出会い1
昨夜は酷い嵐だった。石造りのはずの神殿さえ、一晩中どこかが始終ぎちぎちと軋み続けていた。
いつも寝起きしている厨は無事だろうか。地崩れでも起きたら、あんな小部屋ひとたまりもないと思ってこちらに避難したのだが、だだっ広い神殿の中でさえ心安まることはなく、結局うつらうつらとしか眠れなかった。
ヒスファニエは扉の隙間から差し込んでくる光に目を細めて欠伸をした。
少し前に外は急に静かになり、鳥の声が聞こえるようになっていた。どうやら嵐は去り、朝がきたらしい。
いいかげんこのままぐっすりと寝てしまいたかったが、そういうわけにもいかない。重い腰を上げて、一つずつ明り取りの窓を開けていく。最後に大扉を開け放ち、扉の脇に置いてあった棒を持って、外に出た。
辺りは雨に洗われ、空気さえ透明度が増しているようだった。昨夜の名残の、植物の葉に宿った雫が日の光を弾き、目を射られる。ヒスファニエは思わず眼前に手でひさしをつくった。
もともとここは神域で、それほど信心深くないヒスファニエでさえ、なんとなく心身ともに引き締まるような、浮き立つような、そんな感じを受ける場所だ。そこが闇を切り裂いた朝の光に満たされた様は、非力な人など歯牙にもかけない荒々しい神々しさにあふれていた。
息をするたびに神気のせいか、頭の中がはっきりとして、体が目覚めていくのがわかる。ヒスファニエは何度も深呼吸を繰り返した。
ここ、主神セレンティーアの大神殿のある神殿島は、古はエーランディア一族の治める島だった。ここにはセレンティーアの声を聞く神官がいて、ゲシャン海域に住まい、生きるに迷った者たちは皆、かの神官を頼り、神託をこいねがったものだったという。
しかしそれは、大災害の前の話だ。地が崩れ、山は火を吹き、海が陸を覆い尽くそうとし、天が裂けたと伝えられる大災害の寸前、神は神官に一つの神託を降した。
『東の大陸にある冥界の門を開き、そこに囚われし神を救い出せ』と。
神託はすぐさま島々の王たちに伝達され、王たちは遠征の準備を始めたが、それは実行されることはなかった。大災害が起き、船も家々も民も流され、生き残った者たちすら、その日を生きるのにせいいっぱいとなってしまったからだった。
なんとか生きるだけの道筋がつき、ようやく船を建造して島々を渡れるようになってから、王たちは神殿へとおもむき、未だ遠征できぬことの釈明と、復興への加護を願った。
だが、神は黙して、決して応えなかったという。そして今に至るまで、どんなに祈りを捧げても、神託は降りなくなってしまった。
神の意に従わなかったために、怒りに触れたのだとも、主神も冥界に閉じ込められてしまったのだとも言われている。
それ以来、ゲシャン海域に住まう者たちの悲願は『冥界の門』を探し出し、再び神の加護を得ることとなった。
しかし、それには大海原を越えなければならず、それを越えられたとしても、その先には未知の大陸がある。王たちはそれぞれに何度か探索者を差し向けたが、戻ってきた者は一人としていなかった。
神に対する敬意は失われはしなかったが、神と交感できなくなったエーランディア一族が衰退していったのは仕方のないことだろう。
そうして200年ほど前、エーランディアの最後の神官が自ら探索に向かい、とうとうこの神殿で祈りを捧げる者はいなくなってしまったのだ。
神殿島から最も近い島の王家、すなわちヒスファニエの連なるユースティニアには、その当時の詳しい話が伝わっている。当時の王と最後の神官は、幼き日々を共にした親友同士だったのだという。その神官は、親友が王位に就いた時に、探索の船を出せと要求したらしいのだが、王はそんな無駄はできないと突っぱねたらしい。真実とは思えないたかが神話のために、貴重な人命を差し出したりはできないと。
『人に行けとばかり言わないで、たまにはご自分で行かれればよろしかろう』
それは皮肉であり、冗談であり、それよりなにより、大神官の言動を戒める意図が込められた言葉であった。衰退したといってもエーランディアの血はどの王族よりも尊ばれ、崇められていたのだから。その大神官が探索せよと命ずれば、王たちは生贄のように民を差し出さねばならない。それが良い結果をもたらすとは、思えなかったからだ。
だが、当時の大神官という人は、神官にしておくには惜しいほどの血気盛んな方だったとかで、売り言葉に買い言葉もあってか、本当に、ただ一人で、誰にも止められぬよう闇夜に乗じて行ってしまったのだという。
王は己の言葉を悔いたらしいが、大神官殿を追わせなかったという。追いついたところで聞くような人物ではなく、ならば追う意味もなかったからだ。
そのかわり、今に至るまでこの島を預かり、この神殿を維持してきた。
いつか、エーランディアを名乗る者が帰るとすれば、それは宿願を果たした時だろう。そのお方がご帰還されるまで、この地を守ることこそ、ここに残った者の使命であろう、と。
そんないきさつから、ここはユースティニアの王領となり、代々その話と共に王にゆだねられてきた。
ヒスファニエもあと一月もしないで王となる資格を得る。この島でナイフ一本で一月を生き抜くことができた者には、神の祝福が与えられると信じられており、ユースティニア王家では、それが王位に就く条件となっていた。
それはさほど難しい話ではない。この島は温暖な上に実り豊かで、真冬でさえなければ、食べられる植物がいくらでも自生している。それに海も非常に豊かだった。まっとうなゲシャンの男ならば、一月程度、生き延びられないわけがない。
問題は、王位に就くのに反対する者がいる場合だ。国王候補は、ここで一人で過ごさねばならない。つまり暗殺するにはもってこいの状況なのだ。
反対する者もいれば、賛成する者もいる。国王候補をめぐる争いは、この島を囲む海域で行われており、それが破られた場合は、彼一人で対応しなければならないのだった。
ヒスファニエは側近であるデュレインたちを信頼していた。それでも、あの嵐では本島にでも退避しなければならなかっただろう。
つまり今、ここは非常に無防備になっているはずだった。もしもを考えて、海岸を見回りにいかなければならない。幸い北側は断崖絶壁で、上陸するのは無理だ。島の南側半分を見てまわればいい。
そうは言っても丸一日はかかるのだが。
ヒスファニエは大きな伸びをして、神殿に戻った。
腹が減っていた。とりあえず、厨が無事だったら、一緒に避難した鍋を竈にかけて、中のスープを温めよう。まずは空腹を満たして、他はそれからだと思ったのだった。