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静かな夜を歩く者  作者: 和泉發仙


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第八話 黒い帳簿と、パンの匂い



街に入った瞬間、パンの匂いがした。


焼きたての匂いではない。昨日のパンを温め直した匂いだ。

温め直したパンの匂いは、貧しさを隠すための匂いでもある。腹を満たすための匂いでもある。


城壁は低く、門は古い。

その代わり、街道が太い。荷車の往来が絶えない。ここは通り道の街だ。通り道の街には、必ず帳簿がある。


街の名は「メルクハイム」。


門番は銅貨を受け取るだけで通した。

顔は眠そうだが、目は忙しい。数を数える目だ。


(剣の街ではない。数字の街だ)


宿を探すより先に、アッシュはパン屋へ入った。

雨上がりの冷えた空気の中で、店内の熱が肌に当たる。

女主人は粉だらけの腕で、パンを並べていた。客は多いが、皆、買う数が少ない。銅貨が一枚、二枚。小さな買い物だ。


アッシュが水を頼むと、女主人は一瞬驚いたが、すぐに木杯を出した。


「旅人さん?」


「そうだ」


「パンはいらないのかい」


「匂いだけでいい」


女主人は小さく笑った。

笑い方が上手くない。だが、上手くない笑いは信用できる。


店の隅で、子どもがパンの端を見つめている。買わない。買えない。

女主人はその子どもに視線を向け、見て見ぬふりをした。見て見ぬふりをしなければ、店が潰れる。店が潰れれば、もっと多くの子どもがパンを見つめる。


アッシュは水を飲み、店を出た。


広場へ向かう。

広場の中央に、市の掲示板がある。そこに貼られているのは、犯罪者の名前ではない。税の告知だ。


――今週の荷車税

――穀物税

――倉庫使用料

――夜間照明費


細かい。

細かいが、どれも“必要”そうに見える。必要そうに見せるのが上手い。


掲示板の横に、帳場があった。

木の柵で仕切られ、役人が三人。紙をめくり、羽根ペンを動かし、銅貨を数えている。


その役人の足元に、黒い帳簿があった。

革表紙の、厚い帳簿。普通の税帳簿より重い。


アッシュはそれを見て、胸の奥が少しだけ冷えた。


(黒い帳簿だ)


黒い帳簿は、街の裏側を記す。

表の税ではない税。

払っているのに、払ったことにならない金。


宿に入り、部屋を取る。

女将は値段を言い、鍵を渡し、さっさと下がる。商いの街では会話は短い。


夜、酒場へ行く。

酒場は広く、天井が低い。荷運びたちが肩を寄せ合い、声を落として飲む。

笑い声はある。だが、目は笑っていない。ここにも笑わない目がある。


アッシュが水を頼むと、隣の男が言った。


「旅人か。ここは通るだけの街だ。泊まるな」


「一晩だけだ」


「一晩が一番危ない。

 この街は、泊まった奴から金を抜く」


「税か」


男は首を振る。


「税じゃない。

 黒い帳簿だ」


アッシュは何も言わない。

男が続ける。


「役人がいるだろ。紙をめくる奴ら。

 あいつらは表の税を取る。

 で、別の奴らが夜に来る。『追加の確認だ』って言って。

 断れば翌日、荷が通らない。倉庫が使えない。店の火が消える。

 つまり、死ぬ」


「誰が黒い帳簿を持っている」


男は指を立て、上を指した。


「領主じゃない。

 領主の“会計”だ。

 剣を持たずに街を殺せる奴だ」


アッシュは水を飲み干し、立ち上がった。


(殺すべき相手は、剣を持たない)


剣を持たない相手を殺すのは簡単だ。

だが、それでは“黒い帳簿”は別の手に移るだけだ。

帳簿を潰すには、帳簿が信用を失う必要がある。信用が失われれば、誰も使えない。


夜更け。

アッシュは役所の裏へ回った。

明かりは消えているが、窓の隙間から灯りが漏れている。帳簿を扱う者は夜に働く。


壁を伝い、窓の隙間から中を見る。


会計役らしき男が一人、机に向かっている。

黒い帳簿を開き、銅貨の袋を机の上に積み上げている。

脇にもう一つの帳簿。白い帳簿。表の税帳簿だ。


会計役は白い帳簿に少しだけ記し、残りを黒い帳簿に書く。

差額が、夜の税だ。


扉が開き、別の男が入ってくる。

荷運びの代表らしい男だ。顔が青い。


「……今月もか」


会計役は笑わないまま言う。


「今月もだ。

 街道は危険だろう。賊がいる。夜の照明が要る。

 あなた方が安全に働けるようにしている」


「照明費は、もう払ってる」


「それは表の話だ」


会計役が黒い帳簿を叩く。


「裏の話もある」


荷運びの男は唇を噛み、袋を置いた。

会計役は袋の重さだけで満足し、何も言わずに受け取る。


男が出ていく。

背中が曲がっている。荷を背負う者の背中ではない。金を背負わされた背中だ。


アッシュは窓から離れた。


(この街は、パンの匂いで誤魔化している)


誤魔化しているのは腹だけではない。

怒りも誤魔化している。怒りを爆発させないために、温め直したパンを食べている。


翌朝。

アッシュはパン屋へ戻った。

女主人は忙しくパンを並べている。子どもはまだ端を見つめている。


アッシュは女主人に言った。


「この街で、一番困っているのは誰だ」


女主人は手を止めずに答えた。


「皆だよ。

 でも、一番困ってるのは、声を上げられない人だ」


「声を上げられないのは?」


女主人は顎で掲示板の方を指す。


「荷運び。職人。店。

 税がある。契約がある。紙がある。

 どれも正しい顔をしてるから、誰も悪だって言えない」


アッシュは頷く。


「黒い帳簿を見た者は?」


女主人は一瞬だけ目を伏せた。


「見たら……消えるよ。

 消えるって言っても、殺されるんじゃない。

 仕事が消える。居場所が消える。街から消える」


アッシュは言った。


「消えない方法がある」


女主人が顔を上げる。


「何をする気だい」


「紙を、紙で殺す」


女主人は理解できない顔をした。

だが、彼女は賢い。賢い者ほど、この街で黙る。


アッシュは広場へ向かった。

役所の柵の前に、荷運びたちが集まり始めている。税の支払いだ。

彼らは黙って並ぶ。並ぶのが契約だからだ。


アッシュは列の端に立ち、声を上げない。

ただ、紙を一枚持っていた。


白い紙。

そこに、黒い帳簿から写した数字が並んでいる。

誰が払ったか。いくら払ったか。いつ払ったか。

夜の税の記録だ。


アッシュはそれを掲示板の横に貼った。

誰にも見られないように。だが、見られる場所に。


貼った瞬間、空気が変わる。

人は紙を読む。読む者は声を出さない。だが、読む目が増えると、街の正義の形が歪む。


最初に気づいたのは、荷運びの男だった。


「……これ、俺の名前だ」


次に、別の男が言う。


「俺もだ。

 払った覚えがある。だが、領主の税帳簿にはない」


小さなざわめきが生まれる。

ざわめきはまだ怒号ではない。だが、怒号に変わる前の形だ。


会計役が役所から出てきた。

目が紙に向く。顔色が変わる。


「これは何だ」


会計役は紙を剥がそうとする。

その手が止まる。


周囲に人がいるからだ。

人が見ている場で紙を剥がせば、“ある”と認めることになる。


会計役は声を張る。


「偽造だ!

 誰かが街を混乱させようとしている!」


荷運びの男が言った。


「偽造なら、なぜ俺の印がある。

 なぜ金額が合う」


会計役は答えられない。

答えれば黒い帳簿の存在を認める。認めれば、領主が困る。領主が困れば、会計役は切られる。


会計役は視線を走らせ、誰かを探す。

犯人を探し、紙を「賊の紙」にしたい。


アッシュは人波の中にいた。

目立たない場所。外套の影。名を名乗らない場所。


会計役が叫ぶ。


「紙を貼った者は名乗れ!

 名を名乗らぬ者は賊だ!」


その瞬間、パン屋の女主人が一歩前に出た。

彼女は紙を指差し、言った。


「賊なら、なぜ数字が正しい。

 賊なら、なぜ私の店の分まである」


女主人の声は震えている。

だが、声が出た。


次に、荷運びの男が言った。


「俺たちが払った金はどこへ行った。

 表の税じゃないなら、誰の金だ」


人々が一斉に会計役を見る。

会計役は初めて、剣がないのに追い詰められる顔をした。


役所の奥から、別の役人が出てきた。

領主の代理だろう。彼は紙を見て、会計役を見て、周囲の人々を見た。


そして言った。


「……調査する」


会計役が叫ぶ。


「そんな必要はありません!

 これは偽造で――」


代理役人が言う。


「調査する。

 領主の名で」


領主の名が出た瞬間、会計役の顔が白くなる。

領主が動けば、会計役は切られる。黒い帳簿は燃やされる。

燃やされれば証拠は消える。だが、紙はもう出た。人の目に入った。


会計役は逃げようとした。

その動きに合わせて、誰かが足を出す。会計役が転ぶ。

誰が出した足かは分からない。

だが、その瞬間、街は初めて自分で動いた。


会計役は這いずり、役所の裏へ逃げる。

私兵が来る。剣が来る。剣が来れば、紙の裁きが血の裁きに変わる。


アッシュは動いた。

会計役を追うのではない。

黒い帳簿を追う。


役所の裏へ回り、窓から中へ入る。

会計役の机。黒い帳簿はそこにある。

彼は帳簿を掴み、火鉢へ投げ込もうとしていた。


アッシュは会計役の腕を掴み、捻らず、ただ止める。

会計役の目が見開かれる。


「誰だ!」


「誰でもいい」


アッシュは帳簿を引き抜く。

会計役は叫び、短剣に手を伸ばす。


アッシュはためらわない。

短剣を叩き落とし、会計役の喉元に刃を当てた。


会計役が震える。


「殺す気か」


アッシュは答えない。

代わりに、帳簿を開き、最初の頁を破った。


破った頁を、会計役の胸に押し当てる。

そこには数字。名前。印。


「これを広場へ持っていけ」


会計役は目を泳がせる。


「そんなことをしたら、私は――」


「終わる」


アッシュは淡々と言った。


「だが、街は終わらない」


会計役は唇を噛み、震えながら頁を抱えた。

彼は理解したのだ。自分の正義は終わった。街の正義が始まる。


アッシュは刃を引いた。

殺さない。

殺せば黒い帳簿は別の手に渡る。今は“差し出させる”方が静かだ。


会計役はふらふらと広場へ出ていった。

人々の前に頁を掲げる。

その瞬間、怒号が起きる。


怒号は危険だ。

だが、怒号が起きない街は、ずっと搾られる。


領主代理が叫ぶ。


「鎮まれ!

 これは……これは……」


彼もまた、言葉を失う。

紙が強すぎる。


その日の夕方、役所の前には列ができた。

税を払う列ではない。返金を求める列だ。

返金されるかどうかは分からない。だが、列ができたという事実が、この街の形を変える。


パン屋の女主人が、アッシュに小さく言った。


「あなたが貼ったのかい」


アッシュは答えない。

代わりに、パンを一つ買い、銅貨を置いた。


温め直したパンではない。

焼きたてだった。


「匂いが変わると、街も変わる」


女主人はその言葉の意味が分からないまま、目を潤ませて笑った。

上手くない笑い。だが、今夜は少しだけ温かい。


アッシュは街を出た。

城壁の外で、パンを一口齧る。


味は素朴だ。

だが、腹に落ちる。


次の街へ。次の夜へ。


静かな夜を歩く者として。

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