13
アリエイラは夢中で彼を感じていた。あまりの恍惚感に熱で浮かされたようになって、心の求めるままに彼の名を呼ぶ。
「ファー兄さま」
すると彼は唇を離して、すぐ近くで見つめてきた。彼の瞳は熱く、表情はぞくりとするほど色っぽかった。
アリエイラはそれに囚われてしまいたかった。離さないで欲しかった。もっと彼を感じたかった。
なのに彼は見つめるばかりで、触れてくれない。彼女は焦れて、もう一度彼を呼んだ。
「ファー兄さま?」
彼は、くっと切なそうに眉をしかめて、突然彼女を抱き寄せ、そのまま上へと抱き上げた。その不安定な動きに、彼女は思わず体をすくめる。
「外に行こうか」
まるでアリエイラの重さなど感じないかのように、大股で歩き出す。そうなってしまえば、もう怖くはなかった。彼女は体の力を抜いて、彼に身をまかせた。
大きな手で覆うようにして頭を押し付けられた彼の胸から、とても速い鼓動が聞こえる。それはアリエイラのものと同じで、同じ気持ちを共有しているのだとわかる。
彼女は満たされた気持ちで、それを聞いていた。
彼は緑滴る中を歩いていった。彼の一歩ごとに、木漏れ日がちらちらと眼前を過ぎる。清涼な空気と神の恵みにあふれた森は、浮かされた熱を鎮めてくれたが、そのかわり、彼に対する恋慕がくっきりと浮き上がってくるようだった。
やがて、彼は小さく開けた場所にある倒木の上に、アリエイラを降ろしてくれた。足元の陽だまりに丈の低い花々が咲いている。美しい所だった。
彼も隣に座り、膝の上に置いていたアリエイラの手を握った。彼はなぜか、神殿を出てから彼女を見てはくれなかった。今も目の前の光景に視線をそそいでいる。その表情はどこか固く、アリエイラは胸に不安が広がるのを感じた。
「俺の名は、ヒスファニエ」
彼が口にした音に、彼女の心臓が跳ねた。彼の名前が、やっと知れた。嬉しさにほころんだ口元は、次の瞬間、凍りついた。
「ヒスファニエ・ユースティニア。……ユースティニアの王太子だ。ここへは、王位に就く資格を得るために、試練を受けに来た」
ユースティニアの王太子?
嘘。
まっすぐ前を見る硬質な彼の横顔は、甘い願いを寄せつけてはくれなかった。アリエイラは嘘ではないのだと、悟らざるを得なかった。
なぜ。どうして。そんな言葉しか頭の中に浮かばない。アリエイラにとって、この世でもっとも手の届かない人物。それが彼だなんて。
ブリスティンの王妃に推された娘と、ユースティニアの王太子。それだけでもとても近づける間柄ではないというのに、彼女は彼の仇の娘だった。
十年ほど前にあった両国間の戦争で、彼女の父が殺したのは、当時の王太子、彼の兄だった。復讐は絶えることなく血筋の続く限り受け継がれる。父亡き今、アリエイラこそが、彼の仇なのだった。
彼は王になるのだ。その血に伝わるものだけでなく、国にまつわるすべてを受け継ぐ人間だ。たとえアリエイラがこの名も祖国も捨てようと、受け入れられるわけがなかった。
もしも己の名を隠して彼についていったとしても、いつか必ず、どこかから彼女の正体がばれるだろう。その時、己の命がないのもわかっていた。
彼の国の者によって殺されるか、それとも、彼自身に殺されるのか。
それも、アリエイラがただ死ぬだけならいい。けれどきっと、彼の名に拭いようのない汚れをなすりつける。それだけは、絶対にしてはならなかった。
アリエイラには、己のしなければならないことがわかっていた。真の名を告げ、彼の手を煩わせることなく、自分で命を絶つべきだろう。
彼と共に生きられないなら、それでかまわなかった。むしろ、そうしたかった。
胸が張り裂けそうに痛かったが、悲しいのかなんなのか、よくわからなかった。アリエイラは、ただ呆然と涙を流し続けた。
涙に濡れた冷たい頬を、何か温かいものが包んだ。視界に、彼の顔が映りこむ。視線が合うのに耐えられず、彼女は目をつぶってしゃくりあげた。彼のまなざしが変わってしまうところを見たくなかった。
「アリィ」
彼が心配そうに何度も呼びながら、慰めるように頭や腕をなでる。そのうち、躊躇いがちに、謝りだした。
「すまない。迂闊なことをした。君を傷つけた。本当に、すまなかった」
なぜ謝るのだろう。何を謝っているのだろう。アリエイラは不思議に思った。彼の声に耳を澄ます。
「……嫌なら、二度としない。君の望まないことはしない」
アリエイラは、かっと頭に血を上らせた。
この人は、さっき、私にキスしながら、いったい何を感じていたのだろう。幸せだと思っていたのは、私だけだったというのだろうか。
唇を噛んで、彼を睨みつけた。両手でパシンッと彼の手を振り払う。そして叫ぶ。
「私の父は、王弟アフル・ユースティニアに殺された!」
彼が目を瞠った。
「父の名はラダト・ブリスティン。当時の王太子を殺した将軍」
その名に、彼はわずかに憎しみを面に浮かべた。
ああ。やはり。
アリエイラは冷水を浴びせかけられた心地でうつむいた。最後に呟くように告げる。
「私は仇の娘です」
自分で言った決定的な言葉に、さらに涙があふれだしてきた。
もう終わり。彼に憎まれて終わるなんて。それが辛くてたまらなかった。
「だから?」
突然響いた、冷たい彼の声に、ビクリと震える。
「だから君を憎むと? 君は? 君はそれで、俺を殺したいと思ったのか?」
「そんなわけ」
ない。アリエイラは跳ねるように顔を上げた。険しい顔で睨みつける彼の視線とぶつかる。彼女はすぐにまた下を向いた。
怖かった。彼の怒りも、憎しみも。彼のためなら命も惜しくないと思っていたのに、いざ身の危険を感じれば、逃げ出したいとしか感じられなくなる。彼が本気を出せば、アリエイラなどひとたまりもない。恐ろしさに体がすくんで、彼女は動けなかった。
じっとりと時が過ぎていった。アリエイラは、息を殺して、ただ泣いているしかできなかった。
「すまない」
ふっと、先ほどまでとは打って変わった声が耳朶を打った。彼の気配が動き、倒木から下りて、アリエイラの前に来る。
視界に彼の膝が現れ、触れそうな位置で下についた。体の大きな彼が身を屈め、彼女の両手を包み込むように優しく握って、下から顔を覗き込んでくる。
「お願いだ。俺のために国を捨ててくれ」
アリエイラは驚きに目を見開いた。何を言われているのかわからなかった。
「名を捨てて、ただのアリィとして俺の傍にいてくれ」
真摯な瞳だった。まっすぐに彼女をとらえ、けっしてそらそうとしない。そこに憎しみは見られなかった。確かに彼女を思ってくれている、それがあるだけだった。
それでもアリエイラは突然のことに受け入れられず、皮肉な気持ちで苦笑した。
「許されるわけがありません」
「それでも」
離すまいと強く手を握り、彼は夢のような勝手を重ねて言う。
「正妃さまがいらっしゃるのでしょう?」
成人した王太子に、いないわけがない。アリエイラは淑やかに揶揄した。
「候補が」
彼は隠しも躊躇いもしなかった。アリエイラは正妃にはなれないと、他の女に触れ、これからもそうするのだと、告げる無神経さに、ずくりと嫉妬の炎が身の内で燃え上がる。
彼女はまるで不貞を暴くかのような心持で、さらに問い詰めた。
「側妃さまも?」
「3人決まっている」
王侯貴族は多妻が一般だ。彼についていったとしても、幾人かの妻の一人にしかなれない。しかも、
「名もない、後ろ盾もない娘が、本当にあなたの傍にあがれるとでも?」
後宮では、力無き者は生き残れない。比喩ではなく、そういう世界なのだ。それだけでなく、アリエイラは敵国の女だ。ありとあらゆる者が、それこそ端女でさえ、彼女の命を奪おうとするだろう。そこで、どう生きていけというのか。
「君は、この神殿島に、試練の期間に流れ着いた。神からの賜りものだ。神が俺に与え給うた、俺の最愛の女だ」
「そんなの」
だからなんだというのだろう。そんな戯言を、誰が信じてくれるというのか。
アリエイラは声を詰まらせた。そうであっても、彼の思いに胸をかき乱され、怒りに止まりかけていた涙が、再びあふれてくるのを止められなかった。
「では、なぜ、君はここにいる?」
世界で最も神威強き聖域、神殿島。神の許しなく踏み入った者には、たちまちにして神罰が降ると言われるその場所に、なぜ、アリエイラはいられるのか。
彼女は、都合のよい夢など見たくなかった。夢を見てしまえば、それが破れた時には、きっと耐えられない。だったら初めから、期待などしない方がましだった。
彼女に同じ答えを期待する彼から目をそらす。けれど彼はそれを許さず、片手で彼女の頬を押さえ、無理に視線を合わせてきた。そして、ゆっくりと言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「俺の子を、生むためだ。次のユースティニアの王を」
それは王妃の仕事だ。さっき、他の女を王妃にすると言ったくせに。どうやったら、
「そんな夢物語、うまくいくわけが」
あるというの。
どうして、そんな夢物語を見せようとするの。手の届かないものなんか、見たくないのに。
「うまくいかせる」
こぼれおちた涙の向こうで、アリエイラがどれほど否定しても一歩も引かないまま、情熱を宿した瞳で彼が見つめていた。
どこにも行かず彼の傍にいろと。このまま共に生きるのだと。
二人は、ただ、それだけのことを望んでいるだけだった。
どうしてそれが、許されないなんて、あるのだろう。
たった一つきりの願いなのに。
アリエイラは、それ以外のことは、本当はどれも瑣末なことなのだと気がついた。
誰が許さなくても、どんな困難があろうとも、────たとえ、短い間しか、いられなくても。明日終わりになるとしても。一瞬でも多くこの人の『時』が欲しい。誰にも触れさないで、見せないで、いっそ自分だけのものにしたい。
アリエイラは、己の業の深さを思い知って、苦しさに目をつぶった。
彼は、こんな私を許してくれるだろうか。
「私、きっと嫌な女になります。あなたも厭きれるほどの」
独占欲にまみれて、嫉妬に狂って。
アリエイラは自己嫌悪に呻吟した。なのに彼は、
「嫉妬してくれるのか?」
場違いなほどに楽しげに聞いてきた。なぜ、からかうのか。彼女は本気で悲嘆していた分、憤りがわくのを止められず、彼を睨みつけた。
「嫉妬します! 今だって! あなたが他の女に触れるなんて、いや!」
泣き声で叫ぶ。
彼は満足気にアリエイラを見て、笑った。あははは、と豪快に声をあげて、笑ったのだ!
アリエイラは、何かがぷつんと切れる音を聞いた。怒りのあまり、頭の中が真っ白になる。眦を吊り上げ、彼女に触れる彼の手を振り払おうとして、勢いよく立ち上がった。
「きらい! だいっきらい!」
けれど、どんなに彼女が振り払っても、彼は彼女の手を強く握って離さない。
「いや。いや。いやっ」
彼女は、そう叫んで暴れた。けれど彼に易々と引き寄せられて、腕の中に抱き留められてしまった。その大きな体で包み込んで、絶対に離さないとでもいうように。
彼女の必死の、しかし彼にとってはささやかでしかない抵抗は、男の本能を煽るものでしかなかった。彼は耳元へ唇を寄せ、囁いた。
「愛しているのは、君だけだ」
その色に濡れた声が脳髄まで届いた時、アリエイラは全身の血が沸きたったかと感じた。彼に与えられた熱に、体が蕩ける。体のどこにも力が入らず、くにゃん、となってしまう。
彼はいっそう、隙間なく彼女を抱きしめ、あふれんばかりの思いを言葉にして、彼女にそそぎこんだ。
「アリィ、愛してる」
アリエイラはもう何も考えられず、彼に身をあずけて、受け止めた思いを胸の内でぐるぐると反芻していた。
それまでずいぶんと泣いたために、えっえっとしゃくりあげ、みっともなくも、鼻を盛大にすすりあげながら。
アリエイラはぼんやりとしていた。そこにそっと、鼻へと柔らかな葉が当てられる。
「ほら、かんで」
言われるままに従おうとして、直前で踏み止まる。我に返れば、葉を差し出しているのは彼で、そこへ鼻をかむなんて、とんでもなかった。
とりあえず、葉を受け取ろうとするのに、彼はにっこりとしたまま、絶対にそれを渡してはくれなかった。あくまで物柔らかに、だけど有無を言わせぬ態度で、さあ、かんでいいんだよと、再三にわたってうながす。
アリエイラは必死になって、いやですと訴えた。
すると彼は、ますます妖しく笑みを深めて、首を傾げた。
「だったら言ってごらん。ヒスファニエの妻にして、て」
な、な、な、なにをいってるの? アリエイラは目をまん丸に見開いて、見る間に真っ赤に全身を染めた。
彼は優しくクスクスと笑った。そして、葉を渡してくれる。その時、チチチチ、と鳥が鳴きながら飛んでいき、彼はそれを追って彼女から目を離した。その隙に、彼女は急いで鼻をかんだ。
アリエイラが葉っぱを倒木の向こうへ投げ捨てたところで、彼が視線を戻した。穏やかに話しかけてくる。
「月のものが終わったら、返事をくれないか」
「わ、わたし」
アリエイラの気持ちは決まっていた。彼から離れられなどしない。それを伝えたいのに、涙の名残で息が乱れて、言葉が途切れてしまう。
彼は、うん、と頷いた。
「わかってる。でも、良く考えてから返事をくれ。得るものだけでなく、失うもののことも考えて」
そう言って、いつもと同じ、慈しみに満ちた目で、彼女の頭を撫ぜた。
「それまでは、俺は兄で、アリィは妹だ。もちろん、アリィが断ったとしても、君は俺の大切な妹に変わりはない」
妹なんて、嫌だった。アリエイラは彼の恋人に、いや、妻になりたいのだった。そう言おうと口を開けば、彼は指を一本押し当ててきた。
そして、ニッと悪戯に微笑む。
「さて、我が麗しの妹君にご提案したいことが。ここから少し歩けば、例の葡萄の園に行けますが。食いしん坊さん、ご案内してさしあげましょうか?」
おどけた仕草と表情で、アリエイラを誘う。彼女は少し考えて、それを受け入れることにした。
その方がいいのかもしれないと、アリエイラも少し頭が冷えて、思った。このまま言い張っても、勢い故の決断だったと、いつか彼に疑いを抱かせてしまうかもしれない。
なにがあっても、この思いだけは彼に疑われたくなかった。ちゃんと彼に届けたかった。
愛していると。傍にいたいと。
だから彼女も、同じ調子で、澄まして言った。
「まあ、それは楽しみ。ぜひご案内くださいな、大食らいさま」
うまく切り返せた。そう思ったのに、言い終わったとたん、ひゃうっとしゃっくりがこぼれる。彼女は思わず自分の口を押さえた。そのまま彼と目を合わせているうちに、なんだかおかしくなってくる。
アリエイラは我慢できずに、笑って彼に抱きついた。彼もおおらかに抱き返してくれる。
そうして二人は神の庭で抱き合いながら、無邪気に笑いあったのだった。
ヒスファニエ視点 「出会い」11