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アリエイラは下品にならないように気をつけながらも、朝食のスープをがつがつと平らげた。おかわりが欲しくて、でも言い出せなくて、ちらりと彼を見上げると、彼は苦笑して、彼女の頭をぽんぽんと叩いた。
「そんなに急にたくさん食べると、腹がびっくりしてしまうからな。今はここまでにして、また腹がへってきたら食べるようにしようか。鍋はここに置いておくし、中身はたっぷりある。好きに何度食べてもいいが、一度に一杯ずつ。約束できるか?」
アリエイラは言外に何か含んでいるそれに、とりあえず、はいと頷いた。
「よし、いい子だ。実は、これから島の見回りと食料の調達に行ってこなければならない。アリィには留守番をしていてもらいたいんだが、頼めるか?」
「はい」
そう答えるしかなかった。彼についていっても足手まといにしかならないだろう。
「ここは他に人もいないし、人を襲うような獣もいない。危険なところも特にないが、迷子になるといけないから、この小屋の側から遠くに行ってはいけない。いいな?」
「はい」
「いい子だ」
彼はもう一度言って、またアリエイラの頭に手をのせた。いい子だと言う度に、彼は慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。そうして、可愛いなあ、という感じで彼女を撫でくりまわすのだ。
完全に子供にしか見られていない。確かに今のアリエイラは何から何まで彼の世話になっていて、人に頼らなければ生きていけない子供と同じだ。成人していますと言ったところで、彼に余計な気を遣わせるだけだろう。
ただし、彼は変わっていると思わずにいられなかった。普通、子供を可愛がるのは女性で、特に貴族の男性は子供に厳しい。自分が戦でいつ命を落とすかわからない中で、少しでも早く一人前の人間として教育しようとするからだ。アリエイラも王族の姫として、その心得から、立ち居振る舞い、人の使い方など教え込まれてきた。
けれど、こんな場所では、そのどれも役に立たない。アリエイラは一個の人間として、自分がどれほど脆弱かを思い知らされていた。
そして、彼のように男女の関係なく人を慈しむことこそ、本当に人間にとって必要なことなのだと、目が覚めるような思いで知った。
戦うために人生を捧げるのではなく、人を生かすために生きる。
そんな彼に、少しでも近付きたい。彼がアリエイラを自分の物だと言ってくれるなら、それに見合う人間になりたい。
そのために、まずはこの人の重荷にはこれ以上ならないこと。そして、少しでも仕事を覚えて、この人に認めてもらえるようになること。
アリエイラは彼が出かけていくのを戸口で見送りながら、心密かに決心したのだった。
彼女は手始めに、小屋の中を点検することにした。
戸口の横に水瓶。その横に、ちょっとした洗い場があった。角を曲がって、壁の手前中央に竈がある。横に薪も積み上げてある。少し離れたその前に、よく乾いた枯れ草を敷き詰めて寝床を作ってあった。彼が出て行く前に寒くないか確認をしてきて、今は埋み火にしてある。彼女の熱も下がったので、もう寒いことはなかった。
戸口と竈の反対側の二つの壁は、一面棚が設けられ、いろんなものがのせられていた。そこに納まりきらなかった物は、その前に雑然と積みあがっている。アリエイラはそれを一つ一つ見ていった。
籠。籠がいっぱい。深いのから浅いのから大きいのから小さいのまで。それに木彫りの皿。これも深い浅い大小とりそろっている。桶も同じ。スプーン、フォーク、おたま。ロープ。背負子。
アリエイラは珍しく金属でできた小さな箱を見つけて、中を開けてみた。するとそこには、金属の針が動物の脂に埋められて入っていた。それをちょっと出してみて、すぐに中に押し込める。あまり勝手にいじってはいけないと思い返したのだ。
他にも何かありそうだったが、そこから先は眺めるだけにして触らないようにした。彼が帰ってきたら、触っていいか確かめてからでも遅くないと思ったのだ。
それがすむと、アリエイラは一寝入りすることにした。疲れないうちにそうしろと諭されていたからだった。
彼女は寝床に行くと横になって、まわりの草をかき集めて体の上にのせた。そうして体を丸めて薄暗い部屋の中を眺めている内に、いつのまにか眠ってしまったのだった。
目が覚めたのは、何か物音がした気がしたからだった。彼が帰って来たのかと体を起こし、戸口をうかがうが、いつまで待っても扉は開かなかった。
アリエイラは立ち上がって戸口まで行き、扉を開けてみた。外はさんさんと日光が降り注ぎ、空は青く晴れ渡っていた。小鳥がチチチチと鳴きながら飛んでいく。爽やかな風が吹いて、彼女は誘われるまま外へ出た。
深呼吸を一つして、泉まで歩いていった。泉の側の大きな木に何か引っかかっている。よくよく見れば、それはアリエイラの服だった。手を伸ばしてみたが、高すぎて届かなかった。あれが着られたら、彼の服を洗えるのに、と思うと残念だった。
たぶん、洗濯はできる。祖母の顔や手を拭ってあげた布を、何度もお湯の中で揉み洗いした。あれと同じにすればいいはずだ。いい香りがするように、花や葉を乾燥させたものを入れたりした。あれはどの草なんだろう。
アリエイラはあたりを見回した。本格的に洗うには、それ専用の植物を使うことは知っていたが、どれがそれなのかまったくわからなかった。生活に使うもの、城で必要とするもの、そういったもののリストは知っていても、それがどうやってできあがってくるのかまではわからない。彼女は溜息をついた。
大木に手をつき、空を見上げた。枝にぽつんと白いものを見つけ、よくよく見れば、この木は蕾でいっぱいだった。思い切り背伸びしてもとどかなくて、えいっと跳ねて枝を掴む。そのままたわめて花を見ようとすれば、ふわりと甘く優しい香りがただよった。
『花嫁の花』と呼ばれる花のうちの一つだった。この香りで邪気を祓うと言われる聖木だ。清めが必要な場所には様々に飾られ使われるが、花嫁を清め、守るためにも使われる。聖花と言われるものの中で最も甘やかな香りをもつこの花で飾られて嫁ぎたいと思う女性は多く、そのため、結婚式はこの花が咲く期間に挙げられることが多かった。
花は女性の象徴でもある。花嫁の身を飾った花を一つ一つ取り除くのは夫となる者の役目であり、その薫り高い花一つ一つに、女性の身も心も捧げる意図が込められている。
アリエイラはぼんやりと、彼に見つめられながら髪に挿した花を抜き取られる様を想像し、はっと気付いて枝から手を離し、顔を覆った。あまりに恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
何を考えているのだろう。そんなの、あるわけがない。彼にとってアリエイラは子供で妹なのだ。それ以上になど、なれるわけがない。
それでも、彼がここに一人で置いていかれ、これから先もずっと一人でいるのなら、他の女性を娶ったりしない。その考えに、なんて自分勝手だろうと思いながらも、満足する。
たった一人。死ぬまで、たった一人なのに。
少し前に自分が味わった恐怖は、体が元気になったのと一緒に薄れていたが、まだ心の中に残っていた。自分はなんて残酷なことを望んでいるのだろう。
風に頭上の枝が一際大きくざわめいた。あたり一面の木々も草も強く吹き付けてくる風に、ざわざわと音を立てている。それがぴたりとなくなった。
人の気配がなかった。草木の、いや、この山の神気が、急に濃くゆらめいて立ち上ってきたようで、アリエイラは背筋を震わせた。
あたりを静寂が支配していた。怖かった。あまりに深閑とした強すぎる神気に、押しつぶされそうだった。
彼女はよろよろと小屋へ向かって歩き出した。数歩足が動くと、あとは何かに追いかけられるようにして走り出す。小屋へ辿り着くと、彼女は耳を押さえて寝床でうずくまった。
怖い。怖い。怖い。一人はイヤ。嫌。
ファー。ファー兄さま。
突然、彼が帰ってこなかったらどうしようという思いに囚われる。怪我したり、もしかして、死んでしまったりしていたら。
イヤ、イヤ、イヤ、イヤ! 帰ってきて。早く帰ってきて。どうか、無事に帰ってきて。
神様、お願いです。どうか、ファー兄さまをお守りください。
涙が零れた。彼を失うなんて、堪えられなかった。そうしたら、この世界にたった一人だ。それがどうにも恐ろしくてたまらなかった。
一人でなど、ここで一瞬たりとも生きていけない。今朝した決心がどれほど甘いものだったのか、痛烈に思い知らされていた。
お願いです。どうか、お願いですから、彼を無事にお戻しください。
アリエイラは泣きながら、繰り返し神に祈りを捧げたのだった。