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君に会いに  作者: 伊簑木サイ
ヒスファニエ編
11/44

    11

 アリィはあがった息で、浮かされてヒスファニエの名を呼んだ。

「ファー兄さま」

 あまりに甘く蕩けた声にさらに体が熱くなり、ヒスファニエは動きを止めた。

 これ以上ここにいたら、なしくずしに彼女の体を奪ってしまいそうだった。

「ファー兄さま?」

 潤んだ瞳で見上げてくる彼女の唇は赤く熟れていて、見るだけで彼の息も乱れてしまう。

 ヒスファニエは、彼女の頭をぐっと自分の胸に押し付けて見えなくすると、そのまま背中を支え、もう片方の腕を膝裏に入れて抱えて立ち上がった。

「外に行こうか」

 急なことに驚いた様子の彼女に、余裕なく、ぶっきらぼうに意志を伝える。

「…はい」

 彼女はおとなしく彼の胸によりそった。彼女のすべらかな肌と柔らかい髪が触れてくすぐったく、胸をかき乱す。きっと暴れ狂っている心臓の音は、彼女にも聞こえているに違いなかった。

 それで良かった。もう、彼女に気持ちを隠すつもりはなかった。これから告げなければならない己の真実の名を聞いても、彼女がヒスファニエの気持ちを疑うことがないように。この思いを、きちんと示して伝えたいと思っていた。


 外は緑に輝いていた。二人きりだった場所から、広く開けた場所に出て、少しうわずっていた気持ちが鎮まる。

 ヒスファニエはどこへとも特には考えず、それでも近くの森の中に倒木があったのを思い出し、そちらへと向かった。緑深い木々の中を数分歩き、倒れた木一本分、地面に光が当たっている場所に出る。

 倒木の表面が濡れていないことを確かめ、ヒスファニエは彼女をそこに降ろして座らせた。自分もその横に腰かける。そして、膝の上にある彼女の手を握った。

 横顔に彼女の視線を感じたが、そちらへは向かなかった。少し先に咲いている紫色の花を見ながら、どうしても告げておかなければならないことを口にした。 

「俺の名は、ヒスファニエ。ヒスファニエ・ユースティニア」

 彼は続けて言葉を吐き出すことができず、一度大きく息をついた。

「ユースティニアの王太子だ。ここへは、王位に就く資格を得るために、試練を受けに来た」

 それを聞いても、アリィはぴくりとも動かなかった。息すらしていないかのように静かだった。

 ヒスファニエも動かずにじっとしていた。彼女を見る勇気が持てず、時折風に踊る花と、地面に映る葉の影を眺めていた。隣りあって座っているのに、さっきまであれほど近かった心が遠く離れて、彼女が何を考えているのか欠片もわからなかった。全身の神経を尖らせて、彼女の気配だけをさぐっていた。

 と。彼女がひきつった息をした。

 触れている腕がゆれたのに反射的に見遣ると、彼女は呆然と宙を見て、ぽろぽろと涙をこぼしていた。

 ヒスファニエは驚いて手を伸ばし、彼女の頬をぬぐって包んだ。彼女の瞳が向けられる。彼と視線が合ったとたん、その顔が悲しげに歪められ、彼女は目をつぶって、こらえきれずにしゃくりあげた。

「アリィ」

 ヒスファニエはどうしてよいのかわからず、おろおろと彼女の頬や頭や肩や腕を撫でさすった。彼女はそれを拒みはしなかったが、彼に頼ってこようともしなかった。ただ瞳を閉ざして、声を殺して泣き続ける。

 彼女がなぜ泣いているのか、わかるようで、本当のところはわからなかった。なぜこんな泣き方をするのかも。それでも、見ているだけで彼まで辛くなってくるその涙を、なんとかしたかった。

「アリィ。アリィ。すまない。迂闊なことをした。君を傷つけた。本当に、すまなかった」

 痛みと疼きを訴える自分の胸に彼女を抱きこめば、彼女の涙もこの痛みも消える気がした。けれどそんな風に彼女に触れていいのかも、もうよくわからなかった。

「嫌なら、二度としない。君の望まないことはしない」

 彼女は唇を噛み、ぱっと目を開けた。そして両腕をふりあげて、彼の手を勢いよくはらった。怒りに燃えた目で、しゃくりあげ、言葉を途切れさせながら叫ぶ。

「私の父は、王弟アフル・ユースティニアに殺された!」

 ヒスファニエは息を呑んだ。彼女が敵国の姫なのだと、初めて思い知った気がした。

「父の名はラダト・ブリスティン。当時の王太子を殺した将軍」

 その名に、彼はわずかに顔をしかめた。反射的に積年の恨みと怒りを呼び起こされたのだ。

 挑むように見つめていた彼女の瞳が、力なく(かげ)る。

「私は仇の娘です」

 そしてうつむいて彼から視線をそらした。彼を拒絶した強さはどこにもなかった。しゃくりあげる彼女は、いつもよりさらに小さく見えた。

「だから?」

 ヒスファニエは尋ねた。急にわきおこった苛立ちそのままに、刺々しい声だった。

「だから君を憎むと? 君は? 君はそれで、俺を殺したいと思ったのか?」

「そんなわけ」

 彼女は跳ねるように顔を上げ、ヒスファニエと視線が合うと、途中で言葉を途切れさせた。そしてまた、うなだれて下を向いた。その間もぱたりぱたりと涙を落としては、鼻をすすりあげている。

 そうしている彼女はぐしゃぐしゃで、たぶんみっともない顔をしていて、だけど、それでも、どうしようもなくヒスファニエの心を惹きつける。そんな顔すら愛しいとしか感じない。いたいけなその姿を、独り占めしたいとしか。

 なぜなら、その涙は、ヒスファニエのせいであり、ヒスファニエのためなのだから。あんな告白よりも、言葉をともなわない涙こそが、彼女の心を雄弁に語っていた。

 それに思い当たった時、彼は言い方を間違っていたことに気付いた。彼女のあんな言葉を聞きたかったんじゃないと思ったそれは、まさに先に彼が彼女に言ったものと同じだったのだ。

 この気持ちを伝えたいと、余さず知って欲しいと思っていたのに、それより先に、自分は敵国の仇だと伝え、それでも本当に愛せるのかとつきつけてしまった。

 自分のあまりの愚かさに、ヒスファニエはゆっくりと横に首を振り、溜息をついた。正しい答えが欲しいなら、正しい質問が必要だと言ったのは、いつの時代のどこの島の賢者だったか。

 どのくらい余裕がなかったことか。話し合いの基本さえ失念していたなんて。アリィには、それほど心をゆすぶられてやまない。いつでも平静でいられない。だからといって、それに溺れて、彼女を傷つけては元も子もなかった。

「すまなかった」

 彼はもう一度謝った。今度は戸惑いではなく、心からの謝罪をこめて。

 倒木から腰を上げ、彼女の前に膝をつき、下から彼女の顔をのぞきこむ。顔をそらす彼女の両手を取り、それぞれを握りしめる。

「お願いだ。俺のために国を捨ててくれ」

 彼女は驚いて目を見開き、彼を見た。

「名も捨てて、ただのアリィとして俺の傍にいてくれ」

 ヒスファニエの心の底からの願いに、しかし彼女は悲しげに微笑んだ。

「許されるわけがありません」

 ヒスファニエは眉間を寄せた。そんなのはわかっていた。彼女と彼以外の誰もが祝福しはしないだろうと。

「それでも」

 握った手に力を込める。

「正妃さまがいらっしゃるのでしょう?」

 あれほど妃にしたら大切にしなければと考えていたルルシエのことなど、今の今まで、彼女に指摘されるまで思い出しもしなかった。大好きな従姉妹だったが、それ以上ではなかった。女として見ていなかったと、はっきりと悟った。

 それでも、彼女を娶らないという選択肢は、彼に許されていなかった。だから正直に彼女に教えた。

「候補が」

 彼女はそれに、冷静に他の女のことまで問うてきた。

「側妃さまも?」

「3人決まっている」

「名もない、後ろ盾もない娘が、本当にあなたの傍にあがれるとでも?」

 それまで慎ましやかに聞いていた彼女は、最後に挑むように言った。そこに、嫉妬がほの見えた気がした。

 ヒスファニエは不謹慎だと思いながらも、喜びがじわりと胸に湧き出すのを止めることができなかった。

 嫉妬するほど彼女に愛されているという自信が、ならば絶対に手放すものかという決意をうながす。

「君は、この神殿島に、試練の期間に流れ着いた。神からの賜りものだ。神が俺に与え給うた、俺の最愛の女だ」

 彼女の瞳が揺れた。止まりかかっていた涙が、またこぼれだした。

「そんなの」

 そう言ったきり、言葉を詰まらせた彼女に尋ねる。

「では、なぜ、君はここにいる?」

 彼は、また目をそらそうとした彼女の頬をおさえ、無理に視線を合わせた。その瞳をしっかり見つめて、言い聞かせる。

「俺の子を生むためだ。次のユースティニアの王を」

「そんな夢物語、うまくいくわけが」

 彼女の声は、涙に震えてかすれた。それに力強く答える。

「うまくいかせる」

 もちろん他の妃の許にも通わなければならない。それでも、()が子を生ませるのだ。道は必ずあるはずだった。

 実際、ヒスファニエの兄弟は、正妃以外の生んだ男児は一人もまともに育たなかった。死産か、生まれてすぐに死んだ。そのすべてが偶然とは思えなかった。

 現在の母は王太子の生母して地位を得ているが、本来はたいした後ろ盾もない小貴族の娘だった。それを父が初めは側妃として召し上げたのだ。

 それがどんなことだったのか、ヒスファニエは目の覚めるような思いで理解した。王族の男児は多くが短命だ。戦で失われるからだ。王には自分の息子を多く生ませる義務がある。そのための側妃たちなのだ。その義務に背き、恐らく我が子を殺してまで父が為したこと。自分もまた、父と同じことをしようとしているのかもしれなかった。

 彼の掌の中で、彼女は苦しげに目をつぶった。

「私、きっと嫌な女になります。あなたも()きれるほどの」

 かわいいことを言うと思った。ヒスファニエの胸が高鳴ってしかたなくなる。

「嫉妬してくれるのか?」

 高揚した気分のままからかった。彼女はすぐに目を開けて、睨みつけてきた。

「嫉妬します! 今だって! あなたが他の女に触れるなんて、いや!」

 ヒスファニエは笑った。思わず、声をあげて。

 アリィは眦を吊り上げて、本気で怒った。彼の手をふりはらおうとしながら、勢い良く立ち上がる。

「きらい! だいっきらい!!」

 けれど、ヒスファニエは彼女の手を強く掴んで離さなかった。

「いや。いや。いやっ」

 そう叫んで暴れる彼女を難なく引寄せ、羽交い絞めに抱きしめる。非力な彼女に叩かれても、痛くなどなかった。思いがけない動きで腕の中で身をよじる感覚が、艶めいた妄想を助長する。彼は彼女の耳元で、それを隠しもしない声音で囁いた。

「愛しているのは、君だけだ」

 その途端、すとん、と彼女の体から力が抜けた。

「アリィ、愛してる」

 彼女は無抵抗にヒスファニエに体をあずけて立ちつくして、盛大に鼻をすすりあげた。ひぃぃっくと、しゃくりあげる。えっえっと息が乱れて苦しそうだった。

 そんな彼女の様子に余裕ができた彼は、手近にあった掌半分ほどの丸い葉を摘むと、彼女の鼻に押し当てた。

「ほら、かんで」

 アリィは自分でやろうと手を上げたが、彼はそれを許さず、有無を言わせぬ笑みでうながす。彼女は恥ずかしがって、いやですと訴えた。

「だったら言ってごらん。ヒスファニエの妻にして、て」

 ん? と首を傾げて要求すれば、目を丸くして、見えるところ全部、見る間に真っ赤になっていった。

 それを見て、ヒスファニエは機嫌よく喉の奥で笑った。そして葉を彼女の手に持たせると、体を少し離して、チチチチ、と鳴いた鳥を探して顔をめぐらせた。

 彼が見ていないうちに、胸元でアリィが鼻をかみ終わるのを待って、穏やかに話を続ける。

「月のものが終わったら、返事をくれないか」

「わ、わたし」

 乱れた息に、そこで一度止まってしまった彼女の言葉を、うん、と頷いてさえぎり、

「わかってる。でも、良く考えてから返事をくれ。得るものだけでなく、失うもののことも考えて」

 説得で彼女の同意を得ることは、恐らく簡単だろう。このまま勢いで押し切ることもできる。だけど、そうしてはいけないと思った。

 彼女はすべてを捨てることになるのだ。国も身分も過去も、その名前さえ。一時の感情に流されて選んで欲しくなかった。それでは、そう遠くない未来に、すぐに終わりがくるとわかっていた。

 きっと険しい道になる。後悔する日もあるに違いない。生半可な覚悟では、その先には彼女の身の破滅しかなくなってしまうだろう。

 泣いてもいい。後悔してもいい。ヒスファニエをなじってくれてもかまわない。そうしても、それでも、共に生きるのだと思い定めていてくれれば。

 ヒスファニエには絶対に彼女を手放す気はないから。全力で守って、道を切り開いてみせる。

 もっとも、ヒスファニエは彼女に断られるとは思っていなかった。そして、もしも断られた時は、どう諦めればいいのか、見当もつかなかった。

 目元を真っ赤に泣き腫らした彼女は、いつもよりさらに幼く見えた。胸の奥が痺れて、頭を撫でずにはいられなかった。

「それまでは、俺は兄で、アリィは妹だ。もちろん、アリィが断ったとしても、君は俺の大切な妹に変わりはない」

 アリィが咄嗟に口を開こうとしたのを、彼女の唇に指を付けて止め、ニッと笑ってみせる。

「さて、我が麗しの妹君にご提案したいことが。ここから少し歩けば、例の葡萄の(その)に行けますが。食いしん坊さん、ご案内してさしあげましょうか?」

 おどけたヒスファニエを、彼女はしばらく物言いたげに見ていたが、そのうち、くすりと笑った。同じ調子で返してくる。

「まあ、それは楽しみ。ぜひご案内くださいな、大食らいさま」

 最後まで何事もなく言い切ったところで、彼女は涙の名残の小さなしゃっくりをした。ひゃぅ、と聞こえた可愛いそれに、思わず二人で目を見合わせて、おかしくなって笑い出す。

 アリィは声をたてて笑いながら、ヒスファニエに抱きついた。彼も優しく抱き(くる)む。そうして声を合わせて無邪気に笑いあう、二人の声が木々の間に響いたのだった。




アリエイラ視点 「誘惑」13

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