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帰還した日から、ヒスファニエは神殿に籠もって潔斎していた。
潔斎といっても、神官でない彼は特別なことはしていない。ただ、聖域たる神殿から出ず、朝晩に神に祈りを捧げ、聖火と聖水にて調理された物を口にするだけだ。
その代わり、俗世間に関することは、部下たちが彼の目となり耳となり、また手足となってくれていた。それに王や宰相も、ヒスファニエが聖域から出られないために、自ら神殿に日参しては、毎日彼と意見交換をしていた。
彼らによれば、貴族の招集、派兵の準備は、着々と進んでおり、思ったよりも早く出られそうな按配だという。
ヒスファニエの試練の儀については、王太子が無事に神の祝福を得たというだけでなく、『啓示』を受けたことも国内外に告知された。
今まで、『エーランディア』一族のみに発現していた『啓示』を見出す力。それが数百年をへて、傍系ともいえるヒスファニエに現れたと。
その場に立ち会った神官長は、それが確かに『啓示』であると認定した。
王太子は大神官の末裔として神殿に招かれ、『啓示』の実現に向け潔斎を始めている。
『啓示』の内容は、ブリスティンへの派兵───。
そうした公式発表とは別に、多くの噂もばらまかれた。
神は祝福の証として王太子に妃を賜った。
だが、神のユースティニアへの恩寵を恐れたブリスティンが神域へと忍び込み、人を疑うことを知らぬ清らかで優しい心根の妃を、だまして攫ってしまった。
神は大変お怒りになり、盗人へ罰を下せと王太子に『啓示』を示された。
これは神が我らにくだされた試練。神の望まれた『聖戦』である、と。
噂は、兵となる貴族たちをその気にさせるための餌だ。
貴族とは、武器を持って国のために戦う者たちのことをいう。彼らはそのために、一般の民のように漁に出たり畑を耕すことはせず、毎日武術の腕を磨くことに専念する。また、早くに結婚し、しかも幾人もの妻を娶る。すべては一人でも多くの男児を、すなわち国を守る兵を残すためである。
彼らは国から身分と富を補償され、けっして働くことはない。しかし、一度国に何かあれば、命を懸けて守る。その権利と義務を有しているのだ。
その彼らに、海から流れ着いた娘を妻としたが、敵国の王子に攫われてしまった、ぜひ取り返したいから力を貸してくれと言ったところで、そんな間抜けで愚かな王太子のために、誰も命を懸けてくれなどしない。むしろ、廃嫡騒ぎにもなりかねないだろう。
だがそれも、『聖戦』となれば違ってくる。
神官長は王にすらおもねらない、神にのみ仕える清廉で敬虔な人物として知られている。その神官長が『啓示』を本物と認定し、王太子の潔斎を手伝っているといえば、これほど確かな証はない。
貴族たちは『聖戦』に熱狂し、同盟諸国も『聖戦』への参加を表明してきているという。
ヒスファニエはその報告に、頼もしいことだと喜んでみせたが、胸の内は冷えきっていた。
あの時感じたとおりの事態になっていく。世界は、流れ着くところまで行かなければ、止まらないのだろう。
その流れの中心となってしまった今では、それをもう、恐ろしいとは思わなかった。彼にははっきりと『流れ』が知覚でき、彼が導いていくべき世界の行く末が見えていた。
ヒスファニエには、世界は一幅の絵のようにしか感じられなくなっていた。あるいは、よくできた物語のように。どんなに美しく鮮やかでも、現実感がない、ただそれだけのもの。
たとえどれだけの人間が死に、海が、野山が、骸で埋まろうとも、それが『世界』のあるべき姿なのだと。
ただ、アリィを思う時だけ、体に血が、心に熱が巡った。
その時だけ、痛みに震える。
ヒスファニエは、彼女の声を、表情を、感触を思い出しながら、何度も彼女へと呼びかけた。
アリィ、どうしてだろう。君に近付こうとすればするほど、君と夢見た未来が遠くなる。
俺たちは、憎しみのない、殺しあうことのない世界で生きたいと願ったはずなのに。
俺は、じきに君の祖国を滅ぼすだろう。
それが、『世界』の『望み』だから。
アリィ。二人でいた時あれほど身近だった神が、今は感じられない。
神はまだ本当に、俺たちを見守ってくださっているのだろうか。
それとも、君を奪われ、愚かにもこの『啓示』を引き寄せてしまった俺を、神は見限ってしまわれたのだろうか。
神殿の祭壇にかかげられた神のレリーフの前に何時間もひざまずき、いつまでも眺めているヒスファニエの姿が、日を追うごとにしばしば見られるようになっていった。
アリィと神を探して虚ろに見上げるその姿が、人々には敬虔な祈りを捧げているように見えた。
故に、人々は誰からともなく、彼を『聖王』と呼ぶようになったのだった。