エピローグ 君に会いに
その日も、重く軋む体で玉座へと着いた。 王位に就いて五十数年。最早、戦場に立つこともかなわなくなった。
今日は、東のエランサ大陸の最前線にいるはずの将軍ウルティアが面会を申し入れてきたという。
『突然』、『戦線を離れて』、『命令違反』、『不敬』。まわりでこれみよがしな愚かな言葉が飛び交い、うんざりして手を振った。とたんに静かになり、誰もが固唾を呑む。
ヒスファニエは溜息混じりに命じた。あれを通せ、と。慌しく取り次ぎが出て行き、人々は彼をうかがって黙り込んだ。
『エーランディア聖国』聖王宮の謁見の間は、しばらくの間、『聖王』をはばかって静寂が支配した。
軍神ウルティア。白い髪と血色の瞳を持つ戦神。
それと同じ容姿を持つ、目の前に立った女を、ヒスファニエは無表情に見つめた。
王宮に入る際に剣は取り上げられ、今は丸腰だ。だが、腹心アルツイードが怪我を負って一線を退いてから、心血を注いで育て上げた娘だ。素手であっても、この場にいる全員を殺すことは可能だろう。
惚れ惚れするような、隙のない身のこなしに見入る。そこに、これの母であるあの女の面影は見出せない。それに安堵しつつも、残念だという気持ちもわずかに混じっていた。
なぜなら、あの女は、アリィとそっくりな顔と声を持っていたのだから。
あの女。中身はアリィと似ても似つかなかった女。同じ声、同じ眼差しでありながら、なのに、一つ一つ違う反応を返した。それがどれほどヒスファニエの心を逆撫でしたことか。
どんなに教えても、名前一つ満足にアリィと同じに呼べなかった。歩き方、話し方、食べ方、笑い方、怒り方、喘ぎ方、すべてを教え込んだというのに、教えれば教えるほど、その目は怯え、やがて表情をなくし、無反応になっていった。
彼の種を欲しがって群がった女どもより、心底鬱陶しく、忌々しかった女。ヒスファニエはあんなものに、二度と遭いたくはなかった。
ウルティアは膝をつき、拳を額まで掲げた。ヒスファニエはそれに問いかけた。
「バルトローはどうした」
気狂いの末にウルティアの母が死んだ後、ウルティアを引き取って育てたのがバルトローだった。恐らく、バルトローの師でもあったアルツイードにでも、進言されたのだろう。
バルトローはルルシエの息子だ。
ルルシエは、最後までヒスファニエを罵り、呪いを吐き散らして死んでいったそうだ。彼女を王妃にしなかったからではない。彼がデュレインを死なせたからだった。
彼女がデュレインを愛していたのは知っていた。王族の男子に性技を教える『成人の儀』の前に、彼女が男を知るために、デュレインを指名したのも薄々わかっていた。
もし、デュレインも彼女を愛していたなら、ヒスファニエは彼女を妃候補として受け入れはしなかっただろう。確かに、傍流とはいえ王族の血を引く宰相の息子と、正統なユースティニア王族の結婚は、問題がある。しかし、デュレインがヒスファニエを裏切るなど、ありえなかった。むしろそうなったとすれば、ヒスファニエに王の資質がなかったということであり、殺された方が国のためとなったはずだ。
だが、デュレインはルルシエに興味がなかった。ただ、ヒスファニエの妃になる女、王妃候補という点にのみ、興味を示したのだ。
だから彼女は、あれほど王妃の位に執着したのだろう。それも、デュレインがいなくなってしまえば意味のないことになり、生きる気力をなくした彼女は、お産で命を落とした。
彼女が最後までヒスファニエに対する呪詛を吐き続けていたと人伝に聞き、おかげで彼女との思い出が懐かしいものになった。身を滅ぼすほどのあの一途な愚かさは、けっして嫌いではないと思えたからだ。
遠い昔の取るに足らない記憶がいくつも通り過ぎていき、ヒスファニエはぼんやりとそれに身をまかせていた。それが、ウルティアの硬い声で我に返る。
「バルトロー総督は植民都市イルチスにて任に当たっております」
「一人で来たのか」
「はい。聖王陛下にお願いがあって、参上いたしました」
そう言いながら目を上げる。その瞳は強い光を放っていた。
そこだけ軍神としては容姿が欠けている、右の金茶色の瞳に宿った激しい情熱と意志は、己の死を覚悟していた。主たる『聖王』ヒスファニエが呼び寄せてもいないのに、任せた戦場を離れ、ここにいる。理由によっては、命令違反を問い、処罰されてもおかしくないのだから。
そして、軍神を宿した左の真紅の瞳は、23年前のあの時と同じに、ヒスファニエを弾劾していた。
ヒスファニエは、その日が来たのだと悟った。ウルティアが生まれた時に見出した『啓示』に示されていた、その時、が。
あの日、ウルティアが生まれた日。ブリスティンを滅ぼした時以上の大きな流れが、そう、東の大陸へと届くかと思われるほどの、新たな巨大な潮流が起こった。けれど、それはヒスファニエを中心とはしておらず、それを不思議に思って、流れを辿って源を探しに行ったのだった。
その先にいたのは、白い髪の生まれたばかりの赤子だった。突然入ってきた彼に右往左往する者たちにはかまわず、彼は流れの中心にいる赤子に触れた。
赤子は、触れられて目を開けた。異相の瞳が静かにヒスファニエを見上げた。その瞳は、赤子であるにもかかわらず、神の英知を宿して、彼を弾劾していた。
おまえこそが神を騙る大逆者だ、と。
ヒスファニエは愉快な気分になった。誰かがそう言ってくれるのを、ずっと待ち望んでいたのだ。
一捻りで殺せそうな白い頭を撫ぜてみた。次いで、片手で覆い尽くして呼吸を止められそうなぷくぷくとした唇をつつき、そして、握りつぶせそうな小さな手に指を握らせた。その手は、罪人を離すまいとするかのように、存外強い力で握ってきた。
ヒスファニエは、アリィを失って以来、初めて皮肉や失笑を含まない、穏やかな笑みを浮かべた。彼にははっきりとわかったのだ。
この赤子は、必ずやヒスファニエを、冥界にいるアリィの許へ導いてくれる。
だが、それは冥界の門をくぐってではない。
この、軍神を宿した娘に、俺は殺されるのだ。
楽しみだった。待ちきれなかった。どれほど育てば、この赤子は戦神となるのか。
「ウルティアよ、ようこそおいでくだされた」
赤子に囁きかけると、その唇の両端が吊りあがり、にいっと笑った。歯の無い口の奥が暗闇に見え、まるでそこに神がいるかのようだった。
ヒスファニエは万感の思いを込めて、その赤子に、アリィが彼のために捨てた名を与え、アリエイラと名付けたのだった。
「先にご報告申し上げましたとおり、新たに参戦したウィシュタリア王国は、植民地を返し、奴隷を解放し、これまでの土地の借地料と奴隷の賃金を払えば、停戦協定を結ぶと言っております。また、大神官エーランディアの末裔がウィシュタリア王に仕えているとも。今ならば、停戦協定の見返りに、冥界の門を探す条件を相手に呑ませることもできるでしょう」
アリエイラの言う通りであった。協定を結べば、平和裏に門を探すことができる。
だが、そうしたとして、戦後処理には時間がかかる。いったい何年後に門まで行けるというのだ。そして、道が開けたとしても、もうヒスファニエには、そこへ行けるだけの体力がなかった。
同様に、この肥大しきって歪んだ、荒んだ国を立て直す力も、彼にはない。
冥界の門を探す力を得ることを最優先にしたために、国造りが追いつかなかった。何度、デュレインがいてくれればと思ったことか。
ヒスファニエはゲシャン海域を統一し、大陸にまで版図を広げた偉大な王として褒め称えられたが、アリィの言った、立派な王にはなれなかった。
国内は暴力と略奪が構造的に蔓延している。国民の中で少しでも力のある者は皆、血に飢えた獣のようになってしまった。そして、残りは狩られ、搾取されるばかりのものに成り果てている。
アリエイラは、ここまできて、何を躊躇っているのだろう。何を為すべきか、わかっていて来たのだろうに。
停戦協定を結ぶのは、ヒスファニエである必要はない。むしろ、旧弊を象徴する彼を廃し、新しい王を立て、国情を一新した方が、よほど良い結果をもたらすだろう。
そのために、次代の王に足る資質を持つバルトローを巻き込まないために、この娘は、たった一人でここへ乗り込んできたのではないのか。
気付けば、いつの間にか、アリエイラの瞳から弾劾の色は消えていた。替わりに、どこか縋るような気配に満たされていた。
愚かな娘だと思った。軍神と呼ばれながら、自分が人でしかないことは、身に余るほど知っているだろうに。同様に、ヒスファニエが神でなどないことも。
ヒスファニエ自身、己が神だなどと僭称したことはない。ただ、まわりにいた人間が、そう見なしただけだった。だが、彼はそれを否定しなかった。もっと力を手に入れるために、それを利用してきたのだ。
父なる神、セレンティーア。この世界を創造された、神々の王。
地上に現れたそれに、人々は縋りついた。人の世の痛みを、苦しみを祓い、そして、欲望を満たすために。
神とは、それほど便利な存在ではない。神の理は時に、卑小な人間には理解しがたいことすらある。しかしそれは忘れられ、そういう存在へと貶められてしまった。いや、ヒスファニエが貶めてしまったのだ。
自分の罪は、自分が一番知っている。魂は少しの隙もなく、真っ黒に染まっているのだろう。
だが、それがなんだというのだ。死した後に、どんな業苦を科されようとかまうものか。アリィとの約束だけは守る。そうでなければ、彼女を死なせてしまった上に、これだけ待たせているのだ、彼女の前に立てなどしない。
そうやってずっと、彼女を迎えにいくために生きてきた。しかしそれも、もう幕を引くべきだろう。人々にこれ以上の犠牲を強いるべきではない。せめて、最後くらいは『立派な王』にならなければ、彼女に合わす顔がない。
ヒスファニエは、すっかり一個の娘に戻ってしまったアリエイラに、『ウルティア』を呼び戻すことにした。
「神は冥界の門を見つけ出すことをお望みだ。それに従わぬ者は、すべて殺せ。それすらできぬのか、愚かな半端者。神ならば、神の意を実現するに、迷うはずもない。右目の欠けたなりそこないめ」
アリエイラの目に、痛みと絶望が浮かんだ。それに呼び覚まされて、怒りが燃えあがる。彼女の中に、『ウルティア』が現れる。
『ウルティア』は立ち上がり、カツカツと足音を響かせて近付いてきた。何気ない風だが、玉座のある壇上に登ってくるのだ、異常なことだった。
それを制止する者はいなかった。軍神の気迫に気圧されているのだろう。
ヒスファニエは泰然としてそれを見ていた。彼女が目の前で立ち止まり、ヒスファニエの佩いている剣の柄に手をかけた時も、ただ、彼女と目を合わせて、指一本動かさなかった。
彼女は剣を振りかぶることもせず、最小限の動きで急所に剣を突き入れてきた。衝撃で体が玉座から転げ落ちる。
燃えるような感覚が体を苛んだ。けれどそれも、あっという間に遠くなっていく。
静かに、暗くなっていき。世界から切り離され、遠ざかる。
ヒスファニエは微笑んだ。
ああ、やっと。
やっと、君に会いに行ける。
「アリィ」
彼が最後に口にした名前を、地上の人間は、誰一人聞くことはなかった。
アリィ視点 「エピローグ」約束のとき