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静かな夜を歩く者  作者: 和泉發仙


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第九話 鐘楼の影と、名を刻まない墓



その街では、鐘が多すぎた。


朝を告げる鐘。

昼を区切る鐘。

祈りを促す鐘。

死を知らせる鐘。


音が多い街は、静けさを管理している。

管理される静けさは、いつも誰かの都合だ。


アッシュが入った街は、丘の上に築かれていた。

石段が続き、荷車は使えない。人の足だけが街を支える。

名は「ベルク=アルト」。古い鐘の街、という意味だ。


門はなく、代わりに鐘楼がある。

鐘楼の下に机があり、老いた僧が座っていた。


「名は」


「要らない」


僧は顔を上げ、アッシュを見る。

その目は濁っているが、鈍くはない。


「名を残さぬ者は、鐘を鳴らせぬ」


「鳴らすつもりはない」


「なら通れ」


僧は何も書かず、何も取らなかった。

この街の通行税は、別の形で取られる。


石段を上ると、街が開ける。

家々は古く、壁に小さな鐘が取り付けられている。

扉を開けると鳴る鐘。

店に入ると鳴る鐘。

人が倒れると鳴る鐘。


(音で生死を測る街だ)


宿は鐘楼の近くにあった。

女将は寡黙で、鍵を渡すときだけ言った。


「夜は、鐘が鳴る」


「いつも鳴っている」


「違う。

 夜の鐘は、名を呼ぶ」


名を呼ぶ鐘。

それは良い意味でも悪い意味でもない。

ただ、そういう仕組みなのだろう。


部屋に荷を置き、外へ出る。

夕暮れの街は静かだ。

だが、人々の動きが不自然に揃っている。

鐘の合図で歩き、鐘の合図で止まる。


広場に行くと、中央に小さな墓地があった。

墓は多いが、名が刻まれていないものが目立つ。

十字だけの石。年号だけの石。何も刻まれていない石。


その前で、若い女が立ち尽くしていた。

黒衣ではない。普段着だ。

手に小さな花束を持っている。


アッシュが近づくと、女は言った。


「名がないの」


「誰の」


「弟の」


声が震えているが、泣いてはいない。

泣く場所を失った声だ。


「どうして」


女は墓石を指した。


「鐘が鳴らなかった。

 だから、名が刻まれない」


アッシュは黙って聞く。


「この街では、死ぬと鐘が鳴る。

 鐘が鳴ると、僧が来て、名を書き留める。

 名が書かれると、墓に刻まれる」


「鳴らなかった」


「……夜だった。

 夜の鐘は、許可がないと鳴らない」


許可。

また紙だ。


「弟は、夜に外へ出た。

 病の母に、薬を取りに行っただけ。

 でも、夜の外出には鐘楼の許可が要る」


「許可は」


女は首を振る。


「取れなかった。

 昼に並んだ。

 でも、“理由が弱い”って言われた」


理由が弱い。

命の重さを測る秤だ。


「弟は、路地で倒れた。

 夜警が見つけた。

 でも、鐘を鳴らさなかった」


「なぜ」


女は唇を噛む。


「鳴らすと、許可なく外に出たのが記録される。

 記録されると、罰が出る。

 だから……事故にした」


事故。

どの街でも、便利な言葉だ。


「事故だと、鐘は鳴らない。

 名も残らない。

 だから、ここには名がない」


女は花束を墓の前に置いた。


「名がないと、祈れない人もいる。

 でも私は……ここに来る」


アッシュは墓石を見た。

名がない石が、やけに多い。


(鐘が多い街は、鳴らさない音を増やす)


夜。

鐘が一度、低く鳴った。

合図だ。人々が家に入る。


アッシュは宿に戻らず、鐘楼へ向かった。

夜の外出は許可制。

だが、彼は許可を持たない。


鐘楼の扉は閉じている。

だが、脇に小さな扉があった。僧の出入り口だ。


扉を叩く。

中から声。


「誰だ」


「名のない者だ」


沈黙。

やがて、扉が少しだけ開く。


昼にいた老僧だ。


「夜だ」


「知っている」


「許可は」


「ない」


老僧はしばらくアッシュを見ていた。

そして、言った。


「なら、聞け。

 この街の鐘は、神の声ではない。

 秩序の声だ」


「秩序が人を殺す」


「……殺すのは人だ」


老僧は扉を開け、アッシュを中へ入れた。

鐘楼の中は暗く、階段が続く。

上へ行くほど、音が響く。


「鐘を鳴らせば、街は動く。

 だから、誰が鳴らすかが重要だ」


「誰が決める」


「評議会だ」


「評議会は、何を恐れている」


老僧は立ち止まった。


「混乱だ。

 夜に鐘が鳴りすぎると、人は眠れなくなる。

 眠れぬ街は、壊れる」


「鳴らさないと」


「名が消える」


老僧は言った。


「名が消えても、街は眠れる」


アッシュは階段を上った。

鐘の前に出る。巨大な鐘だ。

触れれば鳴る。

鳴らせば、街が動く。


「弟の鐘は、鳴らせるか」


老僧は首を振る。


「遡っては鳴らせぬ。

 鐘は“今”しか鳴らない」


「なら、今鳴らせばいい」


老僧の目が見開かれる。


「今、誰の」


「名のない者たちの」


老僧は震えた。


「それは……混乱だ」


「混乱は、秩序の影だ」


アッシュは鐘に手をかけた。

老僧は止めなかった。

止めれば、彼自身が“選んだ”ことになる。


鐘が鳴った。


一度。

二度。

三度。


夜の街に、重い音が落ちる。


人々が目を覚ます。

扉が開く。

窓が開く。


鐘は、名を呼ばない。

ただ鳴る。


四度目の鐘で、夜警が走り出す。

五度目で、評議会の使いが鐘楼へ向かう。


老僧が言った。


「……誰の死だと記録する」


アッシュは答えた。


「名のない死だ」


老僧はしばらく黙り、やがて帳面を開いた。

名を書く欄に、彼はこう記した。


――名なし。

――夜。

――理由:事故。


事故。

だが、今回は違う。


老僧は続けて書いた。


――名を刻むべき数、多数。


帳面を閉じ、老僧は息を吐いた。


「これで、明日から……」


「鳴らす理由が増える」


アッシュが言う。


「鳴らさない理由も増える」


老僧は苦く笑った。


「街は、私を許さぬだろう」


「許しは要らない」


アッシュは鐘楼を下りた。


夜明け。

広場の墓地に、人が集まっていた。


名のない墓の前に、僧が立ち、石工が来ている。

石に刻む準備だ。


女がアッシュを見つけ、駆け寄る。


「……鐘が鳴った」


「鳴った」


「弟の名は……?」


女は震えている。


石工が刻み始める。

名ではない。

ただ、一行。


――名を呼ばれなかった者。


女は涙を流した。

だが、それは初めて流す涙だった。


評議会は怒った。

老僧は責められた。

夜の鐘の規則は厳しくなった。


だが同時に、夜警は鐘を鳴らすようになった。

鳴らさない理由が、問い返されるようになった。


鐘は、まだ多すぎる。

だが、鳴らない音は減った。


アッシュは街を出る。

丘を下りながら、最後に鐘の音を聞いた。


それは、名を呼ばない鐘だった。

だが、誰かが生きていた証を、確かに揺らしていた。


次の街へ。

次の夜へ。


静かな夜を歩く者として。

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