13
ヒスファニエが目を覚ました時、アリィはまだぐっすりと眠っていた。
壁の隙間から入ってくる光に、アリィの首筋に自分が付けた跡が見え、彼は満たされた思いでそれを見つめた。
光の射し込み方で、いつもより日の位置が高いのがわかる。ヒスファニエもだいぶ寝坊だ。彼女は起きる気配もない。随分無理をさせた自覚はあるから、当たり前だろう。
意識がまったくない様子で、健やかな寝息をたてている彼女は、いつもよりさらに幼い表情をしていた。
けれど、昨日、ヒスファニエの愛撫に彼女が見せた顔や、あげた声は、果てしなく艶っぽく、吸い付くような肌と、小さくはあっても女性として花開いた体とあいまって、激しく彼を惹きつけた。
この表情の下に、あの顔がひそんでいるのだと思うと、昨夜あんなに触れたのに、まだ足りないと感じてしまう。
同時に、この眠りを守ってやりたいとも思わせられ、アリィに対する愛しさが生み出す二律背反の感情に、息苦しくなった。
「愛してる」
ヒスファニエは数分に及ぶ葛藤の末に小声で囁くと、まろやかな線を描く彼女の頬に、唇を落とした。
アリィの寝顔を見ているうちに、どうにも平静でいられなくなり、そっと起き上がって水汲みに出かけた。
外の空気でも吸えば少しは頭が冷えるだろうと思ったのに、彼女から離れたら離れたで気になって、さっさと厨に帰った。
目覚めて俺がいなければ、きっと不安な思いをさせる。……いや、彼が不安だった。
彼女を初めて抱き締めて眠った時と同じに。手を離した途端、失ってしまいそうで。
少々手荒く扉を開き、桶は水が零れるのもかまわずにそこへ置き、彼女へと歩み寄った。
ヒスファニエがたてた音のせいだろう。彼女が軽く眉をしかめ、寝返りを打ってから、眠そうに目を開けた。
ぼんやりとした瞳が緩慢に動き、こちらを見つけて、ふにゃんと笑む。そのゆるんだ嬉しそうな笑みに、彼もつられて微笑すると、彼女はそのまま目を閉じて、再びすーすーと寝息をたて始めた。無防備に。とても気持ち良さそうに。
昨夜、疲れて寝入ってしまった彼女に適当に着せてやった上着の袷が乱れて、胸が見えるか見えないかの微妙なところまで露になってしまっている。
ヒスファニエは彼女に手を伸ばした。直してやろうと、気になって仕方ない袷に触れたのに、なぜか手は勝手に、直すどころかその下の肌に触れていた。
不埒な手は、先ほどまで見えなかった、彼が見たかったものを探り当て、布の外へとさらす。掌の中のふくらみは眩暈がするほど触り心地が良く、無意識に感触を確かめるように揉みしだいていた。
ヒスファニエの限界は、そこまでだった。
理性はどこかへ消し飛んでしまい、本能のままに、手に入れたばかりの愛しい妻の上に屈みこむ。
体の奥から湧き上がる熱を彼女に宥めてもらうべく、まずは濃厚な口付けで彼女を目覚めさせるところから始めたのだった。
そうして。
彼は今、くすんくすんと泣く妻を胸に抱き、困惑の極致にあった。
痛いのか、と問えば、違う、と言い、恐る恐る、嫌だったのか、と問うても、違う、と言われて、へたりこみそうなほど安心し、何が悲しい、と問えば、悲しいんじゃないんです、と返された。
彼女はぎゅうっとばかりに彼にしがみついている。時々、甘えるように顔をこすりつけられると、心も体も刺激される。
彼女は猛烈に可愛かった。あまりの愛しさに、彼女が泣いているいたわしさに、最早きりきりと胸が痛んでしかたない。
「アリィ。なぜ泣く。俺はどうしたらいい。どうして欲しい。教えてくれ。頼む」
ヒスファニエはほとんど呻いて懇願した。彼女の涙は彼の寿命を確実に削る。
「なにも。なにもしてくださらなくて、いいの」
そう囁いて、彼女は甘い吐息を彼の胸に吐きかけた。そして致命的な言葉を続けた。
「あなたの妻になれて、嬉しいの」
「アリィ」
彼は彼女の思いに心臓を射抜かれて、抱き潰してしまいそうなほど彼女を強く抱き締めた。
どうしていいのかわからなかった。頭の中がぐらぐらと煮えたぎり、もっともっとと彼女を欲した。こうして彼女に触れるのが嬉しくて気持ち良いのに、彼女が別の人間であることが、一つに溶け合ってしまえないのが、もどかしかった。
彼女をたくさん感じたくて、ヒスファニエは彼女を引寄せたまま仰向けに寝転がった。彼女の重みが彼の前身にすべてかかる。左腕でしっかりと抱き寄せながら、右手は彼女の頭から背を、ゆっくりと何度もなぞって撫ぜた。
彼女は力を抜いて体をあずけ、心まであずけるように告白してきた。
「ずっと、ずっと、どうしたらいいのか、わからなかったの。みんな、ユースティニアが憎いだろうと言うの。みんな、父の仇をいつかとってやろうと言って、母や私を慰めてくれた。でも、私は父がいなくなって悲しいだけで、どうやって憎めばいいのかわからなかった。憎いだろうと言われる度に、そう思えないのが、すごく薄情な酷い子供のような気がして、いたたまれなかった。なぜ憎めないんだろうって、たくさん考えた。きっと、女なのがいけないんだって。他の女の人に比べても小さくて、力もなくて、剣なんかとても振るえなくて、もし憎んでも、戦うことなんてできないから、憎めないんだろうって。だから、男に生まれたかったって、思ってた。王太子を、ごめんなさい、あなたのお兄さまを、殺した英雄の子として、恥じずにすむ子供に生まれたかったって、思ってた」
彼女は兄のことに言及して、急に怯えて黙り込んだ。彼女に兄のことを引け目に思って欲しくなくて、彼女を得て、彼の胸の内で変わった心境を正直に伝える。
「いいんだ。俺も、もう憎しみの正体がわからなくなった。確かに君の父親は俺の兄を殺した。でも、俺の叔父が君の父親を殺したんだ。敵だから、憎んでいるから殺しあって、また憎しみをつのらせて、殺すのか? 敵がいる限り、この憎しみは消えない。だったら、完全に滅びるまで殺し合いを続けるのか? そんなことを続けて、何になるというんだ?」
彼女は彼の胸の上で頭をもたげ、彼の目を覗き込んだ。その目にまた涙を浮かべ、それでも彼女は静かに微笑んでいた。
「ヒスファニエさまは、絶対に立派な王におなりになります」
「うん」
彼は力強くうなずいた。くだらない恩讐を越え、ブリスティンと和平を結ばなければいけない。それを彼女が気付かせてくれた。
それが、この出会いをくださった神の意思なのだと思った。
彼と視線の位置が合うように、彼女の体を引っぱりあげた。頭を起こすが、口付けるには少し距離が足りなかった。彼が目で訴えると、彼女も焦れた色を浮かべていて、目をつぶって、初めて彼女から唇を寄せてくれた。
お互いの唇の柔らかさと存在を確かめる、穏やかで長い口付けを交わす。
相手の姿を目にしたくて、途中で少し離れて見つめ合うと、彼女が囁いた。
「あなたに抱かれて、思ったの。あなたが男だから、私は女に生まれたんだって」
それに、彼も万感の思いで応えた。
「そうだ。君を愛して守るために、俺は男に生まれたんだ」
彼女は笑んだ。まるで大輪の花のように、美しく、歓喜にあふれた笑顔だった。
二人は幸せだった。真実お互いを思いあっていた。相手のためならば命も惜しまないというほどに。
この愛があれば、どんな困難も乗り越えられると信じていた。
信じきれるほどに深い思いは、一月にも満たない日々の間に、何者も、そう、神さえ別ちがたく、二人の心も体も強く深く結びつけた。
『運命の恋』。
そう呼ぶに相応しい思いを、二人は思い合うことによって、確かに築きあげたのだった。
アリィ視点 「誘惑」14、15