4
それから3日は無我夢中の日々だった。
彼女は体が温まってくると、今度は高熱を出し、熱いといっては枯れ草を蹴散らかしたり、そうかと思えば寒がったり。汗で張り付いた草が痒いだの痛いだのとしくしく泣き、結局彼女の服とヒスファニエの服を、汗で濡れるたびに交互に着せては洗って干した。その上、食べ物は体を抱えて支えながら、一口一口吹き冷まして、口まで運んでやらなければならなかった。
そんなわけで、4日目の朝、突然彼女がむっくりと起き上がったのに驚きつつも、ヒスファニエも眠い目をこすりながら起き上がった。
「どうした。腹がへったか?」
胡坐をかいて欠伸しながら、彼女の髪に手を差し入れて、寝癖をなでつけてやる。
「いえ、あの、外、に」
「外?」
「外で」
と言ったきり、恥ずかしそうにしているのを見て、もしかして、と思いつく。
「わかった。行こうか」
体を抱き寄せ、腕に乗せて立ち上がる。彼女は小さくて、不安になるほど軽い。熱でほとんど食べられなかったから、更に痩せてしまっていた。
「いいえ、いいえ、いいえ、けっこうです! 一人で、行けます!」
ヒスファニエの肩に手をついて、一所懸命突っぱねている。が、ものすごく、信じられないほどに非力だった。
「ぜんぜん力が入ってないだろう。今更遠慮するな。連れて行ってやる」
「遠慮じゃありません。本当に、けっこうです!」
必死に声を張り上げる姿に、ヒスファニエは安堵がこみあげてきて笑った。
「元気になったなあ」
よしよし、と抱えている手で背中をこすった。彼女は急におとなしくなると、うなだれた。
「なんだ、どうした。まだ体が辛いのか」
尋ねても、なんでもないと首を振るばかり。言わないものを根掘り葉掘り聞いてやるほど、ヒスファニエは親切な性格ではない。それならそれでいいと、勝手に彼女を連れて外に出た。
この島に、用を足すための専用の施設はない。俺はあの辺でするから、君はこの辺にしろ、と適当に案内した。彼女を地面に降ろしてやると、案外しっかりした足取りで茂みの奥へと歩いていったのを確認して、踵を返した。
厨に戻って、まず火を熾し、次に窓を開けた。泉にも水を汲みに、と思って桶を取り上げたところで、外に彼女がいるのを思い出し、今はまずいか、と所在無く立ち止まった。
彼女がこれだけ元気になったなら、今日は一人にして、遠出してきてもいいかもしれないと考えをめぐらせる。
海岸の船の破片をあのままにしておくのはまずい。全部拾ってきて、燃やす必要があった。迎えが来た時に、彼女がブリスティンの姫だと知れたら面倒なことになる。あれさえなければ、記憶がないことにでもして、神からの賜り物を、ただ預かっていただけだと押し通せるだろう。
その前に、彼女に自分の素性も話して、口裏を合わせるように諭さなければならない。それとも、もう彼女は気付いているのだろうか。
ヒスファニエは、肩口から自分の背中へと手を滑らせた。触ったところでわかりもしない、そこにあるはずの、自分では見たことのない刺青を探したのだ。
扉が開いて、彼女が戻ってきた。
「大丈夫か」
ヒスファニエは手を下ろして彼女に聞いた。
「はい」
彼女は扉を入った所で立ったまま、厨の中を、迷ったように見まわした。
「まだ横になっていろ。俺は水を汲んでくるから」
外に出ようと近付いて、桶を少し持ち上げて示す。だが、彼女は突然、扉の前で跪いて、胸の前で作った拳を顔の前まで持ち上げ、最敬礼をとった。
「助けていただいて、ありがとうございました。たいへんお世話をおかけしました。このご恩は一生忘れません。必ずご恩に報いることを誓います」
至極まじめに言っているのはわかったが、正直嬉しくなかった。あんなに為すがままで可愛かったのに、急に一線を引かれたようで、おもしろくない気分になった。
ヒスファニエはしゃがんで、ぎゅうっと握っている小さな両の拳を片手で包んで、そっと下げさせた。
「礼なら神に言えばいい。俺は神からの賜り物をありがたくいただいただけだ。自分のものを大事にするのは当たり前だろう。俺は君に恩を感じてもらうほどのことはしていないよ」
気にすることはない、それを伝えたかっただけなのに、それを聞いた彼女は泣きそうな顔になった。震える声で、謝罪を口にする。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。遠慮もするな。俺の物だと言っただろう。もっと元気になってもらわなければ、俺は満足できないぞ。元気になるまで、しっかり甘えてろ」
彼女はきつく目をつぶって、横に激しく首を振った。
「違うんです。ごめんなさい。私、私は、ブリスティンの者なのです。あなたは、ユースティニアの方なのでしょう?」
やはり気付いていたようだ。男児が赤ん坊のうちに背中に施される魔除けの刺青は、島ごとに異なる。仇敵のものともなれば、たとえ女であっても、知らないわけがなかったのだ。
迂闊にも、それを忘れていた。刺青は当たり前のもので、しかも自分からは見えない場所にある。そのことに思い至ったのは、昨夜、彼女がやっと一人で食事をして、それだけで疲れてへたりこんで眠りに落ちたのを、きちんと寝藁の上に寝かせ直してやった時だった。肌蹴て見えてしまっている首から背中を、襟元を直して隠してやりながら、己の背中の刺青を思い出して、ぎょっとしたのだ。
祈るような気持ちで、女である彼女が刺青の判別ができなければいいのにと願っていた。もう今更隠したところで、どうしようもないほど遅すぎた。それまでの間に3日も、彼は上半身裸で過ごしていたのだ。そして、もちろん今も。彼の上着は、今、奇しくも彼女が着ていた。
自分の間抜けさを呪っていると、彼女はどうとったのか、ヒスファニエの手から慌てて自分の手を抜き出し、自分の帯をほどき始めた。
「これ、お返しします」
「脱ぐな」
「で、でも」
「昨日、干したまま取り込み忘れた。きっと朝露で湿ってる」
「それでいいです」
「子供でも、男の前で服を脱ぐな」
少しきつめに言い聞かせると、彼女は、びくりと体を震わせて固まった。その頭を、ぐしゃぐしゃと撫ぜてやる。
「ユースティニアの男だって、女子供をどうにかするほど残酷じゃない。それに、俺は知ってて君を拾ったんだ。一緒に流れ着いた船体の破片に、ブリスティンの魔除けの目が描かれていたから」
手の下でしおれている彼女の様子に、苦笑が漏れる。
「海から流れ着いた物は、すべて神からの賜り物だ。君が誰でも俺にとっては賜り物だ。一生恩に着る気があるのなら、賜り物らしくふるまえ」
彼女が上目遣いで見上げてくる。
「賜り物らしく?」
「そう。ここにいる間は、君は俺の養い子だ。子供らしく甘えろ」
また彼女は泣きそうな顔になった。ヒスファニエは髪に突っ込んでいた手を頬に滑らせた。親指で挟むようにして目の下をさする。本当に涙が零れてきそうだ。彼は焦って言葉を紡いだ。
「いや、甘えてくれ。甘やかしたいんだ。こう、なんというのか、かわいくって、楽しいんだ。あー、いや、ほら、妹とか、弟とかいなかったから、新鮮というか」
彼女はぽかんとして、彼を見詰めた。その眦から涙が一粒ころげ落ちた。ヒスファニエは思わず洩らしてしまった本音に恥ずかしくなって、顔をそむけた。
自分で言っておきながら、なんだそれは、と思った。確かに子供の頃に、妹か弟が欲しいと思ったことはあった。ヒスファニエは末っ子だ。死んでしまった兄や、嫁に行った姉たちにはよくかまってもらったが、だからこそ自分が面倒を見る下の子が欲しかった。だけど、大人になってまでこだわることではない。
兄を思い出し、ふっとブリスティンに対する、恨み、憎しみが胸の内で渦巻く。戦で兄が死んだのは、もう十年も前になるが、未だにその悲しみも悔しさも癒えはしない。
それでも、目の前の彼女に恨みを晴らそうとは思えなかった。ヒスファニエにとって彼女は、彼女が名乗ったように、ただの『アリィ』でしかなく、他の何かではなかった。
「妹、ですか?」
長い沈黙と凝視の後に聞かれたそれに、ヒスファニエは横を向いたまま答えた。
「嫌でなければ」
今度は短い沈黙の後に、独り言ともとれる呟きが聞こえた。
「では、ファー兄さま、とお呼びした方がよいのでしょうか」
その可愛らしい呼び声に、思わず彼女に視線を戻す。彼女は問いかけるように小首を傾げた。
「それでいい、アリィ」
出会ってから二度目の彼からの呼びかけに、彼女はくすぐったそうに笑ったのだった。
アリィ視点 「誘惑」2、3、4