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「それと、もう一つお聞きしたいことがあるのです。あの、お話できないならば、無理にとは申しません。そうおっしゃってください」
アリィは腕をゆるめてヒスファニエの体を押すようにして離れ、真剣に顔を覗きこんできた。
「ファー兄さまは、なぜこの島に一人でいらっしゃるのですか?」
ヒスファニエはどこまで話して良いものかとっさに判断がつかず、困って沈黙した。
あと二十日あまりで彼女とは別れる。彼女はブリスティンの「姫」だ。その彼女が、ユースティニアの、しかも次期国王に助けられたなど、きっと知らない方がいい。
答えあぐねる彼に、説明が足りないと思ったのか、彼女は言葉を重ねた。
「あの、怒らないでくださいね? 私、お兄さまがここに一人で置いていかれたと聞いたような覚えがあって、だからずっと、何か犯罪を犯した人なのだと思っていたのです」
「そんなこと、言ったか?」
「よく覚えていないのですが、たぶん、浜辺で拾ってもらった時に。でも、ファー兄さまは怖い人に見えなくて。きっとなにかの間違いで罪を犯してしまったんだろうって」
あの時ならば、そんな話をしたかもしれない。全然覚えはなかったが。
ゲシャンでは、時に罪を犯した人間を島流しにする。たった一人で無人島に放り出すのだ。それは珍しいことではない。アリィはそれと勘違いしたのだろう。
そして今も気遣わしげなのは、その疑いが晴れないからなのだろう。
そこには犯罪者に対する、恐れも蔑みもなかった。ヒスファニエに対する心配しかなかった。犯罪を犯しそうにもない人間が犯してしまったとすれば、良心の呵責に苛まれているに違いないのだから。
彼女が本当に聞きたいのは、この島にいる理由ではないのだろう。ヒスファニエが苦しんでいるか、いないか、それだけだ。
それが嬉しく、そして切ない。幸せで、苦しかった。しかし、彼はそういった感情は全部隠して、ただ事実だけを教えた。
「罪は犯していない。俺はここで時期を待っているだけだ」
「時期?」
「ある諍いで命を狙われるかもしれないから、ここに匿われているんだ」
大筋では間違っていない。それほど心配はしていなかったが、海の向こうでは、王位をめぐる政争が起きているかもしれないのだ。
「そうでしたか」
アリィはほっと息をついた。
「安心したか?」
からかうように言うと、キッと強気で見つめてくる。
「初めから、お兄さまが理由もなく恐ろしいことをする人だとは思っていません。でしたら、私は今ごろ、ここにこうしていられなかったでしょう」
膝の上にのせ、抱っこしている年下の女の子に、また言い負かされてしまった。というか、窘められたのだろう。自分を貶めるようなことを言うな、と。
ヒスファニエはくすくすと笑った。彼女は体の小ささ、顔の可愛らしさに似合わぬ、果敢さがある。時々、無謀なくらいに。
初めて会った時に、睨みつけられたことを思い出す。彼女の純粋さ、誇り高さはどれも好ましいが、それが、ふと心配になった。
こういった危うい強さを、ヒスファニエのように大事にしたいと思う男もいれば、折り取って、ねじ伏せたいと思う男もいるだろう。
彼は遠い目をしてしばらく考え込んだ。そもそも、彼が無事にこの島から出られるという保障はどこにもないのだ。その時、彼女を巻き込むことだけはしたくない。
彼女が「姫」だというのなら、必ず迎えは来るだろう。死体なり、形見の品なりが見つかるまで、相当の期間捜索が続けられるはずだ。それがまだないのは、デュレインたちに足止めされているからかもしれなかった。
それはともかく、彼に何かあっても、しばらくの間、一人で生きていけるようにしてやらないといけない。非力なのならば、せめて逃げ、隠れ、生き延びる術を教えておいてやらなければ。
「明日はこの付近を案内してやろう」
ヒスファニエは彼女に視線を戻して言った。
「あの葡萄は、それほど離れていないところになっているんだ。そこにも行こうか」
「はい」
彼女はにっこりとして頷く。その可愛い仕草に、彼は思わずいつものように、いい子いい子と撫でてしまったのだった。
翌日、ヒスファニエは彼女を神殿に案内した。彼女を拾ってからは、忙しくてこちらには来ていなかった。ずっと空気の入れ替えはしていなかったのだが、淀むことなく、彼が初めてここに足を踏み入れた時と同じように、ひんやりとした静謐さが神殿内を支配していた。
「ここは」
思い当たったかのようなアリィの呟きに、頷いてやる。
「ああ。セレンティーアの大神殿だ」
「ここは神殿島なのですね」
「そうだ」
アリィは祭壇の前まで歩いていった。正面には、セレンティーアが天界で神々と地上を支配しているレリーフが掲げられ、中央の高い位置には、かの神のシンボルである太陽の光を取り入れるために、ぽつんと丸窓があけられていた。
大神官はこの神殿の他の窓をしめきり、あの窓から差し込んでくる丸い光の中で、神の託宣を受け取っていたという。
アリィはその日の光を踏まないようにひざまずき、手を胸元で組み、頭を垂れた。彼女の清らかな姿に、ヒスファニエも自然と横にひざまずき、同じように頭を垂れていた。そうすると、浮かんでくる言葉があった。
彼女に出会えたことに感謝いたします。
胸の内で、本気で神に感謝を捧げた。実に10年ぶりのことだった。
10年前、戦に行く兄の無事を願い、しかしそれが叶えられなかった時に、ヒスファニエは神に祈るのをやめていた。
当時は、毎日毎日祈ったものだった。朝も昼も夜も。兄や戦士たちの無事を。ユースティニアの勝利を。幼かったヒスファニエには、それしかできなかったのだ。
けれど勝敗はそれまでと同じようにどっちとはつかず、そればかりか王太子であった兄までも失ってしまった。
神はヒスファニエの、ユースティニアの民の願いを聞き入れてくれる存在ではなかった。ヒスファニエは、そんな神を決して崇めたりするものかと、呪ってすらいたのだ。
なのに、不思議なことに、こうしてひざまずいてみれば、そこには感謝しかなかった。
ブリスティンの姫とユースティニアの王子が出会うことなど、普通ではありえない。しかも、憎しみではなく、信頼と愛情を持ってお互いに接することができるのは、奇跡だった。
彼は先に頭を上げ、彼女の横顔を見ながら待った。
やがて祈りを捧げ終わったアリィが、ヒスファニエを見上げて微笑んだ。純粋な好意だけが浮かんだそれは、儚いくらいに美しく、愛しさと同時に不安がこみあげた。彼女は今だけの存在で、一瞬後には夢や幻のように消えてしまうのではないかと感じたのだ。
だから彼は彼女を抱きとめたくなって、でも、そうした瞬間に本当に彼女を失ってしまう気がして、恐ろしさに、右腕を誘うように開いたきり、動けなくなった。
彼が祈るような気持ちで見守る中、彼女はもっと綺麗に微笑んだ。そして、ゆるやかに動いて、彼の手へと彼女の手を重ねてきた。
重なった小さな手が、確かな感触を伝えてくる。手の中のそれが消えてしまう前に、彼は急いで彼女を引寄せ、腕の中に抱き締めた。
彼女の腕が応えるように、ヒスファニエの背にまわった。細い指が彼の背を這い、やがてしっかりと当てられる。
燃えるような恋慕が身の内から彼を苛んだ。
「アリィ」
「はい」
無意識に彼女を呼んでいた。彼女が欲しかった。欲しくて欲しくてたまらなかった。
なぜ、神は俺たちを出会わせたのだろう。
これがただの偶然ではないのなら。真実、神の意思だというならば。
神が、アリィを、俺に、真に賜ったというのならば。
ヒスファニエは彼女の頭に触れ、上を向かせた。彼女の瞳を見たかった。瞳から彼女の心の中を見透かして覗きたかった。
神の真意を。いや、自分と同じ気持ちがないものかと、すがるような気持ちで。
視線が絡む。そのとたん、彼の頭の中は真っ白になった。
彼女の瞳に囚われる。
愛しい人。最愛の女。
────神からの賜り物。
ヒスファニエは、突き動かされるままにアリィの唇に口付けた。少し乾いた柔らかいそれを、己の唇で食む。腕の中で彼女が震えて、もっと強くしがみついてきた。
「愛してる。君を愛しているんだ」
唇を押し当てたまま、囁いた。
続いて強く吸った彼女の唇が動くのに気付き、押し当てるだけに変える。
「私もお慕いして…」
ヒスファニエはその意味を理解した瞬間、最後まで聞くだけの余裕を持てず、彼女の言葉ごとその息を飲み込んでしまった。
それから二人は喜びに彩られた情熱のままに、静謐な神殿の中で口付けをくりかえした。
いつしかその位置を音もなく変えた日の光が、彼らを祝福するように照らしだしていた。
アリィ視点 「誘惑」12