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手伝いとは、湯の番をすることだった。外で彼が火を焚き、アリエイラが浴室の中で湯をかきまぜながら温度をみるのだ。
彼が朝からしてきたことに対して、たったこれだけ、と思ったが、やってみれば、非力なアリエイラには案外重労働だった。
湯が温まるほどに湯気があがり、浴室内は温度湿度共に高くなった。加えて、湯をこぼさないようにかきまぜて、広い湯船の中を均一にするのは、それなりの力がいったのだ。少々熱めに沸きあがった頃には、彼女は汗だくになっていた。
「ファー兄さま、お湯が沸きました!」
外へと声をはりあげると、彼がすぐに入ってきた。アリエイラは彼が湯船に近付くのと入れ替えに、少しずつ戸口へと動いた。
湯を確かめて、「うん、いいだろう。ありがとうな、アリィ、助かったよ」と彼が振り返る頃には、彼女は扉の枠に手をかけていた。悪戯に笑って告げる。
「では、私は外に出ていますね」
「ちょと待て。アリィが入るんだ」
彼は慌てて体を起こして来ようとした。
「私はファー兄さまの後でいいです」
そう言い捨てて外へと飛び出し、大急ぎで扉を閉めた。そして小屋に向かって全速力で走り出す。他の方向へ逃げれば、きっと心配して探すと思ったからだ。
十歩もいかないうちに、体がずんと重くなって、肩で大きく息をしていた。アリエイラは生まれてこの方、これほど走ったことがなかった。
あっという間に背後から足音が近付く。かと思ったら、胴に腕をまわされ、ひょいっと抱き上げられていた。景色が変わり、横向きに彼の胸に押し付けられ、状況が飲み込めないでいるうちに耳元で囁かれた。
「風呂が嫌いか? アリィは悪い子だな」
「そんなんじゃありません!」
低く柔らかい声に背筋がぞくぞくとして、アリエイラは思わず叫び返した。すると彼はくつくつと笑いだした。やっと、からかわれたのと逃亡に失敗したのに気付いた彼女は、少々拗ねながら言葉を重ねた。
「だって、ファー兄さまが働いて沸かしたお風呂です。私、とても先には入れません」
彼が汗を流しながら用意するのを見ていて、そう思わずにはいられなかったのだ。だから、一生懸命考えて、必死で逃げ出したのに、いとも簡単に捕まってしまった。
情けなくて、落ち込んだ。できない言い訳ばかりしてきたツケが、こんなところでまわってきた。いざという時に何もできないなんて。
彼は無言で浴室に戻り、湯船の縁に腰かけた。アリエイラを膝の上に下ろし、逃げないようにだろう、胴にまわした腕でしっかりと引きつけた。そうしておいて、もう片方の手で、湯船の側に置いてあったいくつもの手桶にお湯を汲み始めた。
「これは上がり湯だ。あまり置いておくと冷めてしまうから気をつけろ」
「ファー兄さま」
抗議しようとしたアリエイラの唇に、彼は微笑んで人差し指を当てた。
「アリィ、選べ。君が先に入るか、俺と一緒に入るか。すみからすみまで丁寧に洗って差し上げようか、我が姫?」
ん? と首を傾げ、笑みを深くする。その目は明らかに、できるはずがないだろうと言っていた。
アリエイラはずきりと胸が痛み、すぐに、むかあっと腹がたった。
どうせ、子供だと思っているくせに。女だなんて、思ってもいないくせに!
怒りと悲しみと悔しさで彼を睨みつけ、アリエイラは喧嘩腰で言い返した。
「望むところです! 私もファー兄さまの背中を流して差し上げます!」
すると彼はたじろいだ表情を見せた。
「年頃の娘だろう。恥じらいを持て」
「どうせ見られています。寒かった時に、抱き締めてもらったのも覚えています。今更です」
その胸の中に囲い込んでくれる腕に安堵した。触れあう素肌は、それまで感じたこともないほど心地よかった。
思い出せば、体の奥に火が点った。アリエイラはその感覚に、息をつまらせながら、熱く潤んだ瞳で彼を見つめた。
彼は、ふと真剣な顔をして、次の瞬間には、目をそらした。
あ。逃がしてしまう。
彼女は自分でも意味のつかめない思いに捕われ、とっさに口を開いていた。
「それに、男の二言はどうかと思います、ファー兄さま」
彼はあらぬ方を見たまま溜息をついた。それから彼女へとゆっくり視線を戻すと、負けを認めた。
「俺が悪かった。調子にのった。でも、これは君のために用意したんだ」
「知っています。ありがとうございます。だから、よけいに」
アリエイラは口をつぐんで、うつむいて唇を噛んだ。
彼が彼女のために骨を折ってくれる。それはたとえようもない喜びであり、また、痛みと見紛う切なさと、いつでも必ず後ろめたさをともなう。
彼がユースティニアの男と知っていて。自分がブリスティンの王妃となるよう定められているとわかっていて。
それでも、妹ではないと、養い子でもないと、ただの女として見て欲しいと、願ってしまうから。
いけないと思っても、勝手にわきあがる。抑えることも、知らないふりをすることもできない。こんな近くで彼に触れていれば、よけいに。
大きく激しすぎるその気持ちに、アリエイラは体の内側から突き上げられて呻吟した。
「アリィ?」
彼が不思議そうに、体を屈めて覗きこんでくる。
その気遣う声と、ふわりと強く香った彼の匂い、腰にまわった腕が動く感触。そして、かち合った彼の眼差しに。
心臓が飛び跳ねた。
アリエイラは小さく鋭く息を吸い込んで止めた。そうして何も考えず、体が動くままに、彼を力いっぱい押し退けていた。
そのとたん、反対に彼に引寄せられ、ぎゅっと強く抱き締められる。えっ、と思った時には不安定に体が傾き、彼に抱かれたまま湯船の中に落っこちていた。
一瞬で全身が水に包まれ、恐慌状態に陥る。アリエイラは恐怖に身をこわばらせて動けなかった。だが、すぐに下から彼に押し上げられて、湯を飲むこともなく外に顔が出た。はっはっとすすりあげるように息をした。
アリエイラは動顚しきっていた。震える指で縋りつくように湯船に手をつく。ばしゃばしゃと飛び散る飛沫を追って、呆然と見下ろすと、彼が湯の中でもがいていた。彼女が彼の腹の上に乗って、湯の中に彼を押さえつけていたのだ。
「やだっ」
泣き声をもらして、彼女は転げ落ちるようにして彼の上から退いた。夢中で震えが止まらない腕を伸ばして、彼の頭を抱き、水の上へと引きあげる。
彼は彼女の腕の中で、ひゅっと音をたてて息を吸い込だ。そして苦しげに咳きこみ始めた。
アリエイラはどうしたらいいのかわからなかった。その背や肩をおろおろと撫でさすりながら、涙声で謝り続けるしかできなかった。
こんなことをするつもりではなかったのに。彼を傷つけるつもりなんか、なかったのに。殺してしまうところだった。
恐ろしかった。自分が彼を水の中に沈めているのに気付いた時の衝撃が繰り返し脳裏によみがえり、その度に新しい涙があふれた。
やがて彼の咳もおさまり、身動ぎして、ふぅっとゆるい息をついた。乱れた襟の間から肌に直接かかったそれに、くすぐったさと同時に、危険が去ったのと、彼が確かに生きていてくれるのを実感した。
なのに。その温もりが、ゆらりと揺れて離れていく。アリエイラは必死で留めようとすがりついた。しゃくりあげながら、ただただ、彼の首にまわした腕に力をいれる。
彼女の焦燥にまみれた頼りない思いは、少しの間だけだった。すぐに逞しい腕が背中にまわり、抱き締めてくれる。慰めるように、首筋にキスをされる。
「大丈夫だ。この悪戯っ子め」
「ご、め、んな、さい」
とんでもないことをした彼女を許してくれる言葉に、再びどっと涙があふれた。嗚咽にうまく言葉が紡げない。
そんな謝罪しかできなかったにもかかわらず、彼はなだめるように、優しく背中を叩き続けてくれた。
アリエイラの嗚咽が治まり、少し心が落ち着いてくるまで。しっかりと抱き締めてくれていたのだった。