6
外で足音がした。かたん。それに、小さな物音も。それでもアリエイラは動けなかった。全身を耳にして気配を探す。扉がキィッと小さな音をたてた。外側に開かれ、光がさしこむ。
アリエイラは顔を上げた。見知ったシルエットに、立ちあがって駆けよる。彼の胸に飛びこんで抱きついた。
「なんだ。どうした。ここには人を襲うような動物はいないぞ」
そう言いながら、しっかりと抱きしめてくれる。顔を覗きこもうとする気配に、泣いていた痕を見られたくなくて、彼の胸に顔をこすりつけて隠した。
彼の心臓の音が聞こえた。とく、とく、と規則正しく鼓動を刻む体は温かく、また涙がにじんでくる。
ああ。神様。この人が生きていてくれたことに、感謝いたします。
「怖い夢でも見たか」
笑いを含んだ明るい声が頭の上から降ってくる。それに、自分のふるまいがいかに子供じみていたか気付き、彼女は身を引こうとした。すると彼は彼女の肩を押さえつけて、ひょいっと身を屈めて視線を合わせてきた。
みっともないのに。情けないのに。
なのに彼は少し驚いた顔をして、すぐに包みこむようにして抱きしめてくれた。
「ごめんな。寂しかったな」
優しい声で、なだめるように何度も背中を叩いてくれた。それが心地よくて、安心してアリエイラは彼に身を任せた。
「罠に獲物がかかっていた。うまそうな野草も採ってきたし、それから、これは土産。甘かったぞ」
彼が腰にさげた籠から葡萄を取り出し、目の前にさしだしてきた。どうぞ、という眼差しに彼女が手に取ると、彼は急に彼女を抱えあげた。驚いて動けずにいたら、そのままのしのしと連れていかれ、寝床の上で下ろされた。
「さあて、今日は久しぶりに違う味の飯にするか!」
「違う味? 何をつくるの? 手伝います」
アリエイラは彼を見上げて、勢いこんで言った。彼が料理をするというのなら、ぜひ手伝って覚えたかった。
彼はニッと笑って、葡萄を一粒摘んで、彼女の唇に押し当てた。
「うん。そうしてもらうか。用意するから、それ食べてな」
彼が皮から押し出した実から果汁がしたたり、彼女は慌てて口を開けて受け入れた。
「甘い」
葡萄はとても瑞々しく、驚くほど美味しかった。
「そうだろう?」
彼はくすくすと笑って彼女の頬を撫ぜた。
葡萄を堪能し終わったところで、洗い場に彼に呼ばれた。
葡萄の残骸はこっちと言われ、小さな籠の中に捨て、その横の桶の中で手を洗った。それから、洗い場の中に無造作に置いてある葉や泥だらけの根菜を、桶の中で洗うようにと言われた。一つ一つ丁寧に洗いながら、形を覚える。そして、洗ったものは笊にのせていった。
その間に彼は、生の肉らしきものを大きな厚い葉の上で小さく切り分けていた。元はなんだったのか、薄赤いだけのそれからは想像もつかなかった。
彼が一日外に出れば、これだけのものを見つけてこられる。それがどれほどすごいことなのか、今のアリエイラには理解することができた。
彼は全部切り終わると、別の厚い葉にナイフをのせて、アリエイラに渡してきた。
「切っておいてくれ」
そう言って、肉を持って竈の方へと行ってしまう。彼女は困ってナイフと笊の上の物を交互に見つめた。ナイフなど使ったことはなかったのだ。
でも、さっき、彼がやるところを見ていた。あれと同じにすればいいはずだ。
一人で、よし、と頷いて、右手でナイフをつかみ、左手で洗った葉をつかんだ。そして刃を当てようとして、どのくらいの大きさにすればいいのか悩む。
彼の方へ視線をやるが、彼は背を向けて鍋をかきまぜている。再びアリエイラは手元に視線を落とし、ちょっと躊躇ってから、口に入りそうな大きさになる場所に、えいっとナイフを押し当てた。ざくり、という感触が手に伝わり、葉が切り分けられる。
切れた! 彼女は興奮して目を輝かせた。すごい。私にもできた! 嬉しくて、楽しくて、夢中になる。
幅広の植物は細長いのにあわせて細くしてから切ってみたり、厚みのあるものも工夫して賽の目にしたり、あっという間にやりとげた彼女は、葉の上にこんもりと盛られた成果を満足気に眺めた。
目の端に彼が動くのが見えて顔を上げると、ちょうど彼が振り向くところだった。手に持っていたナイフを置いて、切り終わったそれを葉ごと持ち上げて見せてみる。
「もう入れますか?」
「ああ。持ってきてくれ」
零れないように慎重に運び、これ、と彼に見せると、それをちょっと見た彼は頷いて、入れて、と鍋を顎で示した。アリエイラは鍋を覗きこんだ。大事に持ったそれを、中にぼとぼとと落とす。切ったものが鍋の中で混ぜられる。初めてのそれが、誇らしくて、嬉しくてたまらなかった。
「どんな味になるんですか?」
彼女はうきうきと彼に尋ねた。
「さあ?」
「さあ?」
おかしな返事に、彼女は彼へと顔を向けた。
「どんな味になるかは、食べてみてのお楽しみだ。昨日までと違う食材を入れたから、違う味にはなるんじゃないか?」
思ってもみなかった、とんでもなく適当な答えが返ってくる。
「ええ? それだけ?」
アリエイラは思わずそう言った。
「それだけ」
彼女はとても驚いた。切って入れるだけなんて!
「あんまり美味しいから、何か特別な味付けをしているのかと期待していたの。入れて煮るだけだったなんて。とっても簡単なのに、すごいわ」
これならアリエイラにもできそうだった。
「本当だよな。俺も驚いているんだ。初めてにしては、よくできてるって」
えっ。彼も初めてだったの? それでこんなことができてしまうの?
アリエイラは彼をまじまじと見つめた。なに? と彼が首を傾げる。どうやら、彼にとってはなんでもないことのようだった。
彼女は素直に感心した。彼は本当にすごい人だ。
「さすがファー兄さまね」
アリエイラはにっこりと笑って言った。
彼は目を見開いた。それから目を細めると、おたまを放り出した。あ、どうしておたまを落としてしまうの、と目で追っていると、いきなり彼に抱き上げられた。そして、頬にキスをされる。その上、頬擦りまでされた。
どういうわけなのかちっともわからなかったが、彼に熱烈にカワイイと思われているようだった。何度も繰り返される頬擦りに愛情が伝わってきた。それに、心が弾む。アリエイラはくすくすと笑った。
けれど、剃り残しがじょりじょりと当たり、少々痛い。
「もう、いやぁ」
彼女は笑いながら、彼の頬を両手で押さえつけた。ところが、彼は面白がって、その手にも、すり、と擦り寄ってくる。掌までちくちくして、くすぐったくて、背筋がぞわりとした。
「ちくちくする!」
手を離せば、また頬へと襲いかかってくる。きゃぁ、やだ、と騒げば、彼は声をあげて笑った。
屈託のない、心の底からの笑い声だった。まるで少年のようで、アリエイラはどきどきした。
眼差しが合う。お互いの好意が透けて見えた。アリエイラは彼が愛しくて、その首へと腕をまわした。彼も笑みを深くする。今度は頬をこすりつけないで、ただ触れ合わせてきた。ちゅ、と軽くキスされる。
胸の奥が震えた。愛しさに、心臓をぎゅうとつかみあげられる。
彼の深い愛情が感じられるのに、物足りなくて、切なくなった。
もっと、触れたい。もっと。
キスは唇にして欲しい。あの時のように、素肌で触れ合いたい。
自分がなにを望んでいるのかを知って、アリエイラは、はっ、と熱い息をついた。そして、彼の首へまわした手で、そっと彼の肩を撫ぜた。指先に感じる彼の肌、筋肉、熱に、愛しさがつのった。
彼女は自分の中に、体の芯が蕩けていくような欲望があるのを知ったのだった。
ヒスファニエ視点 「出会い」5