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今現在、国内に表立ってヒスファニエに反対する勢力はない。
現国王に男児は彼しかおらず、もう一人の候補者は叔父アフルで、ヒスファニエは彼の娘、つまり従姉妹であるルルシエを娶る予定だった。その他、同盟国家からも数人の姫の輿入れが決まっていた。
だから、国側になる東ではなく、まずは西の浜に下り立った。この海の向こうには、積年の怨敵であるブリスティン王国がある。
今回の試練の儀式も、今までと同じように極秘の内に行われていたが、どこでどう情報が漏れているかわからない。何かあるとすればこちら側の方が危なかろうと考えたのだった。
その懸念はどうやら当たったようだ。浜には多くの木切れが打ち上げられていた。昨夜の嵐で船が難破したのだろう。
ヒスファニエは改めて手に持った木の棒を握り締めなおして、人が上陸した跡はないか、辺りに気を配りながら探していった。
時々、色のついた木切れを拾い、絵柄を確かめる。船体に描かれる魔除けの目は、島ごとに異なる。青い目玉に赤と黄色の隈取という鮮やかな彩色は、確かにブリスティンのものだった。
ヒスファ二エは、砂浜に突き出した低い岩を回り込んだところで立ち止まった。人がひときわ大きな木切れの上に、おおいかぶさるようにして倒れていた。ずっと先の砂浜まで見遣ったが、とりあえず見える範囲では他に人はおらず、足跡も残っていなかった。
服装から見るに、女だと思われた。しかし、女だからといって油断はできない。相手は暗殺者かもしれないのだ。
それでもヒスファ二エは、彼女をもう一度海に放り込むことはできなかった。ゲシャン海域では、海から打ち上げられたものは、何であろうと神からの賜り物であり、ありがたく受け取らなければならないという風習がある。
たとえば死者であるならば、丁寧に弔えば航海の守り神になってくれると言われていた。かわりに海に返せば、同じ死に方をすることになるとも。たとえ暗殺者だろうが、ゲシャンに生きる者として、なにはともあれ拾わないわけにはいかなかったのだ。
棒が届くところまで足音を忍ばせて近付き、わき腹を突付いてみた。反応はない。もう少し近付き、体の下に棒を差し入れ、ゆっくりとひっくり返してみる。う、と呻く。どうやら生きているようだ。
面倒なことになったと思ったが、鎖骨あたりに棒を当て、すぐには起き上がれないように強く押さえつけた。痛みも感じているはずだ。厭うように棒をふりはらおうとするが、力が入らない様子である。顔色も悪く唇も青い。体が冷え切ってしまっているのだろう。
やがて目を開けた彼女は、ここがどこだかわからないという顔をし、辺りを見回してヒスファ二エを見つけて、恐怖に顔を引き攣らせた。かたかたと震えだす。
めまぐるしく表情が変わっていく。恐怖に耐え、必死に自制し、この状況から逃れようと考えをめぐらせているようだ。最後には怒りに近い色をたたえて、投げつけるようにして言葉を吐き出した。
「何者です。なんのつもりでこんなところに攫ってきたのですか」
高飛車な口調だが、精一杯の虚勢なのは見え見えだった。ろくに体も動かせず逆らうこともできないくせに、相手を逆撫でするような態度はどうかと思うが、気が強く誇り高いことは確かだろう。
「君は昨夜の嵐で難破してこの島へ流れ着いた。俺は君を拾う義務があるのだが、姫はお気に召さないようだな」
彼女は何かに思い当たったようで、あ、と声をもらした。次いで、矢継ぎ早にいくつかの名前を口走る。
「さあ。姫の他は、見ていないが」
「船は。船はありませんか。波間で助けを待っているかもしれません。どうか力をお貸しください」
二度口にした「姫」という呼び名を当然と流して、助力を請うてくる。
「すまないが、船はない」
「お礼なら、国に帰ったらいくらでも」
「そうじゃない。俺もこの島に一人で置いていかれたんだ。力にはなれない」
「そんな」
彼女の目から涙があふれだした。ヒスファ二エは途中から力を抜いていた棒を手元に戻し、相変わらず震える彼女のすぐ傍でしゃがんだ。
「君も体が冷え切っているだろう。服を乾かした方がいい。あちらに建物がある。そこに案内しよう」
彼女はしばらく彼を見詰めたまま煩悶していたが、瞬きして涙を落としながら、こくりと頷いた。
ヒスファニエは手を貸して、彼女を起き上がらせてやった。すると彼女はふらふらと上体を揺らしながらも、胸の前で左の拳を右の掌で包んで、顔の前まで持ち上げ、正式な礼をほどこしてきた。
「お世話になります。よろしくお願いいたします」
「ああ、たいしたもてなしはできない。堅苦しい挨拶はいらない」
ヒスファニエは苦笑した。
「俺はファー。君は?」
これからしばらくは彼女と過ごすことになる。呼び名がないのは不便だと思って、愛称を教えた。ブリスティンとユースティニアは仇敵だ。お互いの素性は知らないでいた方が良いだろう。彼女も少し考えた後、同じように愛称を教えてくれた。
「アリィです」
アリスティン、アリシラ、アルトティア、アルミニア、ざっといくつもの名前が頭に浮かんだが、それらはどれも目の前の彼女の名前としては、よそよそしく感じた。
「アリィ」
一度呼んで、口に馴染ませてみる。
「はい」
彼女は素直に返事をした。緊張はしているらしいが、警戒の解けたそれに、悪くない、と思う。
この拾い物は、思ったよりも悪くない。
不思議とブリスティンの姫だということは気にならなかった。たとえ彼女の父親や祖父に恨みがあっても、やっと蕾が開きかけたかという程度の少女が、ユースティ二アに仇を為したことがあるとは思えなかった。それに、彼女は神からの賜り物なのだ。あまり粗略に扱えば罰があたるだろう。
「君の帯も、貸してくれないか?」
「え?」
そう言いながら、彼は自分の上着の帯をはずした。彼女は再び表情を固くして、胸元を押さえて後退った。
「建物まではけっこう歩かないとならない。君を背負っていこうと思うんだが、俺の帯だけでは背負い紐にするには短すぎるから」
途端に彼女はばつの悪そうな顔になって、すぐに帯をはずしにかかった。ところが指に力が入らないらしい。いつまでたっても結び目をひっかくばかりだった。
「失礼しても、いいかな?」
声をかけると、下唇を噛んで、上目遣いで頷く。それはそうだ。女性の帯をとくのを許されるのは、本来は夫だけだ。背負い紐がなくても行って行けないことはないと、ちらと頭をよぎったが、あった方が格段に楽で安全だ。それに。
震えながら恥かしげにうつむく彼女を見下ろす。じっとしている可憐な彼女の帯をとく。やましい気持ちは欠片もなかったが、その行為に胸が躍った。
うん。悪くない。
ヒスファニエは、もう一度心の中で、さっきと同じ言葉を呟いた。
アリィ視点の話も展開中。基本、独立した話として仕立てているので、内容、表現が重複します。
この章は「誘惑」1と重なります。