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目が覚めると、いままでのだるさが嘘のように、頭の中がはっきりとしていて体が軽かった。
小屋の中には壁の隙間から光が帯のように射し込んでいた。昼間らしい。これまでぼんやりと見ていただけだった室内を、改めて見回した。小屋自体はそれほど小さくないのに、壁際の棚に入りきらなかった物が雑然と積み上げられており、そのために狭くなってしまっているのが見て取れた。
目の前には竈まである。いったいここはどういう場所なのだろうと、アリエイラは首を傾げた。
それから頭だけ動かして、寝息をたてている彼を見た。少し無精ひげが生えている。起きている時は精悍な感じの大人の男の人なのに、こうしているとどこかあどけない感じがあった。
かわいい、という感想が浮かび、アリエイラは微笑んだ。なんだか切なくなって、濃い茶色をした短い彼の髪を梳いて、抱き締めたい気がした。
彼はぐっすりと眠っていて、疲れているのだろうと思われた。ずっと夜も昼もなく面倒を見ていてくれたのだから、当たり前だ。感謝でいっぱいになって、目の前の彼の胸に、触れるか触れないか程度のキスを一つした。
この人に、神の祝福がありますように。そう心から願いながら。
アリエイラは彼を起こさないように、じっとしていたが、もう眠気は全然やってこなかった。
そのかわりというのか、困ったことに、用を足したい欲求がじわじわとわきあがってくる。
彼は何かあればすぐに起こせといつも言っていたけれど、体は楽になっているし、よく眠っている彼を起こすのは気がひけた。
そこでアリエイラは一人で行ってこようと、そろりと動いて、ゆるんでいた彼の腕の中から抜け出した。静かにゆっくり体を起こす。なのに、彼が何の脈絡もなくむくりと起き上がって、アリエイラはびっくりして固まった。
「どうした。腹がへったか」
どうやら開かないらしい目をこすりこすり、欠伸をしてから、彼が聞いてくる。途中で目が開くと、少しやぶ睨みの眼差しで手を伸ばしてきて、彼女の髪を撫でつけた。彼の髪もあっちこっちはねている。自分のもそうだったのかもしれないと思い当たって、恥ずかしくなった。けれど彼は満足そうに口元をゆるめて、撫でつけるのをやめて、ぽんぽんと彼女の頭に掌を置くようにして軽く叩いたので、たぶん、寝癖は落ち着いたのだろう。
彼は小さく首を傾げて、どうした? と今度は目で問うてくる。アリエイラははっとして答えた。
「いえ、あの、外、に」
とまで言ったところで、用を足しに行きたいと言い出せず、口ごもった。
「外?」
重ねて聞かれ、頷いて、外で、と返すが、やっぱり言えなくて困り果てる。しばらく無言で上目遣いで見上げていると、彼は、ああ、という顔をした。
「わかった。行こうか」
そして当然のように抱き寄せられて、子供を腕に乗せるようにして、ひょいっと抱き上げられてしまった。
アリエイラは18歳だが小柄だ。たぶん、12、3歳くらいの子供とそれほど変わらない。それにしても、あまりに軽々と抱き上げられ、彼の膂力に驚いた。
彼が一歩扉へと歩き出したところで、今がどういう事態になっているかようやく理解して、慌てて叫んだ。
「いいえ、いいえ、いいえ、けっこうです! 一人で行けます!」
何を言っているんだという顔で、放してくれそうもない彼の肩に手をついて、一所懸命ぐいぐいと押してみるが、びくともしない。
「ぜんぜん力が入ってないだろう。今さら遠慮はするな。連れて行ってやる」
「遠慮じゃありません。本当に、けっこうです!」
力も話も通じないのに焦って、早口で言い募ったら、なぜか彼は笑い出した。
「元気になったなあ」
そして、嬉しそうにアリエイラの背中を優しくさする。
それに、アリエイラは胸を衝かれた。彼の厚意が嬉しくて、ありがたくて、痛かった。申し訳ない気持ちでいっぱいになって、思わずうなだれた。
「なんだ、どうした。まだ体が辛いのか」
急に黙りこんだアリエイラに、彼は心配げに声をかけてきた。彼女はそれに、答えることができなかった。なんでもありません、と横に首を振るだけでせいいっぱいだった。
どうしてこの人はこんなに優しいのだろう。
アリエイラは姿勢を保つために彼の肩についた手に少しだけ力を込めて、彼の体に身を寄せた。
用を足す専用の施設はないということで、俺はあのへんでするから、君はあっちの方でするといい、と言って、小さな茂みがいくつもある場所で降ろしてくれた。アリエイラが少し奥へ入ってから振り向くと、そっちでいい、というように頷いてから、彼は小屋へと帰っていった。
小屋の周りはいくらか開けた場所になっていて、その真ん中あたりには、水場らしき小さな屋根があった。他は、斜面を下った方に大きめの建物がいくつか見えた。それらも辛うじて残っているという感じで、どこもかしこも鬱蒼と樹木が生い茂り、今にも森に飲み込まれてしまいそうだった。
あまりにも人の気配が感じられない。鳥や虫の声と木々のざわめきだけ。その静寂に、心が洗われる。まるで、神様がそこにいらっしゃってもおかしくないような場所。
惜しみなく人に与えることのできる優しい彼が住むのに、相応しい場所だと思った。
きっと、王子たちなどここへ踏み入ることさえ許されないだろう。神に罰をあてられるに違いない。
アリエイラには、はとこである、強く猛々しく頼りになると言われている王子たちが、何か醜いもののように感じられた。
いいや。それこそが、ずっと感じていながら心の奥底に隠していた本音だったと気付く。
『アリエイラ、おまえの父の仇をとってやるからな。ユースティニアなど、滅ぼしてくれる』
そんなことなど、望んだことはなかった。アリエイラはただ、父を失ったのが悲しいだけだった。父に帰って来て欲しいと、そう願っていただけだった。他の誰かを殺して欲しいなんて、そんなこと思いもしなかった。
なのに誰もが、ユースティニアの王太子を殺した『英雄』の娘が、敵討ちを望むのは当たり前だと考えていた。
アリエイラは彼らが考える『英雄の娘』を演じ、ユースティニアへの復讐を誓いながら、心底からそうなれない自分を、親不孝な娘だと情けなく思っていた。
でも、違うのかもしれない。彼女は初めてそう思った。
この神々しい場所では、憎しみこそが異質だった。彼ならばきっと、彼女の気持ちをわかってくれる気がした。
けれど、だからこそ、許されない。
アリエイラは唇を噛んだ。
彼女は、いずれ『英雄の娘』として王妃になる。憎しみの象徴になる。
彼に、そんなものに、これ以上触れさせてはならない。
彼女は両手で口と鼻を覆うようにして目をつぶった。彼の傍にいたかった。離れたくなどなかった。でも。
どうか、勇気をください、神様。
彼女はそっと、心の中で唱えたのだった。