誘惑1
世界がぐらりとまわった。その気持ち悪さに呻く。ひどく喉の下あたりが痛い。何かが当たっているみたいで、それをどうにかしたいのに、腕がうまく動かない。とても体が重かった。寒くてたまらない。
アリエイラはゆっくりと目を開けた。
目の前には何もなかった。薄青い空が広がっている。
空? え? どうして?
不安が一挙に心に広がるのを感じながら、あたりを見回す。砂浜。海。そして、人。
すぐ傍に、冷ややかに見下ろす男がいた。その男が持った棒で、アリエイラの鎖骨あたりを押さえつけている。ざっと恐怖が背筋を這いのぼった。
誰? 何? どういうこと? 誘拐?
王位争いをしている王子たちのうちの、誰かの仕業なのかもしれなかった。ただ、それにしては王太子妃に対する態度ではない。
では、海賊?
目の前の男の身分として、それは相応しい気がした。どこか人には従わない気高さがある。海賊はならず者の集団がほとんどだが、まれに、政争で逃げ延びた王族の末裔もいる。ちょうど彼はそんな感じだった。
だとしたら、話が通じるかもしれない。ただのならず者では、死ぬまで慰み者にされるばかりだろうけれど。
アリエイラは一縷の望みにすがって、王女の品格をもって、その男に話しかけた。
「何者です。なんのつもりでこんなところに攫ってきたのですか」
男は少し首を傾げ、呆れた顔をした。面に表情がのって、得体の知れない怖さはなくなる。
「君は昨夜の嵐で難破してこの島へ流れ着いた。俺は君を拾う義務があるのだが、姫はお気に召さないようだな」
アリエイラは、あっと声をあげた。そう。嵐。昨夜、酷い嵐に船がみまわれた。ギシィ、ギシィ、と船は軋み続け、終いには、悲鳴をあげるようにして裂けて壊れてしまった。
「レイド様は? サティは? ウィル、グイアス、シエイナ、誰か他に流れ着いた人は?」
「さあ。姫の他は、見ていないが」
「船は。船はありませんか。波間で助けを待っているかもしれません。どうか力をお貸しください」
自分が難破したことを思い出し、アリエイラは必死になって、誰とも知れない男に懇願した。
すぐにでも他の乗員の捜索に行かなければならない。事態は一刻を争う。船が難破したのは夜。あれからどのくらいたったのだろう。太陽の位置が低いから、朝か、もしかしたら夕方なのかもしれなかった。
「すまないが、船はない」
ゲシャン海域の者は、海の恵で生きている。船のない島など有りはしない。
ならばそれは、ただで動かせる船がないということだろうか。どうやら男は人攫いでも海賊でもないようだったが、この島の商人なのかもしれなかった。人を助けるのに、なんてごうつくばりなことを言うのだろうと思いながらも、それならばと提案をする。
「お礼なら、国に帰ったらいくらでも」
「そうじゃない」
彼は首を横に振って言った。
「俺もこの島に一人で置いていかれたんだ。力にはなれない」
「そんな」
嘘は感じられなかった。彼の言葉を信じると同時に、一緒に船に乗っていた者たちを誰一人救いにいけないと悟って、涙があふれた。
今頃彼らはどうしているのか。水底に沈んでしまったのか。それとも、木切れにでもつかまって、冷たい海に浮いて助けを待っているのだろうか。
堪らずに、震えて口の中で呟いた。
ああ、どうか神様、彼らに慈悲を。
「君も体が冷えきっているだろう。服を乾かした方がいい。あちらに建物がある。そこに案内しよう」
首下の圧迫が消えたと思ったら、彼がアリエイラのすぐ傍にしゃがみこんだ。彼女は、涙で歪む目を凝らしながら、彼を見つめた。
この人は、何か罪を犯したのだろうか。島に一人で置いていかれるなんて、犯罪者ぐらいしか思いつけない。それも、島流しにされるほどの罪なんて。いったい何をしたのだろう。
彼に荒んだところはなく、暗さも鬱屈も感じなかった。むしろ、真っ当すぎるほどの気遣いにあふれている。とても悪いことをする人には見えなかった。
だったら、何か間違いを犯してしまったのかもしれないと思い至った。たぶん、事故かなにかで人を死なせてしまったのに違いない。
アリエイラは鼻をすすりあげて瞬きをした。涙がぽろりぽろりと両目から一つずつ転げ落ちていった。涙で喉が震えてしかたなく、きちんと話せそうになかったから、はっきりと大きく頷いてみせた。
すると彼がアリエイラの腕を掴み、引っ張りながら背中にも手を入れて起き上がらせてくれた。どうも体がふらふらする。それでも必死にバランスを取りながら、アリエイラは胸の前で左の拳を右の掌で包んで、顔の前まで持ち上げ、正式な礼をした。
「お世話になります。よろしくお願いいたします」
「ああ、たいしたもてなしはできない。堅苦しい挨拶はいらない」
彼が苦笑とわかる笑顔を見せた。そうすると、初めの無表情だった彼とは別人に見えた。なにか温かいものを感じさせる。
「俺はファー。君は?」
たぶん愛称なのだろう。それは、奇しくも婚約者候補の一人であるラファエラ王子の愛称と同じで、胸が苦しくなった。あの、冷たく、熱く、恐ろしい彼と同じだなんて。
アリエイラは少しの混乱の後、自分も教えないわけにはいかないと思い出し、急いで答えた。
「アリィです」
「アリィ」
彼は舌で転がして味わうかのように彼女の名を呼んだ。なんだか恥ずかしくなりながらも、はい、と返事をする。
彼はそれに、にこりと人好きのする笑みを浮かべた。それから、彼女を上から下、下から上へと眺め回し、ごく普通な感じで耳を疑うようなことを言った。
「君の帯も貸してくれないか?」
言いながら、もう自分の帯をはずしている。アリエイラは貞操への強烈な危機感に思わず胸元を押さえて、うまく動かない体でじりじりと後退った。
そうすると、彼は、はた、と止まって、ああ、という理解の色を示し、また苦笑しながら説明しだした。
「建物まではけっこう歩かないとならない。君を背負っていこうと思うんだが、俺の帯だけでは背負い紐にするには短すぎるから」
アリエイラはその筋道の通った理由に、あまりのバツの悪さに真っ赤になってうつむいた。そして大急ぎで帯をはずしにかかる。ところが凍えて指の感覚がなく、いっこうにうまくいかない。焦りに焦っていると、声がかかった。
「失礼しても、いいかな?」
確かに、このままではいつまでたってもはずせない。はずせないけれど、成人した女性の帯を解いてもいい男性は夫だけなのに。
彼に他意がないのは、さっきからのやりとりでわかっていた。アリエイラは無意識に下唇を噛んで、葛藤しながら彼を上目遣いに見上げた。彼は人の好さそうな穏やかな顔で返事を待っている。危険な感じは欠片もなかった。
今は非常事態なのだから。彼に任せるしかないだろう。
彼女は決心して、こっくりと頷いた。そして、恥ずかしさに彼を見ていられず、うつむく。その視線の先に彼の手が伸びてきて、アリエイラの帯に触れた。
アリエイラはクラクラとするような緊張の中で、彼の無骨だけれど長い指が、帯以外のどこにも触れずに、濡れて固く締まった帯を手際よくほどいていくのを、じっと見ていたのだった。
ヒスファニエ視点 「出会い」1