すみれ
「読んじゃだめ!」
デスクの上に置かれたままの本に手をかけた時だった。
ものすごい剣幕でこちらにやってきて奪うように本を掻っ攫っていった。
「ごっごめん、それ君のなの?」
見ようと思って触れたわけではなくて、条件反射的なやつで。
よほど見られたくないものだったのか、本を服の下に隠した。
「ちょ、ちょっと、借りてるものなの。だから見せられないの」
「ふーん」
あきらかに嘘だとわかった。きっと本人の持ち物に違いない。
慌てた様子で部屋を出て行こうとしたが、扉の前で立ち止まるのが見えた。
ここから出られないのは知っていた。
「僕たちここからしばらく出られないよ」
親切心で教えてあげた。
そしたら警戒していた彼女の顔がパッと花が咲いたように明るくなった。
その眼差しは青でもなくて紫でもなかった。
すみれの花の色。
庭に咲くすみれだ。
「あなたは、あの人たちの仲間でしょ?」
あの人たち。
そう、僕はあの人たちなのだ。
「そうだよ、今日は視察に来るって言うから着いてきたのに、
まさかここに閉じ込められるとは思わなかったよ」
すみれは仲間を見つけたと言わんばかりに僕の方に駆け寄ってきた。
「あなたもなの?!」
また、花が咲いた。
どうやらすみれもここに閉じ込められたらしい。
「でもなんで君は閉じ込められたの?」
僕とは理由が違いそうだった。
すみれは眉を寄せて、口を尖らせながら言った。
「イタズラをするからって、閉じ込められたの」
なるほど。
少し予想外の理由に思わず僕は吹き出してしまった。
「きみ、面白いね。いたずらって何をするの?」
「えっと〜、あの人たちってすごく嫌なやつなの!だからね……」
とんだお転婆な、すみれだった。
ここに閉じ込めた人には賞賛を贈りたい。
あやうくズボンを濡らして帰る羽目になるところだった。
でも……
「ちょっとそれ、見てみたい気もする」
すみれがキラキラと輝いた。
「ね!それじゃあやろうよ!」
「え!」
そんなつもりは無かった。
だけど、すみれはもう動き出している。
きっと僕には止められない。
目の前のこの少女さえ、僕には止められないのだ。
「あのさ、やめておいた方がいいよ。きっと怒られる」
「大丈夫!そしたら走って逃げるの」
「無理だよ、後から叱られるだけだよ」
「なぁに? 怖いの?」
怖いにきまってる。
すみれはあの人たちを知らないんだ。
「怖いよ、下手したらここに置いていかれるかも」
「そしたら明日も遊べるね」
すみれはそう言ってまた花を咲かせた。
「そっちになんかありそうー?」
「ここには無さそうだよ」
すみれは部屋中の扉と引き出しをあけて、
脱出の手がかりを探し回った。
出られるわけが無いのに。
開け放たれた引き出しを探しているふりをして閉めて回った。
出られるわけが無いから。
「ねぇ、ここ怪しいと思わない?」
すみれの真剣な横顔が、なぜか僕の好奇心を駆り立てた。
叱られるとわかっているのに。
「鍵がかかってる。暗証番号式だね」
「うーんなんだろうなぁ」
「こういうのは、大体個人に紐づく情報にしてる人が多いんだ。
でもさすがに局長の執務室じゃあ、考えられるのは…」
いくつか試して開いてしまった。
「君は局長の子どもなの?」
「子ども? そうだよ。なに言ってるの?」
「そうだったんだ、失礼な態度だったらごめんなさい」
不思議そうな顔をして、すみれは鍵の解かれた引き出しを開けた。
中はアナログの鍵と、ヴォイドリンクがいくつも入っていた。
「これで出られるね」
いたずらに笑った顔が、冒険への好奇心を加速させた。
「ここの突き当たりに部屋があったから、一回そこに隠れよう」
構内はすみれの方が詳しくて、目的の部屋まであと少しだった。
でも、身の隠し方が中途半端で何度か肝を冷やした。
道順の案内はできないけれど、隠れ方なら教えてあげられた。
「ねえ、君は怒られるの怖く無いの?」
「怖くない」
「えっ! なんで!?」
「聞いたことなにも教えてもらえない方が怖い」
「教えてもらえないって、君局長の子供なんでしょ?」
「っまって!」
通路をアルダナリたちがぞろぞろと通り過ぎていく。
息を顰めながら僕は考えていた。
すみれの優先順位を。
僕なら、兄や周りの大人たちから
わざわざ叱られたり罰をうけるようなことを
するのは馬鹿らしい。
いつも静かにして、言うことを聞いていれば
なにも起こらない。迷惑だってかけない。
誰も傷つかないし、困らない。
それが僕の常識で、日常だ。
でも、
でも、すみれは、
これをひっくり返す方が怖く無いと言う。
「行こう!」
そう言ってすみれは、僕の手を取って走った。
いつも僕は兄たちの手を取り、
大人たちの言うことを聞いてきた。
役立たずにならないように。
落ちこぼれにならないように、と。
補給室に忍び込んだ。時間外のせいか、がらんとしている。
すみれは補給食のパウチをポケットに入れた。
一緒にトイレへ駆け込んだ。
「うわ、美味しく無いね…」
「そお?」
「それで、これをどうするの?」
ポケットから出てきたのは三本のカラーチューブ。
閉じ込められる前からの計画があったようだ。
鏡に映った自分の顔に驚いた。
すこし笑っていたからだ。
「これを入れてっと! いい感じになった!」
「すごい。ほんとにできちゃったね。
でもこれどうやって仕掛けるの?」
補給食のパウチには色水が入っている。
しかもとびきりの配色で作った色水が。
こっそりと忍び込んだ日課室にはまだ誰も来ていなかった。
あいつら専用の椅子には、ご丁寧にクッションが敷かれ
座り心地をよくしてあるようだった。
すみれは日頃、それをよく見ていて、知っていたのだろう。
クッションの下にキャップを緩めたパウチを忍ばせた。
「できた、できた」
「うまくいくかな、これどっちにしても怒られるやつだね」
「じゃあやめる?」
「え!」
僕は少し迷った。今ならまだ、引き返せると思ったからだ。
でも。
やめたく無いと思った。
あいつらの慌てふためく顔を見てやろうと思った。
いつも威厳があって、
堂々としていて、隙がなく、
慈悲のない、あいつらの。
「やる。やるよ、別に誰か死ぬわけじゃ無い」
「にしし、そしたら決まりだね」
ドキドキという鼓動には種類があるのだと知った。
僕はこんなドキドキは生まれて初めてだった。
狭いキャビネットの中で、
すみれも同じドキドキを持っていた。
日課室には、それは、それは下品な音が響き渡った。
軍服のズボンはびしょ濡れで、部屋中の子供たちは
騒然となっていた。
やがて、それが大きな笑い声になるまでに
そう時間はかからなかった。
僕は笑いを堪えるので必死だった。
兄様や他の大人たちのあの情けない顔ったら。
越えられないと思った壁に手をかけられた気さえした。
震える肩が触れ合うと、思わず顔を見合わせた。
僕の隣では、
また、すみれが咲いていた。




