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君に会いに  作者: 伊簑木サイ
ヒスファニエ編
17/44

   4

「どういうことだ! その男、今、アリエイラに何をした!」

 不機嫌もあらわに怒鳴る男の道を遮る位置に歩を移し、デュレインが穏やかな声で言った。

「我が主よ。こちらは先程お話いたしました、ブリスティンのラファエラ王子でいらっしゃいます。ラファエラ王子、こちらが我が主、ヒスファニエ王太子殿下にございます」

 ブリスティンの王子だという男は、まさに優男という称号がぴったな容貌をしていた。淡い茶の髪は日の光を受け、ほぼ金に輝き、瞳の色も薄く緑がかっていた。ゲシャン海域では珍しいほど肌の色も白く、全体に浮世離れした雰囲気があった。

 ただ、その表情は怒りにまみれ、内面の醜悪さが浮き出ている。それだけで、ヒスファニエは彼を相手にするのも嫌になった。

 だいたい、王族に名を連ねながら、この軽率さはなんだ。どうしたら、敵国の人間に簡単に感情をさらけ出せるのかがわからない。それとも、怒ってみせれば、誰でも自分の言うことを聞くとでも思っているのだろうか。

 これがアリィが『兄』と慕っている男。アリィにこんなのと『兄』のくくりで一緒にされていたのかと思ったら、心中溜息を禁じ得なかった。

 アリィの父親は国王の従兄弟だったそうだ。戦で父を失った後も、彼女は母親とブリスティンに留まり、数少ない王族の姫として遇せられていたという。しかし14の時に母も亡くなると、母方の祖母であるイフィゲニー王国の王太后が、余命幾許も無い日々を娘の形見と過ごしたいと言って、彼女を手元に呼び寄せたのだそうだ。

 祖母との暮らしは、親密で愛情に満ちたものだったらしい。悔いのない精一杯の介護の末に看取りはしたが、死後一年しても祖母の墓からは離れがたかったという。

 けれどそれを聞き、心配したブリスティンの王妃が、そろそろ帰っていらっしゃいと、強引に迎えを寄越したのだそうだ。

 帰りたくなかったと、アリィは言った。祖母の墓から離れたくなかったし、また『英雄の娘』にならなければならないのは気が重かったと。それでも祖母亡き今は、王と王妃が彼女の保護者だった。彼女に逆らうことは許されなかった。

 だが、その航海の途中、あの嵐に巻き込まれ、彼女だけがこの島に流れ着いたのだ。

 それはヒスファニエにとってもアリィにとっても、人生最大の幸運だった。

 二人のこれまでの人生の何か一つが欠けていても、出会えはしなかっただろう。それを思い、ヒスファニエは神への感謝の念を深くした。

 そう。この目の前の男の存在すら必要だったのだと、自分に言い聞かせる。

「お初にお目にかかる、ラファエラ王子」

 ヒスファニエは両肘を軽く張り、左の拳を右の掌で包み、顎の位置まで持ち上げた。正式な挨拶で、彼も少しは冷静になってくれればと期待したが、そうはいかなかったようだ。

「アリエイラを返せ」

 威圧的にずかずかと近付いてこようとする彼を、デュレインが押し止める。

「お待ちください、王子。これ以上は神域にございます。許されてもいない者がみだりに踏み入れば、神の怒りを買いましょう」

 それを聞き、ラファエラ王子の従者たちが諌めに入り、デュレインは彼らから少し距離を取った。王子は相手がユースティニアの者だというだけで攻撃的な姿勢をとる。だとすれば、これから聞かされることに激昂すれば、何をするかわからない。

 従者たちが説得を試みている間に、デュレインたちはヒスファニエを守る位置にそっと移動した。それが終わるのを見て、ヒスファニエは口を開いた。

「アリエイラ姫をお探しとのことだが、この島にそういった娘はいない。ここにいるのは、過去を失い、我が妻となった娘だけだ」

 ラファエラ王子は目を見張り、そのまま表情も動きも数瞬止め、ヒスファニエを凝視した。次いで、怒りに顔を赤く染め上げた。

「我が妻だと?」

 そのまま挑むようにやって来ようとするのを、彼の従者たちが、やはり同じ怒りの形相でこちらを睨みながらも止める。

「我が栄えあるブリスティンの姫を、おまえごときが妻にするなど、許されるか!」

 重ね重ねの無礼に、ヒスファニエの部下たちも色めきたった。それを軽く片手を上げて鎮めた。

「彼女はブリスティンの姫ではない。海から流れ着き、俺が拾ったのだ。神からの賜り物が誰のものになるか、ゲシャンに生きる者が知らぬわけもあるまい」

「卑怯者が! 力ずくで一族の娘を穢したなど、許せん!」

 ラファエラ王子は剣を抜いた。合わせて従者たちも、デュレインたちも抜く。

 一人ヒスファニエだけが冷たく彼らを睥睨した。

「勝手な憶測で貶めるのはやめてもらおうか。俺たちはお互いにそれぞれの意志で神に結婚を宣誓した。そして、俺は彼女を王妃とすることを誓い、彼女は俺の妻として生きることを誓った。すべては神意を問うている期間に起きたことだ。これは神の意志だ。剣を引かれよ」

「卑怯者の言など聞くに値せん! おまえを生かしてはおけぬ!」

 ヒスファニエのすぐ前で控えていたアルツイードが、剣を渡してきた。それを受け取り、彼も剣を抜く。

 すると、突然、彼の脇からアリィが走って前に出ようとした。とっさに、剣を持ったままの腕で遮る。

「やめて! やめてください!」 

 なおも出て行こうとするのを止めるために、鞘を持った左腕で、彼女の足が浮くほどしっかりと抱き込んだ。

「ヒスファニエさまは卑怯者ではありません! 流れ着いた私を、何の裏心もなく、親切に面倒をみてくださいました。私がブリスティンの者だというなら、国交を開こうとも仰ってくださいました。お優しく、立派な方です。この方を先にお慕い申し上げたのは私です。この方の妻になりたいと願ったのは、私なのです! どうか争うのはおやめください!」

「おまえはやはり記憶を失ってなどおらぬではないか。嘘をつきおって!」

 王子は血走った目で、切っ先をヒスファニエに向けた。アリィは必死に語りかけた。

「嘘を仰ってはいません。私はその名も過去も、神にお返ししたのですから。今の私は、アリエット。それ以上は名乗るべき名もない、アリィと呼ばれる娘にすぎません」

 ラファエラ王子は悔しそうに顔を歪めた。

「おまえは騙されているのだ。おまえが心優しく純粋な娘であることは、ブリスティンの誰もが知っている。それにつけいり、その男はおまえを辱めたのだ。目を覚ませ、アリエイラ。おまえの父はユースティニアに殺されたのだぞ。その王太子がまともな男であるわけがない」

「いいえ、いいえ、いいえ!」

 アリィは激しく首を振って否定した。

「ヒスファニエさまほど素晴らしい方を、私は他に知りません!」

 彼女の目は熱く潤み、手は無意識に自分を支えるヒスファニエの腕に添えられていた。ヒスファニエも大切に彼女を抱き包む。二人の姿は、誰が見ても、心惹かれあう恋人同士だった。

 それが、なによりもラファエラ王子を激昂させた。

「黙れ! 愚かな娘が!」

 剣を振り上げ、踏み込み、斬りかかってこようとする。それにデュレインたちも応戦し、あっという間に混戦になった。

 ヒスファニエはアリィを連れて、少し奥まった場所まで退いた。砂浜が切れればそこはもう神域だ。神の怒りを買う覚悟がなければ、招かれざる者たちは入ってこれない。

 デュレインたちは決して弱いわけではなかったが、ラファエラ王子たちを殺すわけにはいかないために、一進一退の攻防が続いていた。

 ヒスファニエはアリィを王妃に迎えようとしている。その国の王子を殺し、迂闊に戦端を開く愚は犯せなかった。

「やめて。やめて。お願い。やめさせてください」

 アリィは真っ青になって震えていた。

「大丈夫だ。殺しはしない」

「けれど、あっ」

 アリィが叫び声をあげた。部下が一人傷つけられ、後退ったのだ。小船に乗れる人数は決まっている。どちらも人数はちょうど5人ずつだった。だが、一方は殺そうとし、一方は傷つけまいとしている。次第にユースティニア勢は押され気味になっていた。

「アリィ、ここにいてくれ。俺も加勢してくる」

「駄目です。駄目! 行かないで!」

 アリィはとっさにヒスファニエに抱きついた。

 ヒスファニエは胴に回された腕を左手で掴み、一方で剣の柄を握りながら、その手で彼女の顎を押し上げた。目を覗いて言い聞かす。

「アリィ、このままでは、我々が死ぬことになる。わかるだろう、君なら」

 彼女は泣いていた。怯えと理解と、そしてどうにもならない感情に翻弄されているのがわかった。

 彼女はヒスファニエを愛してくれている。けれど、敵として戦っている彼らは、彼女の同朋なのだ。それが一朝一夕で心から消えるわけがない。

「殺しも殺されもしない。約束する」

 アリィは小さく頷いた。彼女の腕がゆるむ。ヒスファニエは微笑んで頷き返し、彼女に背を向けようとした。

「ヒスファニエ様!」

 誰かの危険を知らせる声が聞こえた。それと同時に、彼女に体を突き飛ばされた。金属が日の光を反射し、視界の隅で光る。踏み込んでくる人影が見え、彼は咄嗟に体勢を立て直しながら距離を取った。

 向き直った時、アリィはラファエラ王子に体を捕らえられ、首に剣を押し当てられていた。

「剣を捨てろっ」

「いけません!」

 アリィは王子の声にかぶせるように叫んだ。

「ヒスファニエさまは誓ってくださいました。約束を違えるなら、先に命を絶ちます!」

「黙れ!」

 そしていっそう強く刃が押し当てられた。少しでも動けば斬れるだろう。誰もが固唾を呑んで動きを止めた。

 ヒスファニエは剣を捨てる代わりに、鞘へと戻した。ただし、柄から手は離さないで話しかける。

「ラファエラ王子、俺はあなたと争うつもりはない。彼女を王妃にと望んでいるのだ。正式に国交を開くことを申し入れたい」

「ユースティニアの言うことなど、信用できるものか」

 そのままアリィを引きずって、じりじりと砂浜へと後退していく。それを追おうとすれば、動くな、と牽制される。

「貴様らが動けば、アリエイラは殺す。ブリスティンの娘をユースティニアの手に渡すくらいなら、殺した方がましだからな」

 そう言って、ラファエラ王子はぞっとするような暗さで笑った。

「ラファエラ王子、どうか俺の言ったことを王に伝えて欲しい。国交を開き、彼女を正妃に迎えたいと。先にそちらの許しを得ず、順番を違えてしまったのは、彼女の罪ではない。神の思し召しと思えなければ、我が罪としてくれてかまわない。正式な使者もすぐに遣わす。だから」

「黙れっ。貴様の言うことなど、聞かぬ!」

 獣のような喚き声に、これ以上彼を刺激することもできず、ヒスファニエは口をつぐんだ。彼女が連れて行かれようとしているのに、動くこともできない。

 彼女がどんどん離れていく。彼は瞬きもせず、奥歯を噛み締めた。

「ヒスファニエさまっ」

 アリィがこちらに手を伸ばし、彼を呼んだ。

「アリィ」

 彼が思わず一歩出るのと同時に、黙れ、動くな、と王子は怒鳴って彼女の頬を剣の柄で殴りつけた。

「やめろっ」

「殺すぞ!」

 叫んで走り寄ろうとした彼に、狂気をはらんだ脅しが飛ぶ。その場で蹈鞴を踏むように立ち止まるしかなかった。

 それでも、痛みのせいでぐったりしてしまった彼女を、ヒスファニエは呼ばずにはいられなかった。

「アリィ、アリィ」

 彼女が顔を歪めながら目を開け、彼をすがるように見る。

「迎えに行く。必ず、迎えに行くから、待っててくれ」

 彼女は痛むだろう唇の端を上げ、無理に微笑をつくると、一度だけ小さく頷き返した。

 ラファエラ王子の従者たちが、二人を取り囲み、一行は小船へと向かう。

 ヒスファニエは為す術もなく、彼女が連れ去られるのを見守るしかなかった。


 

アリィ視点 「誘惑」17

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