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君に会いに  作者: 伊簑木サイ
ヒスファニエ編
12/44

    12

 翌日から毎朝神殿へ行き、神に祈りを捧げるのが二人の日課になった。

 ただ、大人になったヒスファニエは、もう神に願うことはなかった。幼く非力な子供ではなくなった今では、願うより先にするべきことがある。できることすらしない者に、好機をつかむことも、助力を期待することも、できるわけがない。

 ヒスファニエは意識ではそう考えていたが、己でも気付けない心の奥底では、本当は神に願うことを恐れていた。本気で望み、願ったことこそ、叶わないものなのだと。願ってしまえば、また今度も叶わなくなってしまうのではないかと。

 彼はそのかわり、その不安を消すように、たくさんの感謝を捧げた。

 彼女に出会えたことを、彼女に愛されたことを、彼女と共にあれることを、彼女が生まれてきてくれたことを。

 ただ、そこに彼女がいて微笑んでくれる。たったそれだけのことが、感謝してもしきれぬ、かけがえのないものとなっていた。

 ヒスファニエは体力を取り戻した彼女に、神殿のまわりから徐々に案内して、何がどこで手に入るのかを教えていった。

 礼拝を終えると、手をつなぎ、ゆっくりとあたりを観察しながら散策する。彼女と歩く緑深い島は、一人で食料を調達していた時と違い、どこを歩いても生き生きと輝いて見えた。

 彼女は好奇心旺盛で、ヒスファニエのすることは、なんでもやってみたがった。そうして彼を知ろうとしているようだった。簡単な罠の仕掛け方や、肉のさばき方、火の熾し方、水の探し方、そういったものを、二人で楽しんで行った。二人で同じことをする。それが嬉しくてしかたなかった。

 つないだ手、見交わす視線、自然とこぼれる微笑み。それ以上の体の触れ合いはなくても、心は常に共にあろうとしていた。

 二人は穏やかに過ごしながら、ゆっくりとその心を定めていった。相手に対する信頼が増し、迷いがなくなってゆき、ゆるぎない愛情がつのっていく。

 そして3日後の夜、彼女は彼の目をまっすぐ見つめながら告げた。

「私をヒスファニエさまの妻にしてください」と。

 彼は優しく笑んで、彼女の頭を撫ぜた。そっと髪を梳きおろす。

「では、明日、身を清めてから神殿に行こう。神にこの結婚をご報告申し上げ、誓いをたてよう。二人だけの結婚式となるが、いいか?」

 本来は神官の介添えが必要となる儀式だった。思ってもみなかった申し出に、アリィは驚きつつも、すぐに泣きそうに笑って頷いた。

「はい」

 それ以上言葉にならないのだろう。ヒスファニエを一心にみつめる瞳は物言いたげに揺れていたが、彼女はそう答えたきりだった。彼もそれ以上は何も言わなかった。

 ただいつもの通り抱き寄せて、身を寄せ合って眠りについたのだった。


 朝から二人は言葉少なだった。目が合うと、言葉より先に、にこりと微笑が浮かび、それだけで胸がいっぱいになる。

 アリィが(くりや)の中を掃除し、寝藁を替えている間に、ヒスファニエは再び湯を沸かした。

 準備がすむと順番に身を清めた。髪をまとめるのに時間がかかるだろうからと、アリィを先に入らせたのだが、ヒスファニエが出てくると、彼女は複雑に髪を結い上げ、白い花を飾っていた。

 その清楚な姿に見惚れ、彼の足が止まった。彼女はいつまでもそうして見ている彼に、恥ずかしそうにだんだんとうつむいていって、とうとう不安そうに聞いた。

「おかしいですか?」

 我に返って、ヒスファニエはすぐに彼女に歩み寄った。

「いや。とてもきれいだ」

 彼女に身を寄せ、髪型が崩れないようにそっと手を触れると、甘い香りがした。どこかで何度か嗅いだ覚えのあるものだった。どこでだったか記憶をたぐりながら尋ねる。

「この花の香りは知っている。なんという花だ?」

「ハルファといいます」

 どこか沈んだ感じのする声に彼女を見下ろせば、伏せたままの目元がやはり寂しげで、どうした? と頬を撫ぜて聞く。

 彼女は目を上げて、ふわりと笑って、なんでもありません、と言った。その透明な美しさに、ヒスファニエは心臓をわしづかみにされた。全身が疼いて、我慢できずに、性急に口付けた。

 あの日以来の口付けだった。すぐに彼女の温かく小さな舌を探し出し、絡め取る。不慣れながらも素直に応じる彼女を、溺れるように貪った。

 俺のものだ、と思う。もう、けっして離すものか、と。

 夢中で、もっと深くと彼女の頭をかき抱こうとして、すべすべとした白い花に触れ、はっとして顔を離す。女性の声が耳の奥によみがえっていた。

『触れてはダメよ、ヒスファニエ。この髪をといて、この花を抜いてもいいのは、夫となる人だけなんだから』

 一番上の姉だっただろうか。幼かったヒスファニエが、姉の結婚式の後、別れの挨拶をした時に、この良い香りのする花に興味を引かれて触れようとして、言われた言葉だった。

「花嫁の花か」

 思わず呟くと、うっとりとしていた彼女は瞬時に顔を強張らせ、目をそらした。

「ごめんなさい」

「なにを謝る?」

 彼女はただ横に首を振って、手を頭にやって、花を引き抜こうとした。その手を咄嗟に握って止める。

「なにをしてるんだ。よく似合っているのに」

「私、ずうずうしいことを」

 涙を堪えるような声だった。ヒスファニエは彼女の意図を理解して、優しく、けれど有無を言わさぬ強さで抱き締めた。

「引け目に思うことはない。君は俺が心から望んで妻にするんだ。君が俺のために花嫁の装いをしてくれて、とても嬉しい」

 本当に、目頭が熱くなるほど嬉しく、誇らしかった。

 本来なら、一国の王子と王女だ、もっときらびやかな衣裳で、国中の祝福を浴びて、神に誓っていてもおかしくないのだ。

 けれど、ヒスファニエはこれで充分だと思った。彼は上着を着ていないし、彼女も着のみ着のままだ。いっそ平民の結婚式よりも粗末だろう。それでも、こうして花嫁の花を髪に挿した彼女は美しかったし、誰が祝福してくれなくても、きっと神は寿いでくれるだろう。

 そしてなにより、こうして愛する女性が彼の妻となることを望んでいてくれる。それ以上の何が必要だというのだろう。

 ヒスファニエは身を離して屈んで、アリィの膝裏に腕をかけて抱き上げた。急なことに、彼女が小さな悲鳴をあげ、慌てて彼の首に腕をまわし、抱きついてくる。

 これ以上、一秒でも過ぎていくのが惜しかった。はやく彼女を彼だけのものにしたかった。

「神の祝福を受けに行こう」

 アリィはこくりと頷いて彼の胸元に顔を伏せた。

 ヒスファニエは彼女の温もりと腕にかかる重さを、この上もない幸せだと感じたのだった。


 神殿の他の窓も扉も締め切り、丸窓から射し込む日の光の前で跪き、二人は手を繋いで、その光の中へと手を差し入れた。

「私、ヒスファニエ・ユースティニアは、神から賜りし娘アリィを妻とし、いついかなる時も彼女を愛し、敬い、命を懸けて守り、命あるかぎり共に生きることを誓います」

 誓いの言葉に定型はない。ただ、その心のままに神に誓いを立てる。ただし、その誓いは魂を縛り、破れば黒い傷となって魂に刻み込まれるという。やがて死を迎え肉体を脱ぎ捨てた時、裏切りを行った痕は誰の目にも明らかになり、魂は神から相応の報いを与えられることになる。

 故に、誓いはもっと如何様にも取れる言い方をされることが多い。例えば、「この身に彼女への愛がある限り」などという文句が入れられたりするのだ。

 まして国王となる身ならば、誓いなどたてない。誓いに縛られて国益を損なうことを避けるために、ただ、結婚を宣言するにとどめるものだ。

 それから言えば、ヒスファニエの誓いは破格だった。死して後のことは神の手にゆだねられるために、人は誓ってはならないとされている。だから彼は、人に許されたすべてで、彼女を愛すると誓った。

 国王候補として無責任な行いをしているとは、ヒスファニエは思わなかった。彼女は神から賜った大切な女だ。なにもかも彼に差し出してくれようとしている彼女に報いるには、彼のすべてを懸けるのは当然だった。

 彼の誓いを聞くアリィの指に、力が込められたのがわかった。それを握り返すと、今度は彼女が誓いを口にした。

「私、アリエイラ・ブリスティンはこの名を捨て、神がヒスファニエさまに与えられた妻として生き、彼を生涯ただ一人の夫として、命あるかぎり彼を愛し、添い遂げることを誓います」

 この時、彼は初めて彼女の本当の名前を知った。アリエイラは『(アリエット)』を意味する。夜明けの光、それはとても彼女に相応しく思えた。ことに、この島の恐ろしいほどに美しい黎明を、何度も見た今ではよけいに。

 アリエイラという名を捨てたといっても、これから先、彼女を呼ぶ度に、きっと心の中では、闇を切り裂くあの光を思い浮かべるのだろうと、ヒスファニエは思った。

「我が神よ。セレンティーアよ。我らが誓いを聞こし召し、見そなわし給え。我ら御大神(おんたいしん)(しもべ)、この誓いに背くことは決してありません。どうか我らの誓いに慈悲と祝福を願い奉り申しあげます」

 そして、二人そろって額突(ぬかず)いた。

 ゲシャン海域では、頭を垂れるのは神に対してのみである。人には下げる代わりに、握り合わせた手を眼前まで上げることによって敬意を表する。神とはそれほどに唯一絶対の存在だった。

 ゆっくりと身を起こし、彼は丸い光から、アリィへと視線を移した。彼女も同じように彼を見上げてくる。

 言葉はいらなかった。交わった視線で、お互いの愛情が心に沁みるように感じられた。

「俺のアリエット()

 そう呼ぶと、彼女は柔らかく清らかな愛らしい微笑を浮かべた。

「はい。ヒスファニエさま」

「誓いはたてられた。君は、俺の妻だ」

「はい。…はい」

 うっすらと涙を浮かべ、胸いっぱいという様子で二度頷いた彼女に、ヒスファニエはふっと笑って尋ねる。

「夫とは呼んでくれないのか?」

 握った手の指を動かし、彼女の手をくすぐるように撫ぜ、催促する。

 彼女は恥ずかしそうに、それでも幸せそうに笑って、小さな声で囁いた。

「我が夫、ヒスファニエさま」

 彼女が瞬きをすると、たまっていた涙がぽろりぽろりと零れた。ヒスファニエは顔を寄せ、涙の後を唇で吸い取った。そうしながら、返事をする。

「ああ。アリィ」

 そうして、お互いに惹きつけられるようにして唇を交わす。

 厚い石壁に囲まれた、葉擦れの音も、鳥の声さえ聞こえない神聖な静寂の中で、確かに二人の声は、神に届いたかに思えたのだった。



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