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君に会いに  作者: 伊簑木サイ
アリィ編
39/44

   14

 翌日から毎朝神殿へ行き、祈りを捧げるのが二人の日課になった。

 ただ、アリエイラはもう、神に願うことはなかった。

 本当は、たくさん願いたいことはある。できるならば、この神殿島でこのまま暮らしていければ、それが一番よかった。

 二人きりで、他の誰にも煩わされないで、いつまでも愛して、愛されて、飢えることも、老いることも、病にかかることもなく、末永く幸せに暮らしたい。でも、そんな浮世離れした願いなど、叶うはずもない。

 彼は王になる人間であり、アリエイラごときが独り占めできるような存在ではなかった。でも、どうしようもなく、そんな彼を愛していた。

 だから、アリエイラは諦めた。彼を独占することを。穏やかな毎日を。そして、自分の命も。

 彼についていって、ユースティニアの地で、どれほど彼といられるかわからない。そのまま引き離され、彼の顔も見れないままに死ぬのかもしれない。短い寵愛で、後はひっそりと後宮の隅で、死んだのも誰にも知られないまま消えていくのかもしれなかった。

 それでかまわなかった。神に願ってまで、彼の心を歪めて縛ろうとは思わなかった。

 ただ、ひとときだけでいいから、彼自身に、真実、愛されたかった。

 神に願ってしまえば、これが彼の本当の気持ちなのか、神の慈悲なのか、いつも疑うことになるだろう。そんな愚かな女にだけはなりたくなかった。

 アリエイラには彼しかなく、そして、彼女が彼にあげられるものも、この思いしかなかった。ならば、アリエイラにできるせいいっぱいで、純粋で綺麗な強い、そういう思いで彼に向かいたい。

 そして、少しでも、彼の中にアリエイラが残れば。

 彼女は神の御前に跪く度、ただ感謝を捧げた。

 彼と出会えたことを。彼を愛し、愛されたことを。

 迷いはなかった。

 彼女はそれだけを、繰り返し祈りに込めたのだった。


 アリエイラは月のものが終わった夜、彼をまっすぐ見つめて伝えた。

 私をヒスファニエさまの妻にしてください、と。

 彼は優しく微笑んで、彼女の髪に触れ、梳き下ろした。

「では、明日、身を清めてから神殿に行こう。神にこの結婚をご報告申し上げ、誓いをたてよう。二人だけの結婚式となるが、いいか?」

 思ってもみなかった申し出だった。誰にも認められない、祝福されない結婚だと思っていた。

 ああ、でも、神と私たちだけは、この結婚を寿ぐ。それ以上、どんな祝福が必要だというのだろう。

 彼女は泣きそうに笑って頷いた。幸せで胸がいっぱいで、痛いくらいだった。気持ちがあふれかえって揺れる。言葉にならないそれを、彼も抱えて瞳を揺らすのが見てとれた。

 そのまま、どちらからともなく身を寄せあって横になった。明日のために、静かに眠りにつく。

 うとうととし始めた時、彼女はふと思いつき、一つ深く息を吐いた。ブリスティンのアリエイラ。その名も今夜限りなのだ。

 重いだけの名だった。アリエイラにとっては、偽りだらけの、まるで仮面のような名前。やっと、それを捨てられる。

 本当の自分を生きられる。彼の傍で。

 彼の胸にすり寄る。彼が応えて、もっとしっかり抱き寄せてくれる。

 愛していますと、アリエイラは心の中で呟いた。


 翌日は朝からアリエイラも彼も言葉少なだった。目が合うと、言葉より先に微笑が浮かび、そのまなざしだけで、心が伝わり、胸がいっぱいになる。

 彼が湯の準備をしている間、彼女は小屋の中を掃除し、日の当たる軒に吊るしておいた新しい寝藁へと変えた。寝藁の中に、一緒に干しておいた『花嫁の花』ハルファを混ぜ入れた。ほのかに甘い香りがする。

 今日、ここで、彼と、と、そこまで考えただけで、顔から火を吹きそうなほど彼女は赤くなった。

 それより先は経験したことのない未知のもので、一応、無知で間違いが起きないようにと簡単なことは教えられていたけれど、それでもやはり想像が追いつかない。

 彼女は頭を振って、すっくと立ち上がった。泉へと行き、ハルファの木に詫びてから、その枝をいくつも折り、小屋へと持って帰った。それをさらに短く分け、葉をのぞいておく。

 そうしているうちに、彼が湯が沸いたと呼びにきた。髪を結うのに時間がかかるから、彼女から先に入るようにとのことだった。

 どこもかしこも手早く、しかし念入りに洗い、彼と代わった。そして、彼が入っているうちに、(かまど)の前でなるべく髪を乾かして、少し湿った状態で、細い縄や、先ほど分けたハルファの花がついたままの枝を簪代わりに使って、髪を纏めあげた。

 唇を噛み、頬を軽く叩いて、血色を良くする。

 ここに鏡はない。少々出来映えが不安だったが、これが彼女のできる精一杯だった。

 襟元を直し、帯を締めなおし、意味もなく裾を払う。それから、浴室へ向かった。

 小屋からいくらも行かないうちに、彼が坂を上ってくるのに出会った。彼はアリエイラを認めると、目を見開いて足を止めた。じいっと穴が開きそうなほどに見つめてくる。だいたい、彼と目が合うのすら、嬉しくはあっても本当は恥ずかしいのに、そんなにされたら、いたたまれない。彼女は思わずうつむいてしまった。

 いつまでたっても声もかけてくれない彼に、そんなにこの格好はおかしかったかと、不安になってくる。みっともなくて、愛想をつかされたのかもしれない。

「おかしいですか?」

 自分の爪先を見たまま、思いきって聞いてみる。足音がして、急速に声が近付いてきた。

「いや。とてもきれいだ」

 視線の先に彼の足先が見え、それが立ち止まった。次いで、髪にそっと触れる感触がある。

「この花の香りは知っている。なんという花だ?」

「ハルファといいます」

 アリエイラは反射的に答えながらも、心臓を抉られるような痛みを感じた。

 彼は4人の妃が決まっていると言っていた。もうその何人かと婚姻しているのかもしれなかった。きっとその時に、この香りを嗅いだに違いない。

 彼の妃に選ばれた人たちだ。どの人も、貴い血筋の立派な方たちなのだろう。

「どうした?」

 優しく頬を撫ぜられる。

 そろりと彼を見上げれば、気遣わしげな表情をしている。そんな彼を、自分のくだらない嫉妬で煩わせたくなくて、微笑んでみせた。

「なんでもありません」

 すると目を細め、怖いような鋭さを増した彼に、くいっと顎を持ち上げられ、突然唇を重ねられた。そのまま性急に、荒々しい情熱的な口付けをされる。

 アリエイラはたどたどしくも素直に応えた。求められれば嬉しい。彼女もいつでも彼を求めてやまないのだから。

 彼に何人妃がいようと、これから何人娶ろうと、今は、アリエイラだけ。今だけは、彼はアリエイラ一人のものなのだ。彼女はその思いに酔い痴れた。

 彼の大きな手が、もっとというように、彼女の小さな頭をかき抱く。が、彼は、はっとしたように、急に彼女から離れた。

「花嫁の花か」

 それにアリエイラは我に返り、あまりの恥ずかしさに、顔を強張らせて目をそらした。

「ごめんなさい」

 こんななんの取り柄もないみすぼらしい娘が、彼を自分だけのものだなんて。彼の『花嫁』だなんて。なんて思い上がった仕度をしてしまったことか。

「なにを謝る?」

 そんなこと、言えるわけもなかった。ただ横に首を振り、髪に挿した花々を引き抜こうと、手を伸ばした。

「なにをしているんだ。よく似合っているのに」

 手を止められ、驚いたように言われる。

 彼は優しく、心が広い。私はそれに付け入るようなまねをしてしまった。

 後悔と惨めさで、アリエイラの鼻の奥がつんと痛んだ。泣いてはいけない。これ以上、みっともなくなりたくない。彼女は頑なに身を強張らせた。

 その体を、彼が広い胸に抱きとめてくれる。身動きもできないほど、強く。

「引け目に思うことはない。君は俺が心から望んで妻にするんだ。君が俺のために花嫁の装いをしてくれて、とても嬉しい」

 熱い息が耳と首筋にかかった。その声は切実で、彼が示してくれる愛情に、アリエイラの体から力が抜けていった。

 私はなにを嫉妬していたのだろう。確かに、彼の心は、私の上にあるのに。

 彼に身をあずければ、力強く抱き上げられた。彼の腕の中で、吐息がかかるほど間近で、狂おしい色を秘めた瞳で見つめられる。

「神の祝福を受けに行こう」

 アリエイラはこくりと頷いて彼の胸元に顔を伏せた。そうでもしないと、心臓が壊れそうに高鳴って、苦しかったのだ。

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