別れ1
試練の期間は終わった。
名残惜しい気持ちで、厨の戸を閉める。ヒスファニエは、じっと厨を見ているアリィの肩を抱いた。
「行こうか」
はっとしたように顔を上げて、はい、と神妙に頷く。
二人きりで幸せでいられた場所に別れを告げる。もう二度と、ここには戻って来ない。けれどきっと、ここでの思い出は、一生二人の心の支えになるはずだ。
肩から手をはずし、彼女の手を握った。心配することはないと、笑いかける。
彼女は今日も、彼の上着を着ていた。彼自らが彼女に服を着せかけ、紐を結び、帯を巻いて、身形を整えてやった。
これは、本来は結婚を宣誓した後の共寝の翌日の朝に、お互いの上着を交換し、絆を深めるという、呪術めいた倣いだ。また、そうして夫婦として結ばれたことを世間に知らしめるものでもあった。
もちろん、そういった場合の女性の上着は、夫となる男性が着られる大きさのものを羽織っているものなのだが、彼女にぴったりのサイズだったそれは、とうてい彼が袖を通せるものではなかった。そこで彼女はヒスファニエの腰に巻いて、飾り帯のように調えてくれた。
装い一つとっても足りない、真っ当なものなど何も無い結婚だった。出会いも、お互いの出自も。だが、それを補って余りある愛がある。
どれだけの王族が、政略ではなく、心によって結ばれた伴侶を手に入れられるというのだろう。それを思えば、ヒスファニエは彼女に出会い、妻と迎えることができたのだ。多少の苦難があったとしても、これ以上の幸福など望めないはずだ。
彼女が彼の手を握り返し、微笑んだ。
信頼と愛情の込められた眼差しに、ヒスファニエは屈んで、軽く彼女に口付けた。それだけで心が落ち着き、ゆるぎない思いを新たにする。
彼女を守り、共に生き、必ず一緒に幸せになるのだと。
二人は神に守られた場所に背を向け、人の世界に戻るために、山を下り、海岸へと向かったのだった。
斜面を下る途中、沖に2隻の船が見えた。1隻は自国のものだろう。だが、もう1隻が来る予定は無い。予定外の同行者は、この状況下ではブリスティンのものとしか思えなかった。
「アリィ。君の迎えも来ているかもしれない」
ヒスファニエは沖を指し示して言った。彼女は数度瞬きして彼を見、その後、彼の指を視線で追って海の方へ向いたが、身長が足りず、木々に邪魔されて、どうやら確認できないらしい。彼は彼女を抱き上げて、自分と目線の高さを同じにしてやった。
しかし、彼女は彼の首に抱きついて、海を見ようとしなかった。
「私を迎えに来る者などいません」
「そうだったな」
ぽんぽんと背中をなだめるように叩いてやる。
想像でしか彼女の心情は理解できないが、故郷の者が探しに来てくれて、嬉しくないわけがない。その相手を知らないと、記憶を無くしたふりをするのは、とても辛いに違いなかった。
自分の場合を考えれば、デュレインを相手にそんなことをすれば、恐らく気絶させられて問答無用で船に乗せられ、記憶が本当にあろうがなかろうが国に帰るまでに船の中で説得され、着く頃には立派な国王候補にまつりあげられていることだろう。辛い辛くないの前に、そういう事態がそもそも成り立ちそうになかった。
もっとも、政治に関わる人間はそんな者ばかりだ。彼らには普通の善悪は通用しない。目的を達成するためなら手段を選ばないからだ。彼らの行動は国運にかかわる。国を失わせる以上の悪事はないだろう。それを避けるためならば、どんなこともする。ヒスファニエ自身にも、その自覚はあった。
だからこそ、アリィを迎えに来た者に対しても油断はできなかった。
「アリィ。俺から離れるな。誰のことも見るな。何も覚えていないと言いはるんだ」
「はい」
昨夜も話し合ったことを繰り返すと、首元で頭が動いて彼女の髪がヒスファニエをくすぐった。その慕わしい感触を手放したくなくて、抱いたまま歩き出す。彼女が顔を離して急いで言った。
「自分で歩きます」
「こうしていたい」
「でも、重いでしょう?」
申し訳なさそうなアリィの物言いに、ヒスファニエは声を出して笑った。
「ぜんぜん。いつでもこうして連れ歩きたいくらい軽い」
彼は足を止め、恥ずかしげにする彼女に口付け、目をつぶったところで、無防備な首筋もぺろりと舐めた。
「きゃっ。ヒスファニエさま!」
アリィはじたばたとして拒もうとした。
「ここは外です! 誰かに見られたら」
「誰もいないさ」
「いますよ。下に来ているじゃないですか!」
「ここまでは来ない。あいつらが踏み入れていいのは、砂浜までだからな。ここは神域だ。許された者しか入ってはならない」
息を呑んで黙り込んだ彼女に、笑いかける。
「アリィは神に招きよせられたんだ。問題ない」
不安とも痛みともつかないものが、彼女の目に宿った。それを隠すように、再びヒスファニエに抱きついてきた。
アリィは聡く、現実を見極める能力がある。だから恋に浮かされているだけではいられないのだ。それは王妃としてふさわしい資質だった。ヒスファニエは彼女が苦しむのを痛ましく思いながらも、満足して彼女に囁いた。
「アリィ、君は俺の妻だ。そうだろう?」
「はい」
涙声と共に、じわりと首筋が生暖かく濡れる。伏せられた頭を優しく撫ぜてやりながら、言い聞かせる。
「俺たちは神が認めた夫婦だ。心配するな」
だが、それを本当のこととして、二人以外の誰が信じてくれるのか。
それは彼女だけでなく、ヒスファニエの憂慮でもあった。ただ、正しいことをしているという確信が、それに対する恐れを払拭していた。
神意は二人の上にある。これを否定する者は、神を否定するに等しい。偉大なる神の意思が、通らぬはずがない。
彼はそう信じていた。
そう信じるほか、なかったのだ。