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泉まで行って手と顔を洗って、口もすすいだ。それから一口口にすると、驚くほど美味しいお水だった。清涼感が体中に広がって、最後に残っていた気だるさの余韻も消えていった。
体は少しもふらふらしたりしなかった。ずいぶんお腹もすいていて、栄養を摂ってもっと元気になろうとしているのがわかった。それは、自分はもう大丈夫なのだと確信を持てるくらい、確固としたものだった。
けれど、実際問題として、アリエイラがここで一人で生活していけるかというと、自信はなかった。自慢にはならないが、お姫様育ちなのだ。
二年間にわたり、病の祖母を看病したので、身の回りの細々したことはできる。しかし、例えば食事を作るとか、洗濯をするとか、そういうことはできなかった。当然、食料を手に入れてくることもできない。彼から離れたら、自分はあっという間に飢えるだろうという予感はあった。
でも、浅瀬には海草もあるし、アリエイラにだって、貝やカニくらい獲れるだろう。それに、これだけ木が多ければ、食べられる木の実の一つや二つ見つかるに違いない。
きっと、二、三週間の我慢だ。アリエイラがいなければ、王太子が決められないのだ。絶対に国から捜索隊が出されるはずだ。それを待つ間だけ、しのげればいいのだから、なんとかなるに違いない。
そうだ。毎日砂浜で狼煙を上げよう。少しでも早く、見つけてもらえるように。それは良さそうな考えに思えた。
なんとなくこれからの見通しが立ち、不安が軽くなったところで、小屋へと向かった。
あとは、アリエイラに生活能力がないことがばれないように気をつけて、彼の許から出て行く了承を得るだけだ。
お礼を言って、感謝していることだけはちゃんと伝えたい。だけど、ブリスティンの人間として、ユースティニアの人間には世話になれないと、そう言えばいいだろう。
彼もそれで納得してくれるに違いない。なにしろブリスティンとユースティニアは、もういつからなのかわからないほど昔からの仇敵同士なのだから。
心を決めて小屋の扉を開ける。するといい香りが充満していた。いつも飲ませてもらっていた、あのスープの匂いだった。
竈の前にいた彼は、アリエイラを見ると、にこりとした。
「大丈夫か」
「はい」
アリエイラはそれ以上、うまく言葉が出てこなかった。なるべく早く話さなければ、と思うのに、彼の顔を見たとたん、熱く鈍い痛みが胸に広がり、それで頭の中もいっぱいになって、何をどう話すつもりだったのかもわからなくなってしまった。
彼女は扉の前に立ったまま途方に暮れて、見るともなく小屋の中を見回した。雑然としているけれど、不思議と居心地のいい場所だった。
「まだ横になっていろ。俺は水を汲んでくるから」
彼が近付いてきて、扉の側にあった桶を取り上げた。あっと思って、とっさにその場で跪く。その勢いのまま拳をつくって、顔の前まで持ち上げ、最敬礼の姿勢をとった。すると、すらすらと言葉が出てきた。
「助けていただいて、ありがとうございました。たいへんお世話をおかけしました。このご恩は一生忘れません。必ずご恩に報いることを誓います」
彼の膝辺りを見ながら言い切った。なぜかその膝が、見ている前で下に落ちていき、地についた。かと思うと、自分の手が温かく大きい手に包まれる。押されるままに下ろした先に、真剣な目をした彼の顔が現れた。
「礼なら神に言えばいい。俺は神からの賜り物をありがたくいただいただけだ。自分のものを大事にするのは当たり前だろう。俺は君に恩を感じてもらうほどのことはしていないよ」
アリエイラは彼を見つめたまま、あまりに痛む胸にうまく息ができず、喘いだ。
ただただ与えて、見返りを求めないで。感謝すら神に捧げろと言う。彼女は彼みたいな人を他に知らなかった。
どうしてこの人は。
こんな人が、この世に存在しているなんて。
切れ切れになった言葉が頭に浮かんでは消えていった。
「ごめんなさい」
アリエイラは涙を必死に我慢しながら謝った。自分という存在がいたたまれなくてしかたなかった。謝るほか、どうすればいいのかわからなかった。
「謝らなくていい。遠慮もするな。俺の物だと言っただろう。もっと元気になってもらわなければ、俺は満足できないぞ。元気になるまで、しっかり甘えてろ」
俺のもの、と言いながら、口にするのは彼女に対する気遣いばかりだ。なのに、そのアリエイラは彼のものである価値もないのだった。
彼女はきつく目をつぶって、横に激しく首を振った。
「違うんです。ごめんなさい。私、私は、ブリスティンの者なのです。あなたは、ユースティニアの方なのでしょう?」
彼は動きを止めて、アリエイラを見た。けれどその視線は彼女を通り越して、どこか遠いところを見ていた。なんの表情を浮かべないで、瞬きすらしない。それは初めて会った時の表情に似ていた。
アリエイラは急に怖くなった。彼は違うと勝手に思ってしまっていたけれど、彼にもブリスティンに対する恨みや憎しみがあるのかもしれなかった。
王子たちやまわりの人々の顔を、一瞬で醜く恐ろしいものにする、あの感情が。
それを、優しい彼の中に呼び覚ましたくなかった。憎しみは、人の心に棲みつく獣だ。胸の内で育てれば、いつしか人の心を喰らってしまう。
そう。王子たちも昔は優しかったのだ。仇をとってやる、という言葉も、初めはアリエイラを慰めるためのものだったはずなのだ。それがいつからか違うものになってしまった。
そうなる前に、彼の前から消えなければ。
アリエイラはふいに、この服が自分の物でなかったことを思い出した。これは彼の服だ。彼女が着てしまっているから、彼は着るものがないのだった。これを着て出て行くわけにはいかない。
無意識に帯をほどこうと手を引き寄せ、温もりが失われてから、未だ彼の手の中にあったのだと気付いた。それを名残惜しく思いながらも、結び目に指をかけて言う。
「これ、お返しします」
「脱ぐな」
彼はそう言ってくれたが、そんなわけにはいかないと、急いで反論を試みた。
「で、でも」
「昨日、干したまま取り込み忘れた。きっと朝露で湿ってる」
「それでいいです」
「子供でも、男の前で服を脱ぐな」
思いがけないほどきつく言われて、アリエイラは、びくりと体を竦めた。子供じゃない、と反発を覚えながらも、有無を言わせぬ声音に、心まで竦んでしまっていた。
すると、頭に手が伸びてきてぐしゃぐしゃと髪をかきまぜられた。その、いつも彼が彼女をかまうのと同じ感覚に、体のこわばりが自然にとけていく。
「ユースティニアの男だって、女子供をどうにかするほど残酷じゃない。それに、俺は知ってて君を拾ったんだ。一緒に流れ着いた船体の破片に、ブリスティンの魔除けの目が描かれていたから」
知っていた? 知っていたのに、ずっと親身になって面倒をみてくれたというの?
なんの気負いもなく言う彼に、アリエイラは様々な感情が湧き上がって言葉を失った。自分の鼓動がどくどくとうるさく鳴り響いていた。視線を惹きつけられたまま、彼から目が離せなかった。
そんな彼女を見て、彼は苦笑した。
「海から流れ着いた物は、すべて神からの賜り物だ。君が誰でも俺にとっては賜り物だ。一生恩に着る気があるなら、賜り物らしくふるまえ」
彼は優しい表情をしていた。その彼が求めてくれるなら、少しでも彼に恩が返せるのなら、アリエイラはなんでもしたいと心から思った。そして、なれるものなら、本当に彼のものになってしまいたいと。彼に見合うものに。
でも、肝心のその意味がよくわからないのだった。
「賜り物らしく?」
疑問のままに尋ねると、彼は頷いた。
「そう。ここにいる間は、君は俺の養い子だ。子供らしく甘えろ」
子供? 養い子?
そういえば、さっきも子供と言われたのを思い出し、彼に子供に見られているということに、なぜか酷く傷ついた。
そんなことは初めてではなかった。アリエイラは背が小さい上に童顔だ。初対面の人間は、たいてい彼女を子供として扱う。
けれど、なぜか彼にはそう見られたくなかった。アリエイラは一人前の成人した女性として彼に接しているつもりだったし、そう見てもらっているつもりでもあったのだ。
だけど思い返してみれば、子供だと思っていたから、彼は平気で裸の彼女を抱き締めて温めてくれたのかもしれなかった。汗をかいた服を、何度も着替えさせたりしてくれたのもそうなのだろう。
それに思い至って、きりきりと胸が痛んだ。自然に涙が滲んでくる。彼女を見守る彼が、心配そうに表情を変えるのを見て、喜びとも切なさともつかないものに捕われた。その熱は瞬時に胸から全身に巡り、指先まで疼かせた。
突然、アリエイラの中で、その熱がはっきりとした形をとった。体の中から取り出し、掌の上にのせて示せそうに思えるほど、確かに。
この人が、好き。
好き。
深く熱く強くアリエイラを侵す思いを瞳に宿し、彼女は彼の存在に魅入られて、見つめた。
気遣う眼差しが慕わしい。アリエイラの髪をくしゃくしゃにしたままそこにあった彼の指が、なぐさめるように頬を滑り降りてきて、目の下をさすった。その甘い感覚に酔い痴れる。体が破裂しそうなほど熱が膨らんで、それに押し出されるようにして、さらに涙が滲んだ。
すると彼はあせったように言葉を紡いだ。
「いや、甘えてくれ。甘やかしたいんだ。こう、なんというのか、可愛くって、楽しいんだ」
甘やかしたい? 可愛い? 楽しい?
そう思われていることに、どきどきした。とても嬉しかった。アリエイラは有頂天になった。なのに、彼は続けてこう言った。
「あー、いや、ほら、妹とか、弟とかいなかったから、新鮮というのか」
妹? 新鮮?
アリエイラは愕然として彼を見上げた。彼は、はっと我に返ったようにして、恥ずかしげに顔をそむけた。それに、今聞いた言葉が、どれも幻聴でなかったことを知った。
「妹、ですか?」
だから可愛がって甘やかしたいと? 聞き間違いではないかと、一縷の望みをかけながら、聞いてみたのに。
「嫌でなければ」
彼は横を向いたまま、気まずそうに答えた。
初めが子供で、次が妹。良く考えればすぐにわかったはずなのに、つい甘い夢を見てしまったと、アリエイラは自嘲した。いったい、子供と妹とどちらがましだろう。どちらも女として見てもらうには障害が多いように思えた。
それでも、恥らっているらしい彼の姿は、なんだかかわいかった。大の大人が目を合わせられずに、座り心地が悪そうにしている。そのままにしておくのはかわいそうで、なんとかしてあげたくて、アリエイラは短い逡巡の後、独り言のように囁いてみた。
「では、ファー兄さま、とお呼びした方がよいのでしょうか」
彼は、思わず、といったようにこちらに視線を戻した。それに、どうしたらよいかと問いかけるために小首を傾げる。彼は、ふっと笑った。
「それでいい、アリィ」
彼が彼女の名前を呼んでくれた。それだけで、胸の奥がくすぐったくなる。嬉しくてたまらなくなる。
アリエイラは自分が完全に説得に失敗したのに気付いていなかった。そんなことは忘れてしまっていた。
彼女は初めて知った恋故に、それに逆らう術もまた、持ちあわせていなかったのだ。
ヒスファニエ視点 「出会い」3、4