17
唇が離れ、瞳を見交わすと、彼は満足気に笑った。それからまた、彼の背に隠される。人前で彼のキスに我を忘れてしまっていたのが恥ずかしかったので、とてもありがたかった。
ほっとアリエイラが息をついた時だった。
「どういうことだ! その男、今、アリエイラに何をした!」
男性の怒鳴り声が聞こえた。彼女はびくりとして、彼の背で身を縮ませた。記憶は遠いけれど、確かに聞き覚えのある声。あれは。
「我が主よ。こちらは先程お話いたしました、ブリスティンのラファエラ王子でいらっしゃいます。ラファエラ王子、こちらが我が主、ヒスファニエ王太子殿下にございます」
ヒスファニエの側近でデュレインと名乗った男が語るのが聞こえる。
ああ、では、彼自らが捜索隊の指揮を執ったのだ。その事実に、彼の自分への執着が見える気がして、背筋が冷える。
アリエイラは、ラファエラ王子のことも、他の王子たちのことも、簡単に関係をなぞるくらいにしか、ヒスファニエに話していなかった。正確に言えば、話せなかったのだ。
王子たちがいつも、どんな目で彼女を見ていたか。どんな風に触れていたか。
それでも当時子供だったアリエイラには、イフィゲニーに行くなと、愛しているのだと、ラファエラ王子に告白されても、まだその意味がわかっていなかった。
ただ、笑っていても彼らのその目が怖かったと、親愛を示して肩を抱く手が絡みつくようだったと、ぼんやりと苦手に思っていただけだったのだ。
それが、自分自身がヒスファニエに恋をして、彼に愛されて、王子たちが垣間見せていたものの本当の意味を思い知った。
そうなってみれば、彼らの気持ちはアリエイラにとって、忌まわしいものでしかなかった。ヒスファニエ以外の男からの懸想など、とても受け付けられない。生理的に、口にするのさえ嫌だった。
ラファエラ王子の怒鳴り声を聞けば、3年間も離れていたにもかかわらず、その思いは消えたりせず、彼の中にまだあるのだと知れた。
もっとも、それも、アリエイラ自身を求めてのものなのかはわからなかったが。
彼女が次期王妃とされる前から、『英雄の娘』はブリスティンの誇りのシンボルであり、彼女を手に入れるのは、王の資格の一つとなるような流れがあった。
ブリスティンの王位継承は実力主義であり、王子たちの力は拮抗していた。その中で図抜けるには、アリエイラの存在は大きかったのだ。
いずれにしても、ここにきて、アリエイラはヒスファニエにすべてを話しておかなかったことを後悔した。
ラファエラ王子たちを甘く見すぎていたという気がしていた。アリエイラの中には、優しくて頼りになった、幼い頃に兄と慕っていた王子たちの姿が今も焼きついており、彼らがどんなに恐ろしいことをしても、なんとなく彼らを信じていたのだった。
アリエイラや彼女の大切なものに、酷いことをするわけがないと。心を込めて話せば聞いてくれるのではないかと。
けれど、ヒスファニエと王子の会話は、不穏なものでしかなかった。ヒスファニエが正式な挨拶をしても、王子は、アリエイラを返せ、と聞く耳すら持たなかったのだ。
「お待ちください、王子、これ以上は神域にございます。許されてもいない者がみだりに踏み入れば、神の怒りを買いましょう」
デュレインが止める声と、複数の足音が入り混じる。恐らくこちらに来ようとした王子を止めているのだろう。
「アリエイラ姫をお探しとのことだが、この島にそういった娘はいない。ここにいるのは、過去を失い、我が妻となった娘だけだ」
ヒスファニエの落ち着いた説明に、食って掛かるような声が覆いかぶさる。
「我が妻だと? 我が栄えあるブリスティンの姫を、おまえごときが妻にするなど、許されるか!」
アリエイラは息を詰まらせた。先ほどからずっと、あくまで礼儀を貫くヒスファニエに対して、王子は軽蔑した態度しか取らない。祖国の王子として恥ずかしいのはもとより、それ以上に、ヒスファニエへの侮辱に、怒りがわく。
「彼女はブリスティンの姫ではない。海から流れ着き、俺が拾ったのだ。神からの賜り物が誰のものになるか、ゲシャンに生きる者が知らぬわけもあるまい」
「卑怯者が! 力ずくで一族の娘を穢したなど、許せん!」
鋭い殺気だった声と共に、いくつもの剣が鞘ばしる音が聞こえる。場がいっきに緊張した。アリエイラは悲鳴をあげそうになって、自分の口を押さえた。
そんな状況であっても、目の前のヒスファニエの背はゆるがなかった。重々しくはあったが穏やかな声で、語りかける。
「勝手な憶測で辱めるのはやめてもらおうか。俺たちはお互いにそれぞれの意思で神に結婚を宣誓した。そして、俺は彼女を王妃とすることを誓い、彼女は俺の妻として生きることを誓った。すべては神意を問うている期間に起きたことだ。これは神の意思だ。剣を引かれよ」
「卑怯者の言など聞くに値せん! おまえを生かしてはおけぬ!」
いっせいに人々が動き出した。ヒスファニエも剣を受け取り、それを鞘から抜く。
この人が誰かの剣の前に立つ。彼の命が危険にさらされる。その可能性に気付いたとき、アリエイラはとっさに彼の前へと走り出ようとした。
「やめて! やめてください!」
しかも、それは誤解なのだ。彼は誰かに罵られ、蔑まれるようなことはしていない。
ヒスファニエに体が浮くほどに抱き止められながらも、アリエイラはラファエラ王子を見つけ、彼を見据えながら訴えかけた。
「ヒスファニエさまは卑怯者ではありません! 流れ着いた私を、何の裏心もなく、親切に面倒をみてくださいました。私がブリスティンの者だというなら、国交を開こうとも仰ってくださいました。お優しく、立派な方です。この方を先にお慕い申し上げたのは私です。この方の妻になりたいと願ったのは、私なのです! どうか争うのはおやめください!」
「やはりおまえは記憶を失ってなどおらぬではないか。嘘をつきおって!」
ラファエラ王子の形相は酷いものだった。もとが美しく整っているだけに、怒りに歪むそれは醜悪以外のなにものでもなかった。
彼の内面に棲みつき、巣食ってしまったものが顔を出している。そう。これが、憎しみという名の獣だ。
血走った目でこちらに切っ先を向ける王子に、無駄だと思いながらも、アリエイラは語りかけずにはおれなかった。
「嘘を仰ってはいません。私はその名も過去も、神にお返ししたのですから。今の私は、アリエット。それ以上は名乗るべき名もない、アリィと呼ばれる娘にすぎません」
それに王子は、わずかに人間らしい表情を取り戻して、さらに顔を歪めた。
「おまえは騙されているのだ。おまえが心優しく純粋な娘であることは、ブリスティンの誰もが知っている。それにつけいり、その男はおまえを辱めたのだ。目を覚ませ、アリエイラ。おまえの父はユースティニアに殺されたのだぞ。その王太子がまともな男であるわけがない」
「いいえ、いいえ、いいえ!」
アリエイラは激しく否定した。
「ヒスファニエさまほど素晴らしい方を、私は他に知りません!」
彼女は情熱に瞳を潤ませ、無意識に自分を抱くヒスファニエの手を探し、その上からすがるように握った。彼は彼女を守るように、しっかりと抱き締め返す。アリエイラは体だけでなく、心まで抱かれているのを感じていた。
二人の姿は、誰が見ても、心惹かれあう恋人同士だった。それがなによりも、ラファエラ王子を激昂させた。
「黙れ、愚かな娘が!」
憎々しげな怒鳴り声をあげ、王子は剣を振り上げた。それにヒスファニエの側近たちが応戦し、あっというまに混戦となった。
アリエイラはヒスファニエに抱かれたまま、少し奥まった場所まで後退した。砂浜が切れれば、そこはもう神域だ。神の怒りを買う覚悟がなければ、招かれざる者たちは入ってこられない。
彼女は初めて見た真剣での斬りあいに、真っ青になって震えていた。
「やめて。やめて。お願い、やめさせてください」
「大丈夫だ。殺しはしない」
「けれど、あっ」
目の前で、ヒスファニエの側近の肩が切り裂かれる。
殺気、痛みにしかめられた顔、流れ出る血。どれもが現実で、恐ろしくて震えが止まらない。
形勢はユースティニアが不利だった。本気で殺そうと向かってくるブリスティンに対し、ユースティニアは相手を殺さないようにと防戦一方だった。恐らく、国交を開こうとしている相手の国の王子を殺すわけにはいかないからなのだろう。
「アリィ、ここにいてくれ。俺も加勢してくる」
「駄目です。駄目! 行かないで!」
アリエイラは夢中で彼に抱きついた。あんな場所へ、彼を行かせられるわけがない。
しかし、ヒスファニエの手が彼女の腕を掴み、ぐっと力を込めて握った。そして、剣を握ったままの右手が、彼女の顎を押し上げ、その瞳を覗きこんでくる。
「アリィ、このままでは、我々が死ぬことになる。わかるだろう、君になら」
わかる。わかるけれど、怖い。怖くてたまらない。アリエイラは彼を失いたくなかった。危険な場所へ行ってほしくなかった。
「殺しも殺されもしない。約束する」
こんな状況であっても冷静な彼に、アリエイラの動揺も少し落ち着く。一刻の猶予も許されないのはわかっていた。彼女は小さく頷いて、断腸の思いで手をゆるめた。
彼は微笑んで頷き、彼女の手の中から去っていこうとした。
その背後に、アリエイラは鋭く閃くものを見つけた。それが何かを理解する前に、彼女は彼の体を突き飛ばしていた。
逃げて!
彼が大きく姿勢をくずしながらも、うまく距離を取り、こちらへ向き直るのを、彼女は一時も目を離さず見守った。
獣のように息を乱し、荒々しい殺気を放つラファエラ王子に、その体を抱き取られ、首筋へと剣をあてられながら。
ヒスファニエの目が驚愕に見開かれる。そこへ王子は吼えた。
「剣を捨てろっ」
「いけません!」
王子の声が彼に届く前にと、アリエイラもすかさず叫んだ。
「ヒスファニエさまは約束してくださいました。約束を違えるなら、先に命を絶ちます!」
「黙れ!」
刃先が首へいっそう強く押し当てられるのを感じた。アリエイラは怖くなかった。むしろ好都合だと思った。これで、少し動くだけで、いつでも死ねる。
ヒスファニエは苦渋の色を宿しつつも、剣を捨てることなく、鞘へと収めた。そのまますぐに抜ける体勢で口を開く。
「ラファエラ王子、俺はあなたと争うつもりはない。彼女を王妃にと望んでいるのだ。正式に国交を開くことを申し入れたい」
「ユースティニアの言うことなど、信用できるものか」
そう言って、王子はアリエイラを引きずって、浜へとじりじりと後退っていった。ヒスファニエがそれを追ってこようとすると、すかさず、動くな、と牽制する。
「貴様らが動けば、アリエイラは殺す。ブリスティンの娘をユースティニアに渡すくらいなら、殺した方がましだからな」
「ラファエラ王子、どうか俺の言ったことを王に伝えてほしい。国交を開き、彼女を正妃に迎えたいと。先にそちらの許しを得ず、順番を違えてしまったのは、彼女の罪ではない。神の思し召しと思えなければ、我が罪としてくれてかまわない。正式な使者もすぐに遣わす。だから」
「黙れっ。貴様の言うことなど、聞かぬ!」
興奮しきった喚き声だった。ヒスファニエがアリエイラを危惧し、表情を強張らせて口をつぐんだ。
その間もアリエイラは引きずられ、彼との距離が開いていく。彼女はたまらず、彼へと手を伸ばした。
「ヒスファニエさまっ」
「アリィ」
彼がこちらへと一歩足を踏み出す。
「黙れっ。動くなっ」
アリエイラは剣の柄で頬を殴りつけられた。焼け付くような痛みと共に口の中に鉄の味が広がり、あまりの衝撃に気が遠のく。
「やめろっ」
「殺すぞ!」
ヒスファニエは叫んで走り寄ろうとしたが、狂気を孕んだ脅しに、蹈鞴を踏んで立ち止まった。そういったやりとりを、アリエイラは遠い世界のように聞いていた。
「アリィ、アリィ」
魂を揺さぶる声に彼女はやっと目を開け、朦朧としながらヒスファニエを探す。
ああ。あそこに、彼がいる。必死に、私を呼んでいる。
「迎えに行く。必ず、迎えに行くから、待っててくれ」
アリエイラは微笑んで小さく頷いた。
彼は絶対に迎えに来てくれる。それを彼女は素直に信じたのだ。
彼女は彼だけを見ていた。現実とは思えない酷い世界の中で、彼の存在だけが彼女の心のよりどころだった。
だが、ラファエラ王子はアリエイラと体の位置を置き換え、視線を遮るように身を置いた。
「見るな!」
殴りつけられる。
それでも、アリエイラはヒスファニエを探した。船に乗せられ、船室に閉じ込められるまで。いつまでもアリエイラを見ていてくれる彼の姿を、追い求めたのだった。
ヒスファニエ視点 「別れ」4