11
昨夜は途中から痛みよりも彼が気になって、ほとんど眠れなかった。彼もそんなアリエイラを気遣ってくれたのだろう、常に起きている気配がしていた。
おかげで翌日の午前中は、二人でうつらうつらとして過ごした。
用を足しに起きたりもしたが、帰ってくればどちらからともなく手を伸ばして、身を寄せ合って眠る。
常に寝惚け眼の彼は、どことなく甘えん坊だった。いつもならば大人の余裕でアリエイラを可愛がるのに、この日はどちらかというと、まるで山猫の子供が、すり、すり、と体をこすりつけるように、彼女を求めた。
だからアリエイラは初めて、そうしたいと思っていたように、安らかな寝息をたてる彼の頭を胸元に抱えた。
彼の髪を何度も梳く。そうしながら、自分が非力であると承知しているのに、彼を守りたいと強く思わずにはいられなかった。そのためならば、命も惜しくないと。
そっと頭のてっぺんにキスをし、満たされた溜息をつく。
そうして規則正しい彼の寝息に耳を澄ましているうちに、アリエイラも眠気を誘われて、再びとろとろと眠りの中に落ちていったのだった。
次に目を覚ました時、彼女は喉の渇きを覚えて、熟睡している彼の腕の中から這い出し、水を飲んだ。
甕の中はだいぶ少なくなっており、そういえば、今日はまだ水汲みに行ってないのだと気付いた。
いつも水汲みをしてくれている彼は、まだ寝ている。彼が眠気覚ましに飲むにも、汲みたての水の方が美味しいだろう。そう思って、アリエイラは桶を一つ持って外へ出た。
太陽はほぼ真上に上がっていた。きゅるるるる、と腹が鳴り、寝ているだけでもお腹はすくものなのだと知った。
ありがたいことに、アリエイラは飢えたことがなかった。食欲があろうとなかろうと、腹を満たすに充分の食事を、何もせずとも毎回必ず与えられてきた。それは本当は稀有なことだったのだろう。
少ない王族の姫として、国中から大事に大事にされてきたのだ。
でも、これほど心浮き立つ日々を、過ごしたことはない。
アリエイラは生まれ変わった心地で深呼吸をした。
今日も島はとても美しかった。神々しい静けさに満ちていた。その中を、彼女は上機嫌で泉に向かった。
アリエイラは楽しみだった。汲みたての美味しい水を飲んだら、彼は笑ってくれるだろうか。
桶に7分目ほど水を入れ、両手でよいしょと持ち上げる。こぼさないように、ゆっくりと小屋に向かう。
と、扉が乱暴に開け放たれ、焦った様子の彼が飛び出してきた。アリィ、と大声で彼女を呼ぶ。
「ファー兄さま?」
どうしたというのだろう。彼女の呼び声に彼女を見つけると、彼は血相を変えたまま走ってきて、怒った口調で尋ねてきた。
「どこへ行っていたんだ」
「今日はお水を汲みに行っていなかったと思って。起きたらきっと、冷たいお水の方がおいしいと思って。ごめんなさい。心配をかけると思い及ばなかったんです」
温和な彼がこんなに怒るなんてと、アリエイラは泣きそうになった。
泉や用足しには一人で行っていいはずだけれど、何か他に不都合をしでかしてしまったのだろうか。このままでいれば、また同じことを繰り返してしまうかもしれない。でも、何がいけなかったのかを尋ねるのは、ものすごく勇気のいることだった。
どうしよう。どうやって聞こう。
目を合わせられずに、うなだれて必死に考えていると、重い桶を取り上げられた。あれ、と思う間もなく彼の片腕が背にまわり、頬が彼の胸に当たる。アリエイラは荒っぽく彼に抱き締められていた。
「いや、俺が寝惚けていただけだ。ありがとう。今日は水のことを忘れていた」
彼の胸から響く鼓動は、とても速かった。体中が緊張して力が入っているらしいのもわかる。
それほど彼は心配してくれたのだろう。
寝惚けた、などというのは方便だと、アリエイラにもすぐにわかった。彼は目を覚ました瞬間に、どんなに眠そうであっても、いつも正気になっている。
たぶん、気配の違いに目を覚まし、何も言わずに姿を消したアリエイラを、……小さな子供を、彼は保護しなければと考えたのだろう。
彼女は彼の鼓動が鎮まっていくのを聞きながら、彼にいらぬ心配をかけた罪悪感でいっぱいになった。
小屋に戻って、彼が水を飲んで人心地つくのを見計らって、アリエイラは彼の前にきちんと座った。
「あの、ファー兄さま、申し上げておきたいことがあるのですが」
なんだ、と無造作に寛ぐ彼を、緊張で上目遣いに見る。
「ファー兄さまは、私をいくつだと思っていますか?」
「あー。いくつなんだ? 俺より年下としか、考えてなかったんだが」
意外なことを聞かれたという顔で、おおらかな答えを返してくれる。でも、よく考えてみれば、アリエイラも彼の事は、自分より年上としか考えてなかったのだった。20は越えているように見える。でも、20代の後半には見えない。そこで改めて聞いてみる。
「お兄さまはいくつですか?」
「22だ」
「そうでしたか。私は18です」
「じゅうはち?」
思い切ってアリエイラが告げると、彼はしばらく目をぱちくりとして、それから彼女を上から下、下から上と、何度も視線を動かして眺めた。
ああ。呆然としていらっしゃる。
わかっていはいたが、そんなに意外だったかと、改めて複雑な思いになる。溜息を押し隠し、彼が年齢を誤解していたのを気に病まないようにと気をつけながら、告白を続ける。
「私、この背ですから、いつまでたっても、誰からも子供扱いされて。もっと早く言えば良かったのですけど、子供だと思ってたくさん面倒を見てくださっているのに、言い出し難くて。ごめんなさい」
微妙な沈黙の後、彼はまいったなという顔で、後ろ頭に手をやった。
「それはまったくいっこうにかまわないんだが。……アリィこそ、不愉快じゃなかったか」
「いいえ。ファー兄さまは本当に優しい方だと思っていました。それにつけこんでいるみたいで、ずっと後ろめたかったんです。本当にごめんなさい。これからは、もっと私にも用事を言いつけてください。こう見えても18ですから、水汲みだって平気ですし、一人で外に出ても、危ないことはしません」
握り拳で主張した。
私は小さな子供ではないのだと。もっとあなたの役に立てることがあるはずだと。それをどうしてもわかってもらいたかった。
彼は困ったようにアリエイラを見ていたが、突然、はっと何かに気付いたように、前のめりになった。顔が近くなる。とても真剣な目で見つめられる。
「結婚しているのか」
まさか。びっくりして声が出ない。が、誤解されたくなくて、大きく何度も横に首を振った。
「婚約者も?」
一瞬、答えられなかった。相手は決まっていなかったが、王子たちの中から王となる人物を選び、その人と婚姻を結ぶ予定だった。
アリエイラは息を止めた。嫌だという気持ちが、思ってもみないほどの強さで心をつかみあげていた。
必死に首を振った。他の男など、選びようがなかった。
けれど、彼は黙ったまま表情を消した。そうして見下ろされると、初めて会った時の彼を髣髴とさせた。優しいだけの人ではないのかもしれないと感じさせる。アリエイラなど足元にも及ばない存在。力に満ちた、そう、この島に満ちる気とよく似た。
アリエイラをひたと見つめる瞳は、獰猛ですらあった。
彼女は怯えた。どれほど彼を怒らせてしまったのだろう。
理由などわからなかった。そんなことを考える余裕などなかった。
彼に嫌われた。彼に捨てられる。
絶望が真っ黒に心を染め上げ、涙が、わっと喉元からせりあがってくる。
「ごめんなさい」
一言謝っただけで、喉が詰まった。もっと謝らなければいけないのに。優しい彼の心を動かし、慈悲をかけてもらえるくらい。なのに、声が出ない。
アリエイラは、怒られても、呆れられても、嫌われても、それでも、彼の傍から離れたくなかった。それは食いっぱぐれるからとかそんなのではなくて、ただただ、彼の傍にいたかったのだ。
「怒ってなど、いない」
彼はふっといつもの表情に戻ると、柔らかく言った。一瞬で怒りを自制してみせたが、だからといって、内心までそう簡単に変えられるとは思えない。
アリエイラはもっと謝ろうと、でも、と言った。それを彼は優しく笑ってさえぎった。
「少し寂しかっただけだ。これからは気軽にアリィを抱っこできなくなるから」
そして、憂い顔で溜息をつく。
「アリィは抱き心地がいいからなあ」
彼の声が、うわん、と体の中で響いて木霊した。
抱き心地がいい? 本当に?
アリエイラも彼に抱かれるのは心地よかった。一日中、毎日、いや、一生、そうしてられたらと思うほどだった。彼に触れていると、体の芯から蕩けて脱力する。ものすごく幸せな感覚だった。
彼も、その何十分の一でも、何百分の一でも、同じように思ってくれている?
アリエイラは嬉しくて嬉しくて笑った。
「私も、ファー兄さまに抱っこされるのは好きです。とても……安心するから」
さすがに自分の心情をそのまま伝えるのははばかられて、途中で他愛ない言葉に置き換えた。
彼は不思議なものを見るような目で彼女を見た。何かを確かめようとするように、手を伸ばしてきて、彼女の頬に触れる。
温かい手。大きな手。慕わしい手。
「では、また君を抱いてもかまわないか?」
どうして彼は、許しを請うように聞くのだろう。彼ならば、彼だけは、かまわないのに。
アリエイラは思いそのままに、花咲くように笑んだ。こっくりと頷く。
彼女は彼の手が、頬から首をゆっくりすべりおりる感覚に陶然とした。肩に当てられ、請う瞳はそのままに、そっと彼の方へと押される。
彼女は誘われるままに腕を伸ばし、体を浮かして、彼の首へとまわした。
好き。好き。
口にできないかわりに、思いのたけで抱きつく。彼がアリエイラの腰を引寄せ、体が密着するようにしっかりと抱きしめてくれた。
このまま、時が止まってしまえばいいのに。
アリエイラは燃えるような思慕を内に宿して、叶うはずもない願いに呻吟した。
ヒスファニエ視点 「出会い」9