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君に会いに  作者: 伊簑木サイ
アリィ編
38/44

   13

 アリエイラは夢中で彼を感じていた。あまりの恍惚感に熱で浮かされたようになって、心の求めるままに彼の名を呼ぶ。

「ファー兄さま」

 すると彼は唇を離して、すぐ近くで見つめてきた。彼の瞳は熱く、表情はぞくりとするほど色っぽかった。

 アリエイラはそれに囚われてしまいたかった。離さないで欲しかった。もっと彼を感じたかった。

 なのに彼は見つめるばかりで、触れてくれない。彼女は焦れて、もう一度彼を呼んだ。

「ファー兄さま?」

 彼は、くっと切なそうに眉をしかめて、突然彼女を抱き寄せ、そのまま上へと抱き上げた。その不安定な動きに、彼女は思わず体をすくめる。

「外に行こうか」

 まるでアリエイラの重さなど感じないかのように、大股で歩き出す。そうなってしまえば、もう怖くはなかった。彼女は体の力を抜いて、彼に身をまかせた。

 大きな手で覆うようにして頭を押し付けられた彼の胸から、とても速い鼓動が聞こえる。それはアリエイラのものと同じで、同じ気持ちを共有しているのだとわかる。

 彼女は満たされた気持ちで、それを聞いていた。


 彼は緑滴る中を歩いていった。彼の一歩ごとに、木漏れ日がちらちらと眼前を過ぎる。清涼な空気と神の恵みにあふれた森は、浮かされた熱を鎮めてくれたが、そのかわり、彼に対する恋慕がくっきりと浮き上がってくるようだった。

 やがて、彼は小さく開けた場所にある倒木の上に、アリエイラを降ろしてくれた。足元の陽だまりに丈の低い花々が咲いている。美しい所だった。

 彼も隣に座り、膝の上に置いていたアリエイラの手を握った。彼はなぜか、神殿を出てから彼女を見てはくれなかった。今も目の前の光景に視線をそそいでいる。その表情はどこか固く、アリエイラは胸に不安が広がるのを感じた。

「俺の名は、ヒスファニエ」

 彼が口にした音に、彼女の心臓が跳ねた。彼の名前が、やっと知れた。嬉しさにほころんだ口元は、次の瞬間、凍りついた。

「ヒスファニエ・ユースティニア。……ユースティニアの王太子だ。ここへは、王位に就く資格を得るために、試練を受けに来た」

 ユースティニアの王太子?

 嘘。

 まっすぐ前を見る硬質な彼の横顔は、甘い願いを寄せつけてはくれなかった。アリエイラは嘘ではないのだと、悟らざるを得なかった。

 なぜ。どうして。そんな言葉しか頭の中に浮かばない。アリエイラにとって、この世でもっとも手の届かない人物。それが彼だなんて。

 ブリスティンの王妃に推された娘と、ユースティニアの王太子。それだけでもとても近づける間柄ではないというのに、彼女は彼の仇の娘だった。

 十年ほど前にあった両国間の戦争で、彼女の父が殺したのは、当時の王太子、彼の兄だった。復讐は絶えることなく血筋の続く限り受け継がれる。父亡き今、アリエイラこそが、彼の仇なのだった。

 彼は王になるのだ。その血に伝わるものだけでなく、国にまつわるすべてを受け継ぐ人間だ。たとえアリエイラがこの名も祖国も捨てようと、受け入れられるわけがなかった。

 もしも己の名を隠して彼についていったとしても、いつか必ず、どこかから彼女の正体がばれるだろう。その時、己の命がないのもわかっていた。

 彼の国の者によって殺されるか、それとも、彼自身に殺されるのか。

 それも、アリエイラがただ死ぬだけならいい。けれどきっと、彼の名に拭いようのない汚れをなすりつける。それだけは、絶対にしてはならなかった。

 アリエイラには、己のしなければならないことがわかっていた。真の名を告げ、彼の手を煩わせることなく、自分で命を絶つべきだろう。

 彼と共に生きられないなら、それでかまわなかった。むしろ、そうしたかった。

 胸が張り裂けそうに痛かったが、悲しいのかなんなのか、よくわからなかった。アリエイラは、ただ呆然と涙を流し続けた。


 涙に濡れた冷たい頬を、何か温かいものが包んだ。視界に、彼の顔が映りこむ。視線が合うのに耐えられず、彼女は目をつぶってしゃくりあげた。彼のまなざしが変わってしまうところを見たくなかった。

「アリィ」

 彼が心配そうに何度も呼びながら、慰めるように頭や腕をなでる。そのうち、躊躇いがちに、謝りだした。

「すまない。迂闊なことをした。君を傷つけた。本当に、すまなかった」

 なぜ謝るのだろう。何を謝っているのだろう。アリエイラは不思議に思った。彼の声に耳を澄ます。

「……嫌なら、二度としない。君の望まないことはしない」

 アリエイラは、かっと頭に血を上らせた。

 この人は、さっき、私にキスしながら、いったい何を感じていたのだろう。幸せだと思っていたのは、私だけだったというのだろうか。

 唇を噛んで、彼を睨みつけた。両手でパシンッと彼の手を振り払う。そして叫ぶ。

「私の父は、王弟アフル・ユースティニアに殺された!」

 彼が目を瞠った。

「父の名はラダト・ブリスティン。当時の王太子を殺した将軍」

 その名に、彼はわずかに憎しみを面に浮かべた。

 ああ。やはり。

 アリエイラは冷水を浴びせかけられた心地でうつむいた。最後に呟くように告げる。

「私は仇の娘です」

 自分で言った決定的な言葉に、さらに涙があふれだしてきた。

 もう終わり。彼に憎まれて終わるなんて。それが辛くてたまらなかった。

「だから?」

 突然響いた、冷たい彼の声に、ビクリと震える。

「だから君を憎むと? 君は? 君はそれで、俺を殺したいと思ったのか?」

「そんなわけ」

 ない。アリエイラは跳ねるように顔を上げた。険しい顔で睨みつける彼の視線とぶつかる。彼女はすぐにまた下を向いた。

 怖かった。彼の怒りも、憎しみも。彼のためなら命も惜しくないと思っていたのに、いざ身の危険を感じれば、逃げ出したいとしか感じられなくなる。彼が本気を出せば、アリエイラなどひとたまりもない。恐ろしさに体がすくんで、彼女は動けなかった。

 じっとりと時が過ぎていった。アリエイラは、息を殺して、ただ泣いているしかできなかった。

「すまない」

 ふっと、先ほどまでとは打って変わった声が耳朶を打った。彼の気配が動き、倒木から下りて、アリエイラの前に来る。

 視界に彼の膝が現れ、触れそうな位置で下についた。体の大きな彼が身を屈め、彼女の両手を包み込むように優しく握って、下から顔を覗き込んでくる。

「お願いだ。俺のために国を捨ててくれ」

 アリエイラは驚きに目を見開いた。何を言われているのかわからなかった。

「名を捨てて、ただのアリィとして俺の傍にいてくれ」

 真摯な瞳だった。まっすぐに彼女をとらえ、けっしてそらそうとしない。そこに憎しみは見られなかった。確かに彼女を思ってくれている、それがあるだけだった。

 それでもアリエイラは突然のことに受け入れられず、皮肉な気持ちで苦笑した。

「許されるわけがありません」

「それでも」

 離すまいと強く手を握り、彼は夢のような勝手を重ねて言う。

「正妃さまがいらっしゃるのでしょう?」

 成人した王太子に、いないわけがない。アリエイラは淑やかに揶揄した。

「候補が」

 彼は隠しも躊躇いもしなかった。アリエイラは正妃にはなれないと、他の女に触れ、これからもそうするのだと、告げる無神経さに、ずくりと嫉妬の炎が身の内で燃え上がる。

 彼女はまるで不貞を暴くかのような心持で、さらに問い詰めた。

「側妃さまも?」

「3人決まっている」

 王侯貴族は多妻が一般だ。彼についていったとしても、幾人かの妻の一人にしかなれない。しかも、

「名もない、後ろ盾もない娘が、本当にあなたの傍にあがれるとでも?」

 後宮では、力無き者は生き残れない。比喩ではなく、そういう世界なのだ。それだけでなく、アリエイラは敵国の女だ。ありとあらゆる者が、それこそ端女でさえ、彼女の命を奪おうとするだろう。そこで、どう生きていけというのか。

「君は、この神殿島に、試練の期間に流れ着いた。神からの賜りものだ。神が俺に与え給うた、俺の最愛の女だ」

「そんなの」

 だからなんだというのだろう。そんな戯言を、誰が信じてくれるというのか。

 アリエイラは声を詰まらせた。そうであっても、彼の思いに胸をかき乱され、怒りに止まりかけていた涙が、再びあふれてくるのを止められなかった。

「では、なぜ、君はここにいる?」

 世界で最も神威強き聖域、神殿島。神の許しなく踏み入った者には、たちまちにして神罰が降ると言われるその場所に、なぜ、アリエイラはいられるのか。

 彼女は、都合のよい夢など見たくなかった。夢を見てしまえば、それが破れた時には、きっと耐えられない。だったら初めから、期待などしない方がましだった。

 彼女に同じ答えを期待する彼から目をそらす。けれど彼はそれを許さず、片手で彼女の頬を押さえ、無理に視線を合わせてきた。そして、ゆっくりと言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。

「俺の子を、生むためだ。次のユースティニアの王を」

 それは王妃の仕事だ。さっき、他の女を王妃にすると言ったくせに。どうやったら、

「そんな夢物語、うまくいくわけが」

 あるというの。

 どうして、そんな夢物語を見せようとするの。手の届かないものなんか、見たくないのに。

「うまくいかせる」

 こぼれおちた涙の向こうで、アリエイラがどれほど否定しても一歩も引かないまま、情熱を宿した瞳で彼が見つめていた。

 どこにも行かず彼の傍にいろと。このまま共に生きるのだと。

 二人は、ただ、それだけのことを望んでいるだけだった。

 どうしてそれが、許されないなんて、あるのだろう。

 たった一つきりの願いなのに。

 アリエイラは、それ以外のことは、本当はどれも瑣末なことなのだと気がついた。

 誰が許さなくても、どんな困難があろうとも、────たとえ、短い間しか、いられなくても。明日終わりになるとしても。一瞬でも多くこの人の『時』が欲しい。誰にも触れさないで、見せないで、いっそ自分だけのものにしたい。

 アリエイラは、己の業の深さを思い知って、苦しさに目をつぶった。

 彼は、こんな私を許してくれるだろうか。

「私、きっと嫌な女になります。あなたも()きれるほどの」

 独占欲にまみれて、嫉妬に狂って。

 アリエイラは自己嫌悪に呻吟した。なのに彼は、

「嫉妬してくれるのか?」

 場違いなほどに楽しげに聞いてきた。なぜ、からかうのか。彼女は本気で悲嘆していた分、憤りがわくのを止められず、彼を睨みつけた。

「嫉妬します! 今だって! あなたが他の女に触れるなんて、いや!」

 泣き声で叫ぶ。

 彼は満足気にアリエイラを見て、笑った。あははは、と豪快に声をあげて、笑ったのだ!

 アリエイラは、何かがぷつんと切れる音を聞いた。怒りのあまり、頭の中が真っ白になる。眦を吊り上げ、彼女に触れる彼の手を振り払おうとして、勢いよく立ち上がった。

「きらい! だいっきらい!」

 けれど、どんなに彼女が振り払っても、彼は彼女の手を強く握って離さない。

「いや。いや。いやっ」

 彼女は、そう叫んで暴れた。けれど彼に易々と引き寄せられて、腕の中に抱き留められてしまった。その大きな体で包み込んで、絶対に離さないとでもいうように。

 彼女の必死の、しかし彼にとってはささやかでしかない抵抗は、男の本能を煽るものでしかなかった。彼は耳元へ唇を寄せ、囁いた。

「愛しているのは、君だけだ」

 その色に濡れた声が脳髄まで届いた時、アリエイラは全身の血が沸きたったかと感じた。彼に与えられた熱に、体が蕩ける。体のどこにも力が入らず、くにゃん、となってしまう。

 彼はいっそう、隙間なく彼女を抱きしめ、あふれんばかりの思いを言葉にして、彼女にそそぎこんだ。

「アリィ、愛してる」

 アリエイラはもう何も考えられず、彼に身をあずけて、受け止めた思いを胸の内でぐるぐると反芻していた。

 それまでずいぶんと泣いたために、えっえっとしゃくりあげ、みっともなくも、鼻を盛大にすすりあげながら。


 アリエイラはぼんやりとしていた。そこにそっと、鼻へと柔らかな葉が当てられる。

「ほら、かんで」

 言われるままに従おうとして、直前で踏み止まる。我に返れば、葉を差し出しているのは彼で、そこへ鼻をかむなんて、とんでもなかった。

 とりあえず、葉を受け取ろうとするのに、彼はにっこりとしたまま、絶対にそれを渡してはくれなかった。あくまで物柔らかに、だけど有無を言わせぬ態度で、さあ、かんでいいんだよと、再三にわたってうながす。

 アリエイラは必死になって、いやですと訴えた。

 すると彼は、ますます妖しく笑みを深めて、首を傾げた。

「だったら言ってごらん。ヒスファニエの妻にして、て」

 な、な、な、なにをいってるの? アリエイラは目をまん丸に見開いて、見る間に真っ赤に全身を染めた。

 彼は優しくクスクスと笑った。そして、葉を渡してくれる。その時、チチチチ、と鳥が鳴きながら飛んでいき、彼はそれを追って彼女から目を離した。その隙に、彼女は急いで鼻をかんだ。

 アリエイラが葉っぱを倒木の向こうへ投げ捨てたところで、彼が視線を戻した。穏やかに話しかけてくる。

「月のものが終わったら、返事をくれないか」

「わ、わたし」

 アリエイラの気持ちは決まっていた。彼から離れられなどしない。それを伝えたいのに、涙の名残で息が乱れて、言葉が途切れてしまう。

 彼は、うん、と頷いた。

「わかってる。でも、良く考えてから返事をくれ。得るものだけでなく、失うもののことも考えて」

 そう言って、いつもと同じ、慈しみに満ちた目で、彼女の頭を撫ぜた。

「それまでは、俺は兄で、アリィは妹だ。もちろん、アリィが断ったとしても、君は俺の大切な妹に変わりはない」

 妹なんて、嫌だった。アリエイラは彼の恋人に、いや、妻になりたいのだった。そう言おうと口を開けば、彼は指を一本押し当ててきた。

 そして、ニッと悪戯に微笑む。

「さて、我が麗しの妹君にご提案したいことが。ここから少し歩けば、例の葡萄の園に行けますが。食いしん坊さん、ご案内してさしあげましょうか?」

 おどけた仕草と表情で、アリエイラを誘う。彼女は少し考えて、それを受け入れることにした。

 その方がいいのかもしれないと、アリエイラも少し頭が冷えて、思った。このまま言い張っても、勢い故の決断だったと、いつか彼に疑いを抱かせてしまうかもしれない。

 なにがあっても、この思いだけは彼に疑われたくなかった。ちゃんと彼に届けたかった。

 愛していると。傍にいたいと。

 だから彼女も、同じ調子で、澄まして言った。

「まあ、それは楽しみ。ぜひご案内くださいな、大食らいさま」

 うまく切り返せた。そう思ったのに、言い終わったとたん、ひゃうっとしゃっくりがこぼれる。彼女は思わず自分の口を押さえた。そのまま彼と目を合わせているうちに、なんだかおかしくなってくる。

 アリエイラは我慢できずに、笑って彼に抱きついた。彼もおおらかに抱き返してくれる。

 そうして二人は神の庭で抱き合いながら、無邪気に笑いあったのだった。

ヒスファニエ視点 「出会い」11

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