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君に会いに  作者: 伊簑木サイ
アリィ編
34/44

   9

 彼の手がアリエイラの肩をつかみ、静かに体を遠ざけた。泣き終わっていた彼女は、少々呆然としたまま彼の足の間に座らされた。

「わかった」

 笑みを含んだ声に顔を上げる。

「背中を流してくれ。その帯でやってくれるか?」

 彼は苦笑していた。その慈愛に満ちた微笑みに目を奪われ、それでも彼の言ったことを理解して、彼女はすぐに帯に視線を落とすと、急いでほどいた。

 そして目を上げれば、彼は背中を向けていて。アリエイラは思わず息を殺した。

 翼が、背中を覆いつくし、腰骨の上にまで届く刺青が、彼の息遣いと共にわずかに躍動していた。なんと美しい、神の息吹の加護だろう。

 アリエイラは丸めた帯を湯に浸し、持ち上げて、その翼の上に滑らせた。そうすれば、翼は描かれた線でしかなく、その下の広く逞しい背中に触れることになる。

 彼の。『ファー兄さま』の。

 声には出さず、唇だけ動かして呼びかける。それだけで、愛しさに胸が熱くなる。今はもう、その呼び名は、アリエイラにとってこの人のこととなっていた。

 捕まえたユースティニアの民を、彼女の目の前で殺して、喜べと言った、あの美しくも、冷たく、激しい、恐ろしい王子ではなく。

 アリエイラは目に焼きついた光景を思い出して、いつもと同じに罪悪感にみまわれた。人の苦痛を、絶望を、どうやって喜べというのだろう。

 それにもまして、それをやめさせることもできず、求められるままに微笑んでみせた自分が堪らなく厭わしかった。

 ごめんなさい。その言葉をどのくらい心の中で繰り返してきただろう。

 人々から求められる『英雄の娘』としての振る舞いに弱りきっていたアリエイラを、己の看病のためと言って連れ出してくれたのは、イフィゲニーの王太后である母方の祖母だった。祖母が亡くなった後も、祖母の遺徳の陰に隠れて、息をひそめるようにして生きてきた。

『いつか、あなたも生きるべき道を知る時がきます。その時は、躊躇ってはだめよ』

 祖母は亡くなる前に、アリエイラの手を握って言った。

 そんな日は来ないと思っていた。イフィゲニーの奥宮の片隅で、祖母に花を手向けて穏やかに生きていく。それで充分だと思っていた。

 でも。

 でも。

 彼の背に手を滑らせる。丁寧に、丁寧に。

 だって。この人が。私の。…たぶん。きっと。

 万感の思いを隠して背中を拭い終わり、彼に声をかける。

「あの、背中終わりました。こちらを向いてください」

 彼が肩越しに振り返り、目が合うと、はいはい、と子供に言うように軽く返事をして、向き直った。その腕をとり、指先から拭っていく。

 大きな手。筋肉ののった腕。首を拭う頃には、彼は目をつぶり、縁に体をあずけていた。肩、胸、といくほどに、寛いで体の力が抜けていくのがわかる。

 彼が体をまかせてくれる。アリエイラのすることを喜んでくれる。それが嬉しくてたまらなかった。もっと何かしてあげたい。もっと彼を喜ばせたい。そんな気持ちでいっぱいだった。

 上から順にきて、腹も拭い終わった。その下の下穿きの紐に目をやり、どうしようかと思案する。アリエイラがとくのは、どこか間違っている気がする。脱いでくださいと言えばいいのだろうか。

 迷っていたら、そこに彼の手が差し出された。

「交代だ。後ろを向いて。ほら、上着を脱いで」

 順番だ。言外のそれを感じて、彼女はおとなしく帯を渡して背を向けた。上着の紐をとき、す、と肩を抜く。

 肌に触れた冷やりとした外気に、急に心許なさが襲ってきた。背後の彼の気配に、羞恥心がわいてくる。

 視線を感じる。彼は待っているのだ。アリエイラが脱ぐのを。

 そこに特別な意味はない。さっきまで、どれほど彼女が触れても、彼の態度は何も変わらなかった。

 その事実に、ずきりと胸が痛む。

 アリエイラも、恋われるのがどんな風か、知らないわけではなかった。イフィゲニーに行く時に、ラファエラ王子がつかんできた手も、その眼差しも、火傷しそうに熱かった。ただ、それを恐ろしいとしか感じられなかったから、振り払って逃げたのだった。

 彼の眼差しの中に、あれと同じものを見たことはない。

 アリエイラは自分の体を見下ろした。背の小ささに比例して、胸も立派とは言えない。実年齢を知らなければ、子供と思われてもしかたがなかった。

 安心と虚しさと諦めともどかしさが交じり合った中、彼女は服を下にすべり落とした。

 すぐに彼が拭い始めてくれる。優しくゆっくりと繰り返されるそれは、とても気持ちのいいものだった。アリエイラは夢見心地になった。彼の手の動きを追って、それが与えてくれる心地よさにひたっていた。

 と。それまでと違う水音がして、背中全体が、一瞬、冷たいものに覆われる。アリエイラは、びくっとして体を強張らせた。冷たいものはすぐに、じんわりと温かくなっていった。

 彼の息遣いが頭の上のすごく近い場所で感じられた。彼の足に腰を挟まれ、腕が体の前へときて、囲い込まれるようにして腕をつかまれる。

 うそ、と思う。どうして、とも。

 背中から抱き締められて、体の前面を拭われる。前だけでなく、時折こすれる予想できない背中の感触に、飛び跳ねそうになる。

 アリエイラは半ば息を止めて、全身が心臓になってしまったような感覚に耐えていた。腰を押さえつけられてしまっていて体を動かすことすらできないのが、さらにアリエイラの中の何かを刺激する。

 体の芯から蕩けていく。今にもぐんにゃりとしてしまいそうな背を、体を強張らせることで、必死に保っていた。

 やがて、彼に手をとられた。目を見開き、何が始まるのかと身構えたその中に、帯を渡される。

「さあ、おしまいだ。あとは自分でやっておいで。髪もちゃんと洗うんだぞ」

 いつもの調子で頭の上から諭される。彼の肌が離れ、湯船の外へと出る音がした。アリエイラは追うようにして、思わず振り返った。

 物足りないと思った。淋しいと。もっとあなたに触れていたいと。

「そうだ、後ろを向いているから、その下穿きも脱げ。どうせ濡れたんだから、ついでに洗おう」

 なのに、彼はアリエイラを見てもくれず。何一つ変わらず。

「自分で洗います」

 アリエイラはもう何度感じたかわからない痛みに顔を歪め、考える間もなく拒否していた。

「遠慮はいらないぞ。洗うのも力仕事だからな」

 親切心だろう、人の好い顔をして彼が一度だけ振り返り、すぐにまた前を向いた。

「遠慮じゃありません! これは、絶対に、自分で洗います!」

 どこの女性が好きな男性に自分の下穿きを洗わせたいと思うというのだろう!

「今更、だろうに」

 呆れた口調で言われる。

「それとこれとは違います!」

 大人の女性は無理とわかっていたが、どうやら年頃の娘とすら見てもらえていないらしい。アリエイラはそれに大きく傷ついて、叫び返した。

「わかった、わかった。噛みつくな。じゃあ、それはいいから。着替えを持ってくるよ」

 彼は背を向けたまま手を挙げてひらひらと振った。そして、何事もないといったように、浴室を出ていったのだった。



ヒスファニエ視点 「出会い」6

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