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君に会いに  作者: 伊簑木サイ
ヒスファニエ編
23/44

   10

 東風は神殿島を越えたあたりから南風となり、通常では考えられない速さで、大船団をブリスティン王国へと運んだ。

 ブリスティン王国も戦の準備を整えた船団を港に用意していたため、島の沖での開戦となったが、倍以上の戦力の差に、戦は一方的なものとなった。

 数時間の内にそれらを打ち破り、ユースティニア同盟軍は敵国本土へと上陸した。

 日暮れまでそう間もなかったが、一晩の猶予を与えれば篭城の準備が整い、攻略にはこちらの犠牲が強いられる。そのため、ヒスファニエは今晩中の王城の制圧を決断し、王都に火をかけ、老若男女の別なく抗戦する者は殺すようにと命じた。

 同盟国軍はその命令に従って王城までの道を確保し、ヒスファニエはユースティニア本隊を率いて王城に攻め込んだ。

 その間、王都は統率する者のいない征服者たちによって劫火にさらされ続け、略奪と暴力によって蹂躙されたのだった。


 王城の制圧にもたいした時間はかからなかった。ブリスティン側は戦力の大半を海戦で失っており、ほぼ全軍を温存していたユースティニアに歯向かう術はなかったのだ。

 ヒスファニエは、王城内の女性はけっして傷つけてはいけない旨を周知させた一方、男は赤ん坊であっても殺せと命じた。

 最後に自ら老齢の王をあっさりと討ち取り、開戦からこちら、討ち取った7人いるはずの王子の遺体を揃えるように指示して、血の滴る剣を握ったまま、城内にいた女性を集めた部屋へと向かった。

 ざっと見て、アリィの姿がないことを確かめると、手を取り合って固まっている女性たちの中心にいる、王妃と思しき女性の前に立った。

「お初にお目にかかる。我が名はヒスファニエ・ユースティニア。ブリスティン王妃とお見受けするが、いかがか」

「いかにも。私がブリスティン王妃です」

 彼女は抱き締めていた若い女性を背後にやり、凛として答えた。その気丈な様子に、ヒスファニエは好感を覚えた。

「我々に逆らわなければ、あなたがたに危害を加える気はない。王妃よ、教えていただけるか。アリエイラ姫はどこにいる」

「危害を加える気はないと言いましたが、あなたは街に火を放ち、民を無差別に殺しました。そのような恥知らずな者の何を信じろと言うのですか」

「これは手厳しい」

 ヒスファニエは笑った。彼女に苛立ちも腹立たしさも感じなかった。見事なものだと思っただけだった。

「ならば問う。俺は正式な使者を立て、王に書簡を送った。今日はその返事を貰いに参上した次第。だが、そちらは宣戦布告さえせずに、我が方へ攻撃を仕掛けてきた。筋が通らぬ上に卑怯な行いをしてきたのはそちらだが、それをどう思われるか」

「我が国の王太子妃を殺しておきながら、何を」

 彼女は吐き捨てるように言った。

 ヒスファニエは一瞬息を詰め、ごくりと唾を飲みこんだ。

「俺は殺していない」

「しらじらしいことを。ユースティ二アがブリスティンの姫を王妃に迎えると? 馬鹿馬鹿しい。罪のないあの子を殺して、開戦の切欠とした者を王太子とするなど、ユースティニアの未来も見えたもの!」

 王妃は喉を震わせて笑った。

「俺は、殺していない」

 ヒスファニエは感情を押し殺した声で繰り返すと、一歩王妃へと近付き、片膝をついた。抜き身の剣を握りなおし、彼女へと身を乗り出す。

「神の御前で婚姻を誓った妻を、なぜ殺さねばならない」

 王妃を取り囲む女性たちは、顔を隠すようにしてお互いにきつく抱き合ったが、王妃だけは訝しげに彼を見返した。

「生涯の愛を誓い合った女を、なぜ殺すのかと聞いている!」

 がん、とヒスファニエは剣の柄を床に打ち付けた。

 彼は険しい表情で、肩で激しい息を数回繰り返した。そして、顔を一度下に向け、大きく息を吐き出すと、表情を失くした顔を上げた。

「ラファエラと戻った時には、アリィは死んでいたのだな?」

 王妃はヒスファニエと睨みあっていたが、やがて小さく頷いた。

「ええ」

 その時、彼の目に浮かんだ痛みの色に、王妃は胸を衝かれて瞠目した。

「我が使者は、どうなった」

 王妃は一瞬の躊躇いの後、口を開いた。

「殺して、火で燃やしました」

 ゲシャン海域では、遺体は風葬か海葬か土葬とする。神にいただいたものは、神にお返しするためだ。火葬は神にお返しすることもできないほどの悪事を行った者に対する、罰と辱めを意味した。

「アリィは、今、どこに?」

「ラファエラが部屋に留め置いて、それきり誰にも触らせようとしなかったので、恐らく、そのまま」

 ヒスファニエは血に塗れた左手を王妃に向かって差し出した。

「案内願えるか」

 王妃は彼の顔を数瞬眺めた末に、無言でその手の上に己の手をのせたのだった。


 ラファエラの部屋の扉を開けた途端、鼻をつく腐臭が漂った。ヒスファニエはかまわず中に入り、人型に盛り上がっているベッドへと近付いた。

 頭の上まで覆う薄い掛け布をめくると、見覚えのある髪が現れた。すべてを取り去り確かめる。肌はどこも変色して崩れていたが、ヒスファニエにはわかった。確かに、それはアリィだった。

「アリィ」

 彼女の頭の両横に手をつき、呼びかける。

「アリィ、迎えに来た」

 答えない彼女へと屈んで、ふっくらとした弾力のある唇だったはずの場所へ口付ける。

 どんな姿になり果てようと、アリィはアリィだった。嫌悪感など少しもわかなかった。なのに生理的な反射で嘔吐がこみあげてくる、自分の体が忌々しかった。

「遅くなって、すまない。ずいぶんと待たせてしまった」

 服はヒスファニエが着せ掛けてやったものではなかった。それを今すぐ引き剥がしてむしりとりたい衝動を抑えて、扉へと振り返る。

「軍旗を持ってまいれ」

 兵が一人、短い応答の後に駆けていった。

 ヒスファニエの指示に、戸口で部屋から顔をそむけて鼻を袖口で覆っていた王妃が、ちらと中に視線を向けた。ヒスファニエと目が合う。彼は静かで強い眼差しで、彼女の目を自分へと留めさせた。

 自分を、いや、この部屋に横たわる、哀れな亡骸を見ろ、と。

「我々は手を取り合い、共に繁栄することもできたはずだった。彼女はそれを望んだ。俺もそれを夢見た」

 ヒスファニエが怒りに任せて暴力を振るう素振りはなかった。だが、その中で激しく荒れ狂う感情が、彼を、今にも何を始めるかわからない、恐ろしく、そして大きな獣のように見せていた。

「なのに。なぜ、憎しみに囚われる。なぜ、未来を見ようとしない。なぜ、愛しんだはずのものを、簡単に殺すことができる。なぜ、あの愚かな男を王太子に据えようなどと……」

 彼は言葉を途切らせ、瞑目した。自分の母も同じだと思い至ったのだ。やるせない溜息をつき、わきあがるまま言葉を紡ぐ。

「愛するから、与えようとし、愛するから、留めようとする。愛するから、……憎み、憎しみを捨てられないのだな」

 ヒスファニエは、自分がはっきりと、憎しみを抱いているのに気付いた。

 兄を殺された比ではないほど、激しく、深く、絶望をともなって。

 自分からアリィを奪った者たちだけでなく、それを育んだモノを、その存在を許した世界を、己も、神さえも、なにもかも、なにもかも、すべてを滅ぼせと、身の内に棲みついた獣が咆哮をあげる。青白い炎をまとった残酷で冷酷な衝動だけが、彼の心を染め上げていた。

 ヒスファニエはその衝動を抑えようとは思わなかった。彼女のいない世界になど、意味はなかった。

 世界など、滅びてしまえばいい。

 全身の血が毒と変わりそうな思いに身を任す。

 彼は突然、優美な微笑を浮かべて王妃を見遣った。愉悦に満ちた、いっそ優しいほどの笑みだった。しかしそれを見た王妃は、得体の知れない恐ろしさに、己が体を抱きしめながら身震いした。

「王妃よ。俺は約束したのだ、アリィと。彼女を傷つけたり、死に至らしめる者があれば、それらを必ず滅ぼすと。神に誓ったのだ。だが、あなたの誇り高さに敬意を表して、選択肢を与えよう」

 彼は笑みを深め、より耳触りのよい柔らかい声で、歌うように語りかけた。

「奴隷に身を落とすか、誇り高き死を選ぶか。どちらでも好きにするがいい」

 王妃は震える声で抗議した。

「あなたは先ほど、私たちに危害は加えないと言ったはず」

「ああ、言った。だから、望むなら命は助けてやろうと言っているのだ。その先、あなたの主人となる男が、あなたをどう扱うか、それまではあずかり知らんがな。俺は、親切にあなたを殺してなどやらぬよ。死にたいのなら、自ら死ねばよかろう」

 そして煩わしいとばかりに、兵に、先ほどの部屋まで連れていけと命じた。

 兵に腕をとられ、王妃が怨嗟の言葉を吐こうとする。

「やはり、ユースティニアの男など」

「恥知らずで、卑怯で、愚かで、それから?」

 ヒスファニエは彼女の言葉を奪って言った。

「それは、あなたの息子のことだろう。恨みも憎しみも捨て、敵国との架け橋になろうとした娘を殺し、罪を俺になすりつけた。先に戦を仕掛け、人々を戦禍に引きずりこんだのは、あの人でなしだ」

 彼は笑みを消し、怒りと冷酷さを面ににじませた。

「あながたの育てた息子が、この災禍を招き寄せたのだ」

「詭弁を」

「あなたこそが、息子がどんな人間か知っていただろう。だから、アリィを、あの心根の清い娘を、王妃に据えようとしたのだろう?」

 王妃は唇をわななかせた。だが、反論することはできなかった。

 ヒスファニエは軽く手を振り、兵に行くようにと合図をした。王妃はそのまま蒼白となって、兵に引き立てられていった。

 それと入れ違いに、軍旗を携えた兵が戻ってくる。

 彼はそれを受け取って、扉を閉めて、兵たちに廊下で待つようにと告げた。


 ヒスファニエはアリィをシーツごと手前へと引き寄せ、軍旗をベッドの空いた場所へと広げた。その上に、そっと転がすようにして彼女をのせ替える。

 それから、短剣を使って布地を切り裂きながら、慎重に彼女から衣服を脱がせた。ラファエラの物、ブリスティンの物になど、アリィを触れさせておきたくなかった。

 温かかった肌は、ひどく冷たかった。水を弾くようだった肌理の細かい肌も、見る影も無かった。

 日をおかずに抱き、彼女の内に宿らせたはずの子供も、彼女と共に死んでしまった。

 苦しかった。心が裂け、どろどろと黒い血を流し続けている。

 けれど涙は出なかった。ヒスファニエはこれを知っていた。

 初めて『啓示』を受けた時、そう、彼女が彼の名前を呼ぶ声が聞こえた時、あの時に、運命が決していたのだから。

 それでも、信じられなかった。絶対に認められなかった。

 彼女を失うことを受け入れるなんて、できなかったのだ。

 だから、縋った。『すべてを失ってしまう』前に行動すれば、もしかしたら、彼女を取り戻せるのではないかと。

「神よ。なぜだ。なぜ、与えておきながら、奪った!」

 喉がつまり、目頭が熱くなるのに、涙が出てこない。息苦しさに、ヒスファニエは上を向いて喘いだ。

「神よ、なぜ!」

 短い息を繰り返して、アリィの上に覆いかぶさる。彼女を抱きたかった。歓喜の声をあげさせ、名を呼ばせたかった。

 彼女の声が聞きたかった。ヒスファニエさま、と夢中で呼ぶ、魂を震わせる、あの声を。

 そして、蕩けるように微笑む、あの眼差しが欲しかった。

「アリィ」

 君はなぜ、俺に死ぬことを禁じた。なぜ、共に死のうと言ってくれなかった。気も狂わんばかりのこの嘆きを抱えて、俺に生きろというのか。

「アリィ!」

 なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜだ!

 喰いしばる唇から漏れる息が、呻き声になる。

 アリィを追って死にたかった。彼女の許へ行きたかった。

 そこがどんな場所でもかまわなかった。彼女さえいれば、彼女を感じることさえできれば、それで。

 二度と日の光が見られなくてもかまわない。草木一本ない不毛の地でもかまわない。

 ただただ、彼女のいる冥界へ行きたかった。

「ああ、そうか」

 ははっ。ヒスファニエは力なく笑った。

「そういうことか」

 笑いは止まらず、喉を震わせて、いくらでも出てくる。

 思いついてしまえば、そうとしか考えられなかった。

「迎えに行けと。冥界の門を探し出せと、そういうことなのか?」

 与えて、奪ったのは、そういうことなのか。

「神よ!」

 ヒスファニエは血を吐き出さんばかりに叫んだ。


 待っていてくれ、アリィ。

 必ず、必ず君を、迎えにいくから。

 どうか、俺を待っていてくれ、アリィ。

 


 こうしてブリスティン王国は滅んだ。


 そして、神の名の下に冥界の門を探して、ゲシャン海域のみならず二つの大陸をも巻き込み、何万、何十万人という犠牲を出した、50年余りにも及ぶ戦乱の時代が幕を開けたのだった。

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