運のつき
王城に連れていかれたのは、8歳の時だった。その日、隣家のアレクトーと庭のカエルを捕まえて遊ぶ約束をしていた俺は、とにかく不機嫌だった。
そうして押しつけられたのは、6歳のクソガキのお守りだった。第二王子ヒスファニエ様だ、しっかりお相手を務めるのだぞ、と言い含められ、問答無用で俺をここへ連れてきた父は、仕事に行ってしまった。
部屋には他にもたくさん人がいた。護衛とか侍女とか女官とか、全部大人だ。その中で俺たちだけが子供だった。
第二王子は、じろじろと人を見たあげく、ぷいーっと横を向いて、扉へ向かった。近衛が扉を開けて押さえると、くるりと後ろを振り向いて、こちらをじっと見る。どうやらついてこいということらしかった。デュレインが足を踏み出すと、また、ぷいっとして歩き出す。そんな調子で階段の上まで来た。
手すりに片手をやった第二王子は、隣に立ったデュレインを、チラリと見る。一瞬、にやっとしたかと思うと、手すりに両手をかけて、やっと声をあげてその上に乗り上げた。そのまま、正面を向いて座って、その上を滑り始める。
デュレインは唖然とした。階段は途中で折れ曲がっており、もちろん手すりも曲がっている。そのまま行けば階段の外、つまり下までまっ逆さまだ。
「お待ちください!」
護衛が全員慌てて階段を駆け下りだした。
王子は器用に手すりについた手で減速し、落ちることなく角をまわって、さらに滑っていく。
つまり。これをやってみせろと。
冗談ではなかった。そんな年頃はとっくに卒業した。勇気を競って従兄弟と言い争いをした末に、やはり階段から飛び降りて足を折ったのは一昨年だった。こちらはもう、そんなガキではないのだ。
デュレインは懐からおもむろにロープを取り出した。細いが、体の小さい彼を支えるには充分なものだ。その端を手すりに引っ掛けてから輪を作ると、自分の腰に回す。それから手袋を取り出してはめて、手すりに登り、またいでその向こうへと行った。そして、ロープを頼りに、するすると下りた。
下でそれを見ていた王子は、きらきらと目を輝かせ、よし、次に行くぞ! と言った。
足音が近い。王子! お待ちを! という声も。
「少し待て」
そう言って、デュレインはロープを階段の柱にくくりつけ直すと、それを引っ張っていって、反対側にある置物の石の台座に縛りつけた。足元から10cmほどの高さだ。うまく引っかかれば、護衛は転んでくれるかもしれない。
空をきる音が聞こえ、ダン、と目の前に護衛が降ってくる。どうやら途中で飛び降りてきたらしい。
「逃げろ!」
王子は一目散に走り出した。それにデュレインも続く。
後ろで派手に人の倒れる音がして振り返れば、痛みと怒りに顔を歪めた護衛の目と目が合ってしまった。その後ろからも次々護衛が現れ、子供の足ではすぐに追いつかれると思いながら、王子を追う。
王子は回廊に出て、間一髪で大人では通り抜けられない垣根の下にもぐりこんだ。がさがさという音だけを頼りにそこを抜け、次はどっちだと見回せば、少し先の庭木の陰で背を低くして、こっちこっちと手招いている。
そんな調子で庭園も突っ切り、たどり着いた場所は練習場だった。
やはり生垣の下にもぐりこみ、中で剣を振り回す大人たちを見る。
「あれ、兄上」
小さな指が指し示した先には、王子と良く似た髪色の青年が、左手に盾を、右手に剣を持って戦っていた。少々押され気味だ。どうも、剣を使えば盾が、盾を使えば剣がおろそかになるようだ。
「いいなあ。俺もはやく、本物でやってみたい」
俺たち子供は、まだ軽い模擬盾に模擬剣だ。
「かっこいー剣が欲しいなぁ」
剣の大きさは、その男の膂力で決まる。小さいのは格好悪い。
「それには握力と腕力だ」
自分の師に言われているのを、そのまま受け売りする。
「これとこれだな」
初めに小さな手をにぎにぎとし、次に腕を折り曲げた。
「これから練習しに行くか!」
「かまわないけど」
どうだろう? 後ろから、足音が複数近付いてきている。
王子は、もっと中に来い、とデュレインを引っ張った。そして、そこにいろ、と男前に笑って、生垣の外に出て行く。
「ヒスファニエ様、勉強の時間にございます。どうぞお戻りくださいませ」
「わかった」
そう答えた王子の後ろから、デュレインものそのそと頭を出した。
「なんだ。後でこっそり帰ればよかったのに」
振り返って、馬鹿だなあ、という顔をする王子に、
「俺も授業を一緒に受けろって言われてるんだ。勝手に帰ってみろ。殴り飛ばされる」
と言えば、
「へえ。俺は殴られないけど、帰ったら、いっぱい怒られるぞ」
先生だろー、乳母だろー、母上だろー、それに時々父上な。王子は指折り数えて、得意げにした。
「けど、まあ、しかたない。ギムだからな」
腰に手を当てて、ふんぞり返って言う。
たぶん恐らく、王子の口にしたギムは義務だろう。どうも用法が間違っている気がする。勉強ではなく、怒られる方が義務になっているようだ。
こいつ馬鹿だ、とデュレインは容赦なく判定を下した。デュレインがこれまで会ってきた子供の中でも、一番の馬鹿。
でも、と思う。やり方は稚拙でもデュレインを守ろうとした。それは、買っていい。馬鹿は馬鹿でも、とっておきの馬鹿だ。
ふん、と鼻を鳴らしてデュレインは笑った。
「じゃあ、義務を果たしにいくか」
「おう」
王子は元気に答えて、意気揚々と歩き出した。
しかしその後、王子と一緒に城で叱られまくり、家に帰っても母に泣かれ、乳母の長い小言にうんざりし、父に拳骨を喰らい、散々な目に遭ったのは言うまでもなかった。
まあ、いわゆる、あれが運のつき、というやつだったのだろう。俺は一生、あいつのお守りをして生きるのだ。
デュレインは、自分の乗る船とは反対に遠ざかっていくヒスファニエの船を、目で追いながら考えた。
ここ半月あまりで知った、ブリスティンのラファエラ王子の性格を考えれば、あの姫が無事ですむとは思えない。
だとすれば、彼らのこちらへの対応も、友好的であるはずがなかった。そんな場所へヒスファニエを行かせるわけにはいかない。そして、彼女への執着ぶりを見れば、その代わりを務めるのがデュレインでなければ、ヒスファニエが頷くわけもなかった。
この追跡が、非常に危険なものになるのは目に見えていた。
足元がすかすかとするような、不安が立ち上ってくる。
それでも、面白いと思ったのだ。見てみたいと、やってみたいと思ってしまった。
あのきかん坊のクソガキが、イッパシの男になるのを一番傍で見てきたのだ。奴の暴挙のせいでずいぶん煮え湯も飲まされたものだが、退屈だけはしなかった。
ブリスティンの姫を娶って、和平を結ぶ? それこそ夢のような話だ。だが、それができれば、ユースティ二アは確実に発展するだろう。
あいつは歴代一の名君として歴史に名を刻むかもしれない。いや、そうさせたい。あいつや仲間たちと一緒に、より良い国を築いていきたいのだ。そのために、ずっと皆で研鑽を積んできた。俺たちならできるはずだ、きっと。
ヒスファニエの船が、水平線の彼方に消えた。デュレインは踵を返して舳先へと向かった。
デュレインの前に、海原も空もどこまでも青く広がっていた。彼には、その中に望む未来が存在するように感じられ、いずれ自分たちの手で、それを掴み出してみせると、強く心に誓ったのだった。