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君に会いに  作者: 伊簑木サイ
アリィ編
35/44

   10

 濡れてしまった服の替わりに脱衣所に置いていかれた彼の服は、裾が短くなっていた。しかも、体を拭くために用意されていた布は、どう見てもその切り取った部分で。

 切りっぱなしのそれらを見て、アリエイラは絶句した。

 この丈では彼には着られない。寒くなったら、どうするつもりなのだろう。いや、それはともかくとしても、とにかくこれ以上ほつれないように、縫い留めておかないと。

 彼女は針の存在を思い出し、糸をなんとか調達して、裾上げをしようと心に決めた。縫い物は得意だ。これも自分のできることの一つだと数え上げて、アリエイラは嬉しくなった。

 しかしこの後すぐに、もう一つ、彼女は絶句することになった。

 布で水気を拭っていたら、月のものがきたのだ。

 よくよく考えたら、確かにそんな時期だったと納得はしたのだが、でも、処置をするための布がない。どうしようかと考えても、彼に頼む以外は思いつけなかった。

 恥ずかしさをこらえて彼に話すと、彼は、今度はアリエイラが着ていた自分の服の袖を切り取って与えてくれた。「お下がりで悪いが」と付け加えて、この服は彼女のものにするようにと言いながら。

 彼だってこれしか服を持っていないのに、どうしてこうも無造作に人に与えてしまえるのだろう。

 アリエイラは、彼が出し惜しみする姿を一度も見たことがなかった。彼女を助けて介抱をしてくれた時も、食事を与えてくれた時も、風呂を沸かしてくれた時も。それを恩に着せるどころか、神の思し召しだとさえ言う。感謝されることは何もしていないと。

 アリエイラは針を細かく動かしながら微笑んだ。彼女は彼が食料の調達に出かけている間に、切り取られた上着の裾と袖の始末をしていた。

 彼が出かけてくれたのは都合が良かった。下穿きも洗って今は干してある。彼女が身に着けているのはこの上着だけであり、縫い上げるには、どうしても脱ぐ必要があった。

 日の光がよくあたる場所を選んで小屋の壁に寄りかかって、膝の上に上着を広げ、縫う。糸はなかったから、迷った末に自分の髪を使うことにした。強度がないので2本取りで。

 アリエイラは縫い目を確かめるために、布目から等間隔にのぞく栗色の髪を指でたどり、とても強い満足感を覚えた。この衣はいずれ彼に返すつもりだ。それに自分の一部を縫い込めるのは、どきどきする行為だった。

 夢中で時間を忘れて没頭していると、梢が不自然に揺れる音と足音が聞こえて我に返った。彼女は慌てて上着を肩辺りまで引き上げた。

 この下は何も身に着けていない。少々気恥ずかしかったが、彼はもちろん子供の裸などに興味はないだろう。恥ずかしがるだけ無駄なこと。

 だから彼女は帰ってきてくれた嬉しさだけを表して、おかえりなさいませ、と声をかけた。

「ただいま。何をしていたんだ?」 

 彼はしゃがんで、彼女と目の高さを合わせるようにして笑った。屈託のない笑顔だった。が、ものすごく近い。ずいぶん歩いてきたのだろう、少し汗をかいた彼の熱気まで伝わってくるほどだった。

 アリエイラはそれに緊張した。肌の表面がちりちりと敏感になるような感じだ。衣を上から掛けただけの格好では動くにも動けず、なんだか目を見ていられずに視線を落として、彼の興味を自分から逸らすために、目に付いた縫い目を摘んで持ち上げた。

 それによって真っ白い腿がさらけだされることになったが、アリエイラはあがりきっていて、そんなことにまで気を回すことができなかった。

「中で道具を見ていたら、針があったんです。それで、裾がほどけないように、かがっていたんです」

「糸もあったのか」

「いいえ、髪の毛なんです」

 そこまで答えて、さあっと血の気が引いた。それがある種の呪術であることを思い出したのだ。妻や恋人が航海に出る男のために、安全や浮気阻止を願って、己の髪を折り返しの間に縫い隠すのだ。

 そんな意図はまったくなかったのだが、心情的にはそれに近いものがあった。自分の浅ましさに、恥ずかしくて顔が上げられなくなる。

「すみません。気持ち悪かったですね」

 ほどくべきかもしれないと考え、縫い目を摘んだ指に力が入った。

「そんなことはない。ありがとう。アリィは器用だな」

 温かい声と一緒に、大きな手が頭を撫ぜてくれる。何も気にしていない声音に、そろりと視線を上げて彼の表情を確かめる。

 ただただにこにことしている彼の様子に安心して、アリエイラはやっと唇をゆるめた。

「あともう少しなんです。まだ外にいてもいいですか?」

 彼が持ち帰ったものを洗ったり切ったりする作業を手伝うべきだったが、どうしてもこちらを完成させてしまいたかった。

「ああ。俺は中で休んでいるから。冷える前に入れよ」

 彼はだいぶ傾いた太陽へと目をやり、気遣ってくれる。

「はい。本当にもう少しですから」

 アリエイラはそれに意気込んで答えたのだった。


 あ、少しおかしい。

 そう思ったのは、食事に使った椀を、彼と洗って片付けている時だった。頭の芯がジンとして、目の焦点が合いにくくなる。

 けれど、あとは寝るだけだ。アリエイラは何事もないかのようにして、枯れ草をかき集めて体にかけた。

 いつも腕の中に抱え込んでくれていた彼は、今夜はそうせず、隣で横になっている。

 当たり前のことだった。月のものは穢れだ。そんな女に触れる男はいない。

 アリエイラは体をできる限り丸めて、息を殺すようにして痛みに耐えていた。腰のあたりは鈍く痺れ、腹は吐き気がするほど痛む。脂汗がにじみ、呻き声が出そうなのを、歯を食いしばって抑えていた。

 年に一、二度、月のものの時にこうなることがある。酷く辛いが、たいてい半日も我慢すればどうにかやりすごせる程度のものだった。

 とはいえ、辛いものは辛い。眠ってしまえば楽なのに、痛みのあまり眠ることさえできない。あとどれくらいこうしていればいいのかと考えると、泣きたい気持ちになった。

 横になってからどのくらいたったのか、時さえじりじりとしか進まないように感じる中、背後で彼が体を起こした。

 水でも飲むのかと寝たふりを続けていると、微かな物音の後に瞼に灯りが感じられ、目を開けた。すぐ傍で、彼が心配そうにアリエイラを見ていた。

「具合が悪いのか」

「大丈夫です」

 これで死ぬわけではない。一晩ほどのことだ。男の彼が、痛みを和らげる薬湯を持っているわけもない。話したところで、心配をかけるだけのことだろう。

 けれど彼は、彼女の頬に触れ、重ねて問うてきた。

「どうした。どこが苦しいんだ」

 頬に触れた彼の大きく温かい手に、心が慰められる。それだけでじゅうぶんだった。

 アリエイラは訪れた痛みの波に思わず目をつぶって、なんでもないのだと、横に首を振った。

「アリィ!」

 突然、声を荒げて呼ばれ、驚いて目を開ける。彼が見せたこともないほど真剣な顔をして、彼女の目を覗きこんでいた。

 ごまかせない。彼の眼差しに、そう悟った。黙っていれば、彼は心配だけを募らせるだろう。

「時々、月のものの時にこうなるんです。お腹が痛いけれど、一晩我慢すれば、良くなりますから」

「俺に何かできることはないか」

 そう聞き返されて、アリエイラは泣きそうになった。この人にすがりたかった。痛くてしかたないと。辛くてたまらないと。

 そうして抱き締めてもらえば、楽になれるのではないかと夢想した。そんなこと、あるわけもないのに。

 それだけでこの痛みが消えるのなら、薬湯や温石を使わず、母も祖母も乳母も、そうやってアリエイラから痛みを取り除いてくれただろう。

 確かに体が温まれば少しだけ痛みは和らぐかもしれない。でも、穢れの時期の女に、これ以上、男性である彼が触れるわけがない。

「アリィ、どんなことでも言ってくれ。ここには君と俺の二人しかいないんだ。俺の知らないことは君が教えてくれなければ、助けてやることさえできない。俺は君が苦しんでいるのを、ただ見ているのは嫌だ」

 どうしてこの人は、いつも。

 アリエイラは、胸の奥がふつふつと煮えたぎる感覚に、眩暈を覚えた。

 大人の男の人で、落ち着いていて、なんでもできて、どんな時でも頼りになる、そういう人なのに。

 母国の王子たちがそうであるように、もっと偉そうだったり、威圧的だったりしても、おかしくないだけの力量を持っている人なのに。

 いつだって彼は、こんな小娘に、心からの言葉をくれる。

 愛情に満ちたそれは、すんなりと胸の内に染み込んできて、アリエイラの心を温める。

 真っ直ぐに伝えられる疑いようのないそれを、拒んではねつけることなど、できるわけがない。

 それでも、自分の本当の望みを伝えるのは怖かった。今まで一度も、そんなことをしたことがなかったから。

 アリエイラは人の顔色をうかがって生きてきた。英雄である父の名を穢さぬよう、他国から嫁いだ母の立場を悪くしないよう、人々が求める理想の姿を演じてきた。そこに彼女の感情など、さしはさむ余地はなかった。

 けれど、彼はアリエイラの気持ちを聞いてくれたから。どうして欲しいかと、ただそれだけを聞いてくれたから。

 だから。

 アリエイラは長年の癖から抜けきれず、怯えてきつく目をつぶりながらも、体から絞り出すようにして、彼に伝えた。

「温めてください。……嫌でなければ」

「嫌だなんて、どうして思うんだ」

 彼は腹を立てたように呟くと、すぐに背後にまわって抱き寄せてくれた。彼女が痛みに屈んだそのままに、足の先までぴったりと体を添わせてくれる。痛くてたまらない場所がわかるかのように、大きな掌で腹部を覆ってくれる。

 アリエイラは、そうしてくれと望んでおいて、なのにいざそうされると、身構えて息を飲んだ。そして、彼に突き放される前に、自分で言わずにはおれなかった。

「だって、嫌じゃないですか? 月のものがきている女なんて」

「なぜ?」

「穢れているから」

 アリエイラは怖かった。触れた場所から熱がじんわりと広がり、体の奥底まで届いてくる。この熱が離れていってしまったら、悲しいなどと言う言葉では到底足りない思いを味わうことだろう。

 彼の腕と体がわずかに締まり、より深く抱き包められる。彼の息が耳にかかる距離で囁かれる。

「穢れてなどいるものか」

 その声は、アリエイラを甘く熱く蕩かした。

 体の痛みよりも、胸にはしった痛みに、彼を求めて、彼の手に自分のものを重ね合わせ、ぎゅっと握り締める。

 彼が、は、と漏らした息に、体が震える。彼のすべてを感じ取ろうと、体中が敏感になっていく。

 そうして一晩中、彼が与えてくれる熱を、彼女は甘い切なさとともに、受け取ったのだった。



ヒスファニエ視点 「出会い」8

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