15
彼は神殿へ入って彼女を降ろすと、朝に開け放した明り取りの窓をすべて閉めてしまった。最後に大扉も閉めてしまう。すると中は暗闇となり、正面の丸窓から射し込む光だけが帯となって現れた。
その前に二人は並んで跪き、握り合った手を光の中へさらした。
「私、ヒスファニエ・ユースティニアは、神から賜りし娘アリィを妻とし、いついかなる時も彼女を愛し、敬い、命を懸けて守り、命あるかぎり共に生きることを誓います」
彼女は彼のあまりに破格な誓いに胸を衝かれ、思わず彼の手をぎゅっと握り返した。
神々の王、創世の神セレンティーアは、唯一絶対の至高神であり、その神との誓いは、最も神聖で厳粛なもの。
それを破れば魂には黒い傷が刻まれると言われている。それは生きている間には見えなくても、肉体を脱ぎ捨てればあらわとなり、神からそれ相応の報いを受けることになるのだと。
故に、人々は必ず誓いに抜け道を滑り込ませる。例えば、「彼女への愛がこの胸の内にある限り」などと。つまりそれがなくなれば、誓いに対する義務がなくなるように、言い繕うのだ。
特に王ともなれば、政局が変われば妃さえも取り替えなければならなくなることもある。その時に、王が誓いに縛りつけられないようにと、結婚の宣誓のみを行うのが常だった。
それを彼は、言い逃れのできない形で、誓いをたててしまった。
彼女は喜びよりも、まず恐ろしさを感じた。彼が彼女のせいで神に罰を受けるかもしれない、と。
また、彼に一生愛され続けるような女性にならなければいけないと、重責に身が強張る。
次いで、ああ、でも、彼はいつでもそういう人だった、と思ったのだった。アリエイラのために、何かを惜しむような人ではなかった、と。
わかっていたはずなのに、彼にあんな誓いをさせてしまった。後悔と焦燥に苛まれて、アリエイラは言葉が出てこなかった。次は彼女の番なのに、焦れば焦るほど喉が詰まって、頭の中が真っ白になっていく。
その時、手が強く握り返された。互い違いにされた指が絞められ、痛いくらいに。
掌がこすれ、疼きが全身に伝わる。そして、そこから熱が注ぎ込まれ。
あ、と気付く。彼に愛されている。それを知ってはいたけれど、本当にはわかっていなかったと、目の覚めるような思いで。
彼は、彼の生涯を、いや、死後も続く魂すら懸けるほどに、アリエイラを愛してくれていると言ってくれた。それをまさに今、神にまで示してくれたのだ。
アリエイラは、何度目だろう、彼と出会ってから時々囚われる、嬉しいのに無性に泣きたくなる衝動に駆られた。
ずっと、自分を彼に相応しくない女性だと思ってきた。小柄で非力で、放り出されれば一人で生きていく知識も力もない。その上、『英雄の娘』でも、ブリスティンの次期王妃でもない、ただの娘。そんな娘が彼の傍にいて、何の役に立つというのか。
けれど、アリエイラが彼に相応しいか否かを決めるのは、彼女なのでも、他の誰かでも、神ですらなく、それは彼自身なのだった。
その彼は、今のアリエイラを、何一つ持っていない、素のままのアリエイラを、魂懸けて愛してくれている。
そこまで思い至って、気負って強張っていたアリエイラの心が、ふわりとほどけていった。
彼女は初めて、自分を好きだと思えた。彼が、ただまるごと愛してくれる、ありのままの自分を。そして、この命を大事にしたいと思った。
アリエイラが死んだら、彼は絶対に泣く。引き離されたら、必死で探してくれる。なのに、アリエイラが先に諦めて、どうするのだ。
愛する彼の傍にいたい。一時も離れず、命ある限り。いや、本当は命を失っても、この魂が存在する限りはと願うほどに。
だからもう絶対に、諦めたりしない。
アリエイラは思いそのままに、誓いを口にした。
「私、アリエイラ・ブリスティンはこの名を捨て、神がヒスファニエさまに与えられた妻として生き、彼を生涯ただ一人の夫とし、命あるかぎり彼を愛し、添い遂げることを誓います」
彼はアリエイラを見なかった。アリエイラも彼を見ない。これは神にたてる誓いであり、この光から目を逸らしてはいけなかった。
けれど、確かに心が重なっている。光に照らされた繋ぎ合わされた掌を通して、まるでお互いの魂まで触れ合っているかのように。
「我が神よ。セレンティーアよ。我らが誓いを聞こし召し、見そなわし給え。我ら御大神の僕、この誓いに背くことは決してありません。どうか我らの誓いに慈悲と祝福を願い奉り申しあげます」
彼が祈りを捧げ終わると、二人は揃って額突いた。そして、充分に礼を尽くすと、頭を上げて、そこでやっとお互いを見遣った。
「俺のアリエット」
なんて愛しげな瞳と声だろう。アリエイラは彼の愛に満たされて、微笑んだ。
「はい。ヒスファニエさま」
「誓いはたてられた。君は、俺の妻だ」
「はい。…はい」
アリエイラは感極まって、涙声でそう答えるだけで精一杯だった。ところが彼は、ふっと笑って、さらに難題を口にした。
「夫とは呼んでくれないのか?」
しかも握ったままの手の指を動かし、まるで催促するように彼女の手をくすぐってくる。
アリエイラが『俺の妻』と言われて嬉しいように、彼もまた、彼女に夫と呼ばれたがっているのだった。
彼女は、くすりと笑った。アリエイラよりも、心も体も大きい人なのに。王になろうという人なのに。なんて可愛い人なのだろう、と。
彼は期待に満ちた様子で、彼女の答えを待っている。彼女はいっそう幸せそうに微笑んで、万感の思いで彼にはっきりと囁いた。
「我が夫、ヒスファニエさま」
彼の顔が歓喜に輝く。彼が喜んでくれて、アリエイラも心底から嬉しかった。彼女の瞳から、とうとう涙が零れ落ちた。
彼が唇を寄せ、涙を吸い取ってくれる。そうしながら、満足気な溜息に似た返事をしてくれる。
「ああ。アリィ」
涙を追って顎まで辿った唇は、すぐに彼女の唇をついばんだ。
アリエイラはそれを受け入れ、そのまま彼に乱されていった。
小屋の寝藁の上に横たえられ、彼が額や耳や首筋にキスしながら、ハルファの花を抜き取っていく。一つのキスに、一つの花。それごとに、アリエイラの中に、なんとも言いがたい火が灯っていく。
「ん」
彼女が吐息を洩らせば、いっそう甘やかに施される。
それが途切れて、彼に目を覗きこまれた。彼女はぼんやりと彼を見上げた。
「俺の、ものだ」
狂おしい色に濡れた瞳で囁かれる。
「ずっと、君を、散らしたかった」
彼が近付いて、唇に唇が落ちてくる。俺の花、と、声が直接彼女の中に吹き込まれる。
彼が肌を重ね、ほんの隙間もなく彼女の全身に触れていく。彼女もまた、彼を求めてすがる。
そう。私はあなたのために咲く花。あなただけに散らされる花。
あなたに、なにもかもあげたい。心も、体も、命も、魂も、私を形作るものすべて。
そして、少しでもあなたの力になりたい。あなたを癒してあげたい。
あなたのために、生きたいの。
破瓜の痛みも越えて、アリエイラを満たす温かいものに、これ以上ない幸福感に包まれる。
「ヒスファニエさま」
彼女は夢中で何度も彼の名を呼んだのだった。
何度目なのか、うとうとしては抱き合い、揺らされ、夢と現の狭間を漂うかのように、彼に翻弄された。
そうして彼を受け入れながら、ふいに、自分が女に生まれた理由を悟った。
ああ、そうだったのかと納得すれば、とめどなく涙があふれだした。
彼は突然のことに驚いて、彼女を抱き締めておろおろとしていた。痛かったのかとか、嫌だったのかとか、何か気に障ることをしたかとか。
その可愛くも優しい見当違いが愛しくて、彼にしがみついて、広い胸に頬をすり寄せた。
「アリィ。なぜ泣く。俺はどうしたらいい。どうして欲しい。教えてくれ。頼む」
彼の方が辛そうに、そんなことまで言う。彼女の心臓が、甘くきゅっと縮まった。
「なにも。なにもしてくださらなくて、いいの。あなたの妻になれて、嬉しいの」
すると、彼がアリエイラの体を強く強く抱き締めた。少し、痛くて苦しいほど。そのまま彼は仰向けに転がり、彼女を上にのせて、頭から背中を幾度もいたわるように撫ぜてくれた。
アリエイラの全身から力が抜ける。いつのまにか涙は止まっていた。彼の体に全体重をあずけ、彼女はぽつりぽつりと語りだした。
「ずっと、ずっと、どうしたらいいのか、わからなかったの。みんな、ユースティニアが憎いだろうと言うの。みんな、父の仇をいつかとってやろうと言って、母や私を慰めてくれた。でも、私は父がいなくなって悲しいだけで、どうやって憎めばいいのかわからなかった。憎いだろうと言われる度に、そう思えないのが、すごく薄情な酷い子供のような気がして、いたたまれなかった。なぜ憎めないんだろうって、たくさん考えた。きっと、女なのがいけないんだって。他の女の人に比べても小さくて、力もなくて、剣なんかとても振るえなくて、もし憎んでも、戦うことなんてできないから、憎めないんだろうって。だから、男に生まれたかったって、思ってた。王太子を、ごめんなさい、あなたのお兄さまを、殺した英雄の子として、恥じずにすむ子供に生まれたかったって、思ってた」
彼の兄のことを口にして、アリエイラは躊躇った。それはあまりにデリケートな話題だったから。けれど彼は、わかっているというように、彼女の背中を軽く叩いてくれた。
「いいんだ。俺も、もう憎しみの正体がわからなくなった。確かに君の父親は俺の兄を殺した。でも、俺の叔父が君の父親を殺したんだ。敵だから、憎んでいるから殺しあって、また憎しみをつのらせて、殺すのか? 敵がいる限り、この憎しみは消えない。だったら、完全に滅びるまで殺し合いを続けるのか? そんなことを続けて、何になるというんだ?」
アリエイラは頭をもたげて、彼の顔を見た。誇らしい、確かな予感があった。
「ヒスファニエさまは、絶対に立派な王になられます」
「うん」
彼は力強く頷いた。怨讐を越えた彼は、きっと、新しい、よりよい未来を切り拓いてくれる。
彼こそは、神に選ばれた王の中の王なのだと、彼女は思った。
彼は微笑んで、彼女の体を引っぱり上げた。頭を起こして口付けようとしてくれるが、少し距離が足りなかった。それがひどくもどかしくて、彼女から初めて彼へと唇を寄せた。
お互いの存在を確かめるような、穏やかで長いキスだった。途中で無性に彼が見たくなって、アリエイラは唇を離し、彼の瞳を覗きこんだ。どうしても、涙の理由を彼に伝えておきたかった。
「あなたに抱かれて、思ったの。あなたが男だから、私は女に生まれたんだって」
彼は破顔して応えてくれた。
「そうだ。君を愛して守るために、俺は生まれたんだ」
アリエイラは笑った。まるで大輪の花のように、美しく喜びにあふれた笑顔だった。
ヒスファニエ視点 「出会い」12、13