けた。


 ヒスファニエさま


 最後の瞬間、アリエイラは、求めて求めてやまなかった愛する人の胸の中に、確かに飛び込んだのだった。


ヒスファニエ視点 「別れ」6

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